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エサルハッドン

エサルハッドン (Esarhaddon)

PCが予め知ってていい情報

 エサルハッドンは、紀元前7世紀の前半に在位したアッシリア帝国?帝王。バビロニア王も兼務し、バビロンなどに対して寛大な政策を採った。

 シリア・パレスティナ地域を従え、エジプトに侵攻。下エジプトを征服し、古代エジプト第25王朝?のファラオ?だったタハルカヌビアにまで追いやった。

追加情報

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 エサルハッドンはセンナケリブの末子だった。
 B.C.694年、アッシリアに従属していたバビロンが、エラム人?に急襲された。当時バビロンには、エサルハッドンの長兄で太子(帝位継承者)だったアッシュル・ナディン・シュミがバビロニア総督として着任していたが、エラムによって拉致され行方知れずになってしまう。(おそらくは、東方で死亡したのだろう)
 しばらく後、エサルハッドンは、父センナケリブにより新たな太子に定められ、バビロニア?総督位に就いた。
 1986年にブリティッシュ・ミュージアムのバック・ヤードから発見された「天命の書板」には、エサルハッドンの太子指名に際して、アッシリアの高官がアッシュル?などの神々にかけて臣従を誓った誓約が記されていた。センナケリブも、末子の太子指名に懸念するところがあったのだろう。ちなみに、この太子指名は、センナケリブの妃、ナキアの策謀もあって決定されたもの、と言われている。
 センナケリブの懸念は的中し、エサルハッドンの兄弟たちに殺害されてしまう。この頃、エサルハッドンは、一時、小アジア?方面に身を隠していたらしい。一説に兄弟たちがエサルハッドンについての讒言を何かとセンナケリブに言い立てたため、とも言われる。ともあれ、センナケリブの死後、エサルハッドンは軍を起こし帝位簒奪者を反乱勢として討伐。帝位に就いた。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 エサルハッドンの在位期間は、B.C.681年〜B.C.669年。帝位に就いた時からアッシリア王とバビロニア王とを兼ねていた。帝位に就くと、父センナケリブがバビロンからアッシュルに“連行”したマルドゥック神の神像を返還することを計画した。ただし、この返還が実現したのは、息子のアッシュル・バニパルの代のことになった。
 その他にも、エサルハッドンはバビロニアに融和的な政策を採ったことが知られている。例えば、アッシュル・ナディン・シュミの拉致の後、センナケリブが破壊したバビロニアを復興している。B.C.678年には、カルデア系のダクリ族の侵攻を阻止している。
 センナケリブは、スキタイ人?との間でも、部族王に皇女を娶らせて和を保った。対バビロニアだけでなく、北方に対しても融和的な政策を採って、シリア・パレスティナ政策とエジプト政策に勢力を割いた感がある。
 B.C.675年、古代ユダヤ王国がアッシリアから離反しエジプトと同盟したことをきっかけに、エサルハッドンは軍を進発。エジプトに侵攻したが、エジプトとパレスティナとの境界部で会戦した後、撤退。B.C.671年に再度エジプトに侵攻。メンフィスまでを落し、下エジプトを制圧した。
 その後、ティルス?がアッシリアから離反し、エジプトと同盟。エサルハッドンは、B.C.669年にティルスを討伐。そのまま、エジプトへ軍を向けたが進軍途上で死没した。
 自らが変則的な太子指名で苦労したエサルハッドンだったが、なぜか生前、長男ではないアッシュル・バニパルをアッシリア王位の継承者に指名していた。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値14以上」
専門的知識 下エジプト制圧に成功したエサルハッドンだが、病弱な人物だったことが知られている。また、占星術や種々の占い、神託などに強い関心をもち、各地の神官を優遇した。エサルハッドンが、神官たちに何かと、占いや神託を求めたことは多数の粘土板書簡から知られている。
小辞典版推奨判定
「魔術+知性 目標値14以上」
専門的知識 エサルハッドンが集めた神託の内ではイシュタル女神からの神託が目立つ。
 イシュタルからエサルハッドンに何度か告げられた「アッシュル神の代官よ恐れるな」との神託が注目される。(「アッシュル神の代官」とは、いわゆるアッシリア王?の正式な呼称。参照⇒ 古代アッシリアの王位

GM向け参考情報

 エサルハッドンは、概説書レベルの歴史書では、よく「古代オリエントを初統一した王」と紹介されています。これは過大な評価で、アッシリアのエジプト制圧は、統一にはほど遠い、一時的なものでした。

 しかし、エサルハッドン個人は、慎重だし、有能な支配者だったと思われます。バビロニアや北方に対しては融和策を採りつつ、メディアの統一には牽制をおこなうなど、判断力も優れていたと思われます。占いや神託に凝っていたことは有名ですが、これも古代人としての慎重さと理解すべきでしょう。

事跡

B.C.694年
 アッシリアに従属していたバビロンが、エラム人?に急襲される。バビロニア総督だった太子アッシュル・ナディン・シュミは、エラムに拉致され行方不明に。(おそらくは、東方で死亡したと思われる)
 太子を喪ったセンナケリブは、バビロンにかなりの破壊を加えた。懲罰の意図だったのだろう。古代記録には、バビロンが一旦壊滅したかに記されている。これは誇張表現と思われるが、バビロンは相当のダメージを被ったようだ。

 しばらく後、エサルハッドンは、父センナケリブにより新たな太子に定められ、バビロニア?総督位に就いた。センナケリブの妃、ナキアの策謀もあって決定されたもの、と言われている。

B.C.681年 即位年
 センナケリブが息子たちにより暗殺される。
 この頃、エサルハッドンは、一時、小アジア?方面に身を隠していたようだが、センナケリブの死後、エサルハッドンは軍を起こしアッシリアに進軍。帝位簒奪者討伐に成功し、帝位に就く。帝位に就いたときからバビロニア?王を兼ねると宣した

 帝位に就いたエサルハッドンは、バビロニアに対しては融和的な政策を採った。父センナケリブによって破壊を被ったバビロンを復興。これには10年ほどかかったらしい。他に、アッシュルに“連行”されていたマルドゥック神像をバビロンに返還することを決めた。(実際に返還されたのは、息子アッシュル・バニパルの代)

B.C.678年 治世4年め
カルデア系のダクリ族の侵攻を阻止。

 エサルハッドンの代、北方ではキンメリア人が活発に活動。次いで、キンメリア人を追うようにスキタイ人も南カフカス地方?に侵出。エサルハッドンは、スキタイ人の部族王に皇女を娶らせた。同時に、ウラルトゥ王国とも友好策を採った。この策がうまくいったのか、スキタイ人らは当時アナトリアにあったフリュギア王国?を襲った。

B.C.675年 治世7年め
 ユダヤ王国がアッシリアから離反。エジプトと同盟。エサルハッドンは、これをきっかけに軍を進発。エジプトに侵攻したが、エジプトとパレスティナとの境界部で会戦した後、撤退。
B.C.671年 治世11年め
 エサルハッドン、エジプトに再侵攻。メンフィスまでを落し、下エジプトを制圧。
B.C.670年頃 治世12年めの頃
 この頃、ザクロス山脈?中北部で、メディア人が政治的統合を果たした。これに対しては、エサルハッドンも遠征軍を派兵したが、メディア王国は力を蓄えていった。

 シリア・パレスティナでは、ティルス?がアッシリアに同盟し、エジプト側と同盟。

B.C.669年 治世13年め
 エサルハッドンは軍勢を率いティルスを討伐。そのまま、エジプトへ軍を向けたが進軍途上で死没。

 エサルハッドンは、生前、アッシュル・バニパルをアッシリア王位の継承者に指名、その異母兄シャマシュ・シュム・ウキン?をバビロニア王位の継承者に指名していた。

人物像

 エジプト制圧を達成し、遠征先で陣没した人物ですが病弱だったこと、占いや神託に凝っていたことなど。「ブルーローズ」のシナリオ題材としては、使いようのある人物だと思います。

 天命の書板絡みのシナリオなどどうでしょう。

活用や検討

活用


検討

  • 検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで)