新アッシリア時代
GM向け参考情報
用途
「新アッシリア時代」は、アッシリア帝国の成り立ちの謎、オリエント列強諸国との国際政治、戦争、国内の宗教改革、破竹の進撃、王都陥落後のあっけないほどの滅亡、などなど。各種のシナリオ用ネタが多い時代です。
遺跡の背景をシナリオに絡めたいとき、オーパーツと古代史をからめたいときには、うってつけ。
アッシリア文明自体は、諸文明の盛衰が多かったメソポタミアにあって、1400年ほど続いた特異な文明。その時代区分は、出土史料にみられる言語の形態を基準に、古アッシリア時代、中アッシリア時代、新アッシリア時代に大別されている。
新アッシリア時代は、この3大別の内、一番あたらしい時代。
アッシリア史研究の内で、絶対年代における時代確定が、相当になされている時代でもある。アッシリア史に限らず、メソポタミア史研究の分野でも、比類無い緻密な編年整理が組織されている、と言われている。
(アッシリアを含めたメソポタミア諸文明の研究では、古い時代の年代は、現在でも相対年代への依存が高い推定年を元に編年がなされている)
時代区分(ネタ本捜しの目安に)
一言で「新アッシリア時代」と言っても400年近い。資料本などをあたるときは、以下を目安にしてみてください。
- 回復期
- 中アッシリア時代?末に、アラム系?諸族の侵入で喪失した領域を回復していった時期。アラム系諸族との戦闘で、対抗措置を通じて遊牧民の戦術を学んだ、とする説がある。
- 細かな時代区分は、研究者により異論もあるが、概ね、B.C.1000年頃から、紀元前9世紀半ば頃までの150年ほどとされることが多い。ただ、中アッシリア時代末のアッシリアについては、情報が不足しているため、このピリオドの開始時期は、どうしても曖昧にしか言えないでいる。
- 先帝国期
- 回復期の領土回復運動の延長上に、平地メソポタミア北部の制圧が完了した時期。末には政治的求心力が一時的に低下したふしも見られる。この件の評価は研究者によって多少ばらつきがあるらしい。
- 細かな時代区分は、研究者により異論もあるが、大筋では、紀元前9世紀半ばから、紀元前8世紀半ばころまでの100年ほどとされることが多い。
- 帝国初期(または帝国確立期)
- 古代オリエントの国際関係において、北のウラルトゥ、北西のヒッタイトなど、近隣の強国との戦争に乗り出した時代。アッシリアの統治者が、平地メソポタミア南部のバビロニア?王も兼ねることも、なされるようになった。
- このピリオドのスタートについては、ティグラト・ピラセル3世が即位したB.C.744年とすることで、ほとんどの研究者の意見は一致している。ピリオドの終了についても、サルゴン2世による統治が終わるB.C.705年とみることで、ほとんどの研究者の意見は一致している。
- 研究者の間に意見の不一致がみられるのは、いわゆるアッシリア帝国の社会的性格の理解である。
- 付随してアッシリア帝国?がいつからはじまったかの説に大別2系統に分けれる諸説がある。「紀元前9世紀半ばからアッシリアは帝国化していた」とする説と「アッシリアが帝国化したのはティグラト・ピラセル3世が即位して以降である」とする説とである。
- おそらく、この件に関する議論は、回復期から先帝国期にかけての、アッシリアの社会変動がもっと整理されないと、決着はつかないだろう。
- 帝国盛期
- ティグラト・ピラセル3世とサルゴン2世の代に獲得された領土にアッシリア帝国が君臨した時期。
- 概ね、センナケリブ、エサルハッドン、アッシュル・バニパルと統治が継承された時期にあたる。絶対年代で言うと、B.C.704年〜B.C.627年にかけて。
- このピリオドは、アッシリア帝国の絶頂期ではあったが、バビロニア支配を巡る政争、エジプト王朝との戦闘の本格化、新しい支配地に統治体制を確立する努力、など、従来より広域での複雑な問題に帝国が関わらざるを得なくなった時期でもある。
- 帝国滅亡期
- アッシュル・バニパルの死(B.C.627年)の後、新バビロニア?とメディア?との連合により、各地の主要都市が次々と陥落していった時期である。
- B.C.609年、アッシュル・ウバリト2世は、エジプト王朝の助力を得て、反抗戦を戦ったが戦死。この年をもって、アッシリア文明も新アッシリア時代も終了した、と定義される。
- アッシリア帝国は、アッシュル・バニパルの死後、18年間という短期間で滅亡したことになる。この短期間の滅亡については、ロマンチックな説、お堅い説、トンデモ説とあれこれおあります。ネタの捜しどころです。
新アッシリア時代の歴代統治者
各統治者の期区分(ピリオド)への配置は、概ね、よく言われる線で整理しました(便宜的な面もある整理で、部分的な異説もあります)。
- 回復期 概ね、B.C.1000年頃から、紀元前9世紀半ば頃までの150年ほど
- アッシュル・ラビ2世 在位、B.C.1012年〜B.C.972年
- アッシュル・レシャ・イシ2世 在位、B.C.971年〜B.C.967年
- ティグラト・ピラセル2世 在位、B.C.966年〜B.C.935年
- アッシュル・ダン2世 在位、B.C.934年〜B.C.912年
- アダド・ニラリ2世 在位、B.C.911年〜B.C.891年
アッシュル・ダン2世の息子。 - トゥクルティ・ニヌルタ2世 在位、B.C.890年〜B.C.884年
アダド・ニラリ2世の息子。 - 先帝国期 紀元前9世紀半ばから、紀元前8世紀半ば頃とされることが多い
- アッシュル・ナツィルパル2世 在位、B.C.883年〜B.C.859年
トゥクルティ・ニヌルタ2世の息子。 - シャルマネセル3世 在位、B.C.858年〜B.C.824年(登位年に、B.C.860年説もある)
アッシュル・ナツィルパル2世の息子。 - 帝国初期(または帝国確立期) B.C.744年頃〜B.C.705年
- シャムシ・アダド5世 在位、B.C.824年〜B.C.810年
シャルマネセル3世の息子。 - アダド・ニラリ3世 在位、B.C.810年〜B.C.783年
シャムシ・アダド5世の息子。 - シャルマネセル4世 在位、B.C.782年〜B.C.773年
- アッシュル・ダン3世 在位、B.C.772年〜B.C.755年
- アッシュル・ニラリ5世 在位、B.C.754年〜B.C.745年
- ティグラト・ピラセル3世 在位、B.C.744年〜B.C.727年
王位簒奪者と推定されている。 - シャルマネセル5世 在位、B.C.727年〜B.C.722年
ティグラト・ピラセル3世の息子。 - サルゴン2世 在位、B.C.722年〜B.C.705年
シャルマネセル5世の兄弟とも、王統傍系からの王位簒奪者とも言われる。 - 帝国盛期 B.C.704年〜B.C.627年
- センナケリブ 在位、B.C.704年〜B.C.681年
サルゴン2世の息子。 - エサルハッドン 在位、B.C.680年〜B.C.669年
センナケリブの息子。 - アッシュル・バニパル 在位、B.C.669〜B.C.627年
エサルハッドンの息子。 - 帝国滅亡期 B.C.627年〜B.C.609年
- アッシュル・エティル・イラニ 在位、B.C.626年〜B.C.623年頃(?)
- シン・シュム・リシル 在位、B.C.623年頃の数ヵ月
アッシュル・エティル・イラニの後ろ盾になっていた、宮廷宦官だった。 - シン・シャル・イシュクン 在位、B.C.623年頃(?)〜B.C.612年頃(?)
アッシュル・バニパルの息子。 - アッシュル・ウバリト2世 在位、B.C.611年〜B.C.609年
史料(関連アイテムのソースに)
新アッシリア時代の研究には、多種多様な史料が用いられている。シナリオの導入アイテムや、オーパーツの手がかりアイテムの参考にしてみてください。
主な史料には以下のような類別がなされている。
- アッシリアの王碑文 アッシリアのおうひもん
- 古代アッシリア?で各種記念碑、宮殿の壁、角柱柱、円柱柱、記念埋蔵物などに刻まれた碑文の内、ときのアッシリア統治者の1人称形式で語られた碑文類を指す総称。カテゴリー名は、現代の研究者による便宜的なもの。
- 戦勝や征服事業の経過などを顕彰した政治的文書が多いが、中には、宗教的性格の強い奉納碑文などもある。
- アッシリアの王碑文は、アッシュル?市周辺からの出土例が、古アッシリア時代?、中アッシリア時代?には少なく、新アッシリア時代のものは各地から多数が出土している。この落差は注目されると同時に、注意も要す。
- 新アッシリア時代の王碑文は、王の治世中、繰り返し編集と再編集されたものが、諸所の石碑類などに刻まれていった。そのため、同一の出来事について、矛盾する証言が刻まれた碑文がしばしば発見される。
- 研究者の間では、「事件が起きた直後の碑文は、しばらく時間がたってから刻まれた碑文より信頼度が高いことが多い」という判断原則が言われている。
- 年代誌文書
- 王碑文が、統治者の1人称で記されているのに対し、主語を3人称で記すスタイルで刻まれた記録文書。カテゴリ名は、現在の研究者による。
- 年代誌スタイルの歴史文書は、主にバビロニア地方で記録され、アッシリアで記録されたものは希だ、と言われている。アッシュル・バニパルが収集した粘土板文書(通称「アッシュル・バニパル文庫」)の内にも、バビロニアで記された年代誌文書(の写本)が多数あった。
- アッシュル・バニパル文庫の内に含まれているものでは、現在の研究者が「アッシリア・バビロニア関係史」と呼んでいる一連の粘土板文書のシリーズが重要。この文書は、紀元前15世紀ころから紀元前8世紀頃までのアッシリアとバビロニアの関係が要約的に整理された内容になっていた。両国の国境紛争や、その調停についての記録も多く含まれている。
- アッシリア王名表
- 古バビロニア時代からの累代のアッシリア統治者の名が延々記録された文書。カテゴリ名は現代の研究者による便宜的なもの。
- すでに、かなり保存状態のよいものが発掘解読されており、アッシリア国家で公的に信じられていた、歴代統治者の名はほとんどわかっている。しかし、その系譜関係には、いくつか、重要な箇所での疑義もある。
- リンム表
- 「リンム」とは、古バビロニア時代には、アッシリア系都市の都市行政に携わる役職として成立していた役職名。伝統的に任期1年だった。新アッシリア時代には、王国の官僚として、毎年選ばれた。(相変わらず任期は1年)
- 「リンム表」とは、歴代のリンムの名を連ねて記録した文書である。カテゴリ名は現代の研究者による。中には、個人名の記録だけでなく、リンムであった人物の事跡を簡単に付記したもの、リンム誰某の年に起きた重要事件を記したものもある。最後のタイプのリンム表は、特に「リンム年代誌」とカテゴライズされている重要史料。
- 新アッシリア時代については、シンプルなリンム表はB.C.910年からB.C.649年までの分が、各地の出土物を相互参照して復元再構成されている。リンム年代誌については、B.C.857年からB.C.700年までのものが知られている。
- 現在通用している、新アッシリア時代の編年は、アッシュル・ダン3世統治時代の、リンム、ブル・サギレの年に起きた日蝕が、B.C.673年にアッシリア地方で観測できた日蝕のこと、と特定されたことを中心に再構成されたもの。
- 王室書簡
- 時のアッシリア統治者王と、エリートたちとの間で取り交わされた、政治的書簡の総称。点数で言うと2千数百点のものが知られている、と言われる。
- 特に、紀元前8世紀後半から、紀元前7世紀末にかけてのものが多く知られる。統治者の名で言うと、ティグラト・ピラセル3世、サルゴン2世、エサルハッドン、アッシュル・バニパルらが関った書簡類である。
- 条約文書、誓約文書
- アッシリアと他国の間で締結された条約を記したのが条約文書、アッシリア内部で、臣下にあたる下位の者たちが王や王太子(王位継承者)に忠誠を誓う内容の文書は誓約文書、とカテゴライズされている。両者を併せると、数十の文書が知られているようだ。
- 古代オリエントのスタンダードに則して、どちらのタイプの文書も、関係者が条約や誓約の尊守を神々に誓う形式で記されている。
- アッシリアでは帝国期でも伝統的な祭政一致国家の体制は続いていた。そのためアッシリア内部の誓約文書は、特に宗教文書としての側面も強い。
- 内蔵占い文書
- ときどきの内蔵占いの結果が記録された宗教文書の1種。内蔵占いとは、神々に生け贄として捧げられた犠牲獣の内蔵を、神官が見聞し、内蔵の状態から未来を占うもの。犠牲を捧げる際の儀式で、知りたい事柄についてが神々に尋ねられた。
- カテゴリー名として広く通用しているとも言えないが、エサルハッドンと、アッシュール・バニパルの代に、王命でおこなわれた内蔵占いの結果が記録された文書が有名。
- 宗教文書ではあるが、神々に吉凶を尋ねた質問内容から、時々の統治者の関心が覗える政治史史料としての側面も持つ。
- その他
- その他の史料としては、各都市から発掘された行政文書、徴税記録などの経済文書、土地や資産の移動を記録した法的文書が多種多量に知られている。特に、ニネヴェ、アッシュル、カラクなどの遺跡からの出土例が多い。
- また、アッシリアの統治者たちが、主に王宮内の壁面や、記念建造物としての門の装飾として作成させた、浮き彫り壁画も重要な史料とされている。画題は、戦争の情景、国家祭儀の情景、他国からの貢納の情景、などなど。
【参考】
補足
新アッシリア時代と、アッシリア帝国期の区別が曖昧な資料本は、原則として眉にツバつけながら読んだ方がいいでしょう。20年くらい前の本は、その線でまとめられてた本が少なくなかったようですが。(20年くらいの間にいろんなことがわかってきた、ってとこでしょう)
中には、最近の本でも「新アッシリア帝国時代」なんて書いてる本もあります。 ここまでイっちゃってると、逆にトンデモ・ネタのソースと思って、裏読みしてもいいかもしれません。「新アッシリア帝国時代」って、じゃぁ「旧アッシリア帝国時代」ってのは、いつの時代なんだよー? ってとこがツッコミどこなわけです。
活用や検討
活用
活用
- 未発見の王碑文が刻まれた記念碑、なんてのは手がかりアイテムになるわけです。後は、神官とか他国の王とかとアッシリア王の間で取り交わされた、極秘書簡が新たに発見された、とか。
これらのアイテムだと、必ずしも今のイラクあたりで発見されなくても、理由付けにはさほど困らないので、ワールド・ワイドな冒険にも使えるはずです。
重要な改訂の情報
- 内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。
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検討
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参照:[エドム人] [ウラルトゥ王国略史] [アダド・ニラリ3世] [シャマシュ・シェム・ウキン] [シャムシ・アダド5世] [アッシュル・エティル・イラニ] [ウルミエ湖] [トゥクルティ・ニヌルタ2世] [セミラミス] [アッシュル・ダン3世] [アッシュル・ナツィルパル2世] [新アッシリア時代] [ウラルトゥ王国] [シャルマネセル4世] [アッシリアの王碑文] [シャルマネセル3世] [歴史上の実在人物] [アッシュル・ニラリ5世] [シン・シャル・イシュクン] [遺跡] [アッシュル・バニパル] [アダド・ニラリ2世] [サルゴン2世] [シャムシ・イル] [アッシュル・ダン2世] [アッシュルの遺跡] [考古学、歴史研究の関連用語] [ニネヴェの遺跡] [ニムルドの遺跡] [アッシリア地方] [シャルマネセル5世]