新規作成  ソース  BlueRose Wiki  ページ一覧  検索  更新履歴  RSS  ログイン

シャマシュ・シェム・ウキン

シャマシュ・シェム・ウキン (Shamash-shum-ukin)

PCが予め知ってていい情報

 シャマシュ・シェム・ウキンは、帝国期新アッシリア王族で、紀元前7世紀後半にバビロニア?王となった人物。

 バビロニア王就任は、父エサルハッドン生前の指名だったが、弟であるアッシリア王アッシュル・バニパルに反乱を起こし、破れた。

GM向け参考情報

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 シャマシュ・シェム・ウキンは、父エサルハッドンが、エジプト遠征の途上陣没した後のB.C.667年にバビロニア?王位に就いた。これは、アッシリア王とバビロニア王とを兼ねていたエサルハッドン生前の指名だったが、B.C.668年に弟であるアッシュル・バニパルがアッシリア王位に就いた1年後の即位だった。
 バビロニアの王位を、あくまでアッシリアの下位に立つものとするため、アッシュル・バニパルによってバビロニア王に任命された体裁を整えたものと考えられる。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 シャマシュ・シェム・ウキンは、B.C.652年にアッシリアに対する反乱に踏み切った。
 ニップル、ボルシッパなど、バビロニア中北部の諸都市は、バビロンの反乱に同調したが、南部バビロニアの諸都市はアッシリア側に着いた。他に、反乱軍には、「海の国」のカルデア人を率いたナブー・ベール・シュマティ(メロダク・バラダン2世?の孫)や、アラム人、西方沙漠をテリトリーにしていたアラブ人部族やグティ人集団、エラム人勢も加勢した。一説に、メルッハ?からの支援もあったと言う。
 B.C.651年、バビロニアのニップル市がアッシリア軍に制圧された。翌、B.C.650年から、アッシリア軍は、バビロン、ボルシッパなど主要都市を攻囲し兵糧攻めに。各都市は、死体を食うところまで追い詰められたと伝えられている。
 B.C.648年、バビロンが陥落し反乱は一応の終結をみた。シャマシュ・シェム・ウキンは、王宮に火を放ち火災に身を投げ自殺した、と伝えられる。アッシリアナブー・ベール・シュマティはエラム勢の下へ逃亡した。
 一説に、バビロニア反乱はオリエント世界を揺るがす動乱のきっかけになった、と言われる。しかし、見ようによっては、元々伏流していたアッシリアの強権支配に対する不満がいよいよ噴出するきっかけになった、とも言える。どちらにせよ、アッシュル・バニパルは、反乱鎮圧後もエラムの地やアラビア半島への遠征を繰りかえさざるを得なくなった。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値14以上」
専門的知識報 シャマシュ・シェム・ウキンが、B.C.652年のタイミングで反乱に踏み切った経緯や事情は、定かでない。直接言及した記録が遺っていないためだ。
 一説に、シャマシュ・シェム・ウキンは、バビロンの文化に影響を受けバビロニア化したため反乱に踏み切った、と言われるが、疑問が残る。バビロニア文化の尊重については、どちらかと言えばシャマシュ・シェム・ウキンよりアッシュル・バニパルの方に分がある。実際、アッシュル・バニパルは、反乱後各バビロニア都市に充てた書簡で「バビロンのジッグラトを修築したのは自分であり、バビロニア各地のナブー神殿を再興したのも自分であり、シュメール語に重きを置いているのも自分である」旨、記している。南部バビロニアの諸都市もアッシリア側にたった。
 これに対し、カルデア人やグティ集団、アラブ人、エラム人など、伝統的バビロニア文化の埒外とされていた諸民族が、反乱に結集した観がある点が注目される。
 しかし、たんじゅんに戦略面からだけ考えれば、エラム勢がアッシリアに大打撃を被ったB.C.653年以前か、少なくともアッシリア軍がエラムに大遠征をおこなっていた間に反乱に踏み切っていてもよさそうなものである。おそらくは、この時期には反乱に踏み切れなかったなんらかの政治的事情があっただろことは、想像に難くない。しかし、それがどのような事情であったかは、[[定かに解明されていない|定かでない]。

GM向け参考情報

 シャマシュ・シェム・ウキンをシナリオ題材に使うとしたら、アッシリアに対する反乱の絡みで使うのが基本でしょう。

 普通は、アッシリア王位が弟であるアッシュル・バニパルに譲られたことを不満として反乱を起こした、と言われます。それは事実の一面であり、実際、アッシリア王位の正当な奪還を主張していたようです。

 しかし、もし、それ「だけ」が反乱の理由だったら、もっと早く反乱に踏み切っていてもよさそうなものです。もちろん反乱を躊躇するなんらかの事情はあったのでしょうが、その返の事情は定かには解明されていません

 この辺に、おもしろいフィクション設定を割り込ませる隙がありそうです。

事跡

B.C.672年
 エサルハッドンの太子だった、シン・イディナプラ死去。シャマシュ・シェム・ウキンは、バビロニア王位の継承者に指名される。この指名は、アッシュル・バニパルの太子指名とほぼ同時になされたようだ。
B.C.668年
 エサルハッドン、エジプトの反乱を鎮圧に向かう途上で陣没。アッシュル・バニパルアッシリア王?位に就く。
同年 エラム王として即位したテウマンがエラム勢を統一。
B.C.667年 即位年
 シャマシュ・シェム・ウキン、バビロニア王位に就く。
同年 アッシリアの遠征軍、エジプトのメンフィスを再占領。
B.C.663年 統治5年め
 アッシリアの遠征軍、エジプトのテーベを制圧。第25王朝?のタハルカ、ヌビアに撤退。アッシリアのエジプト支配、B.C.655年まで続くことに。
B.C.655年 統治13年め
 エジプトのサイス朝(第26王朝?)アッシリア支配を脱す。
B.C.653年 統治15年め
 アッシュル・バニパル率いる遠征軍、エラム軍を追い詰め、テウマンとその息子を戦没させる。
 エラムの勢力圏は2国に分割され、それぞれがアッシリアの属国とされた。
B.C.652年 統治16年め
 バビロニア王シャマシュ・シェム・ウキン反乱を起こす。
B.C.651年 統治17年め
 アッシリア軍、バビロニアのニップルを制圧。
B.C.650年 統治18年め
 アッシリア軍、バビロニアでバビロン他の反乱都市を攻囲。
B.C.648年 統治20年め
 バビロン陥落。シャマシュ・シェム・ウキンは、王宮に火を放ち火災に身を投げ自殺した、と伝えられる。ナブー・ベール・シュマティはエラム勢の下へ逃亡した。
B.C.647年
  バビロニア王カンダラヌ、アッシュル・バニパルの代官として赴任?

人物像

 シャマシュ・シェム・ウキンの人物像は、歴史学的にはまだよく把握されていないようです。

 もし、シナリオの背景にシャマシュ・シェム・ウキンの人物像までを絡めるとしたら、想像に基づくフィクション設定を比較的多く盛り込む余地はあるでしょう。

 ポイントは、やはり対アッシリア反乱に踏み切った理由です。勝算ありと過信して数年で破れたうかつな人物とするか、なんらかの事情を想定して、いやいや反乱に踏み切らざるを得なかった人物とするかで、かなり違った人物像が想定されることでしょう。

活用や検討

活用


検討

  • 検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで)

更新日時:2006/04/12 18:36:35
キーワード:
参照:[歴史上の実在人物]
このページは凍結されています。