シン・シャル・イシュクン
- シン・シャル・イシュクン (Sinsharishkun) 簡易版
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シン・シャル・イシュクンは、アッシリア?最末期、アッシリア帝国?滅亡期の人物。おそらくは、アッシュル・バニパルの息子と思われる、紀元前7世紀頃の人物。
同時代の記録はほとんど伝っていない人物だが、あるいは、紀元前3世紀にベロッソスが「サラカス(Saracus)」として記した人物である可能性は高い。
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シン・シャル・イシュクンの名は、ウルクの遺跡?から発見された石碑に刻まれた、彼のバビロニア?統治7年目と記された碑文に見られる。
この碑文に基づいて解釈されたシン・シャル・イシュクンの人物像には、主要なもので2通りの説がある。
1つは、「シン・シャル・イシュクンは、アッシュル・エティル・イラニの兄弟」とする説。
どちらかと言えば、こちらが主流の説で。よく、「アッシュル・バニパルがシン・シャル・イシュクンを後継者に指名したため、兄弟のアッシュル・エティル・イラニは反逆し、アッシュル・バニパルを殺害した」と説かれる。
アッシュル・エティル・イラニの兄弟説では「シン・シャル・イシュクンは、メディア王国と新バビロニアとの連合軍がニネヴェを攻め落とした時に、落城と共に死んだ」とされる。ニネヴェの落城は、B.C.612年のこととされている。
もう1つの説は、「シン・シャル・イシュクンは、アッシュル・エティル・イラニがバビロニアを統治するにあたってのバビロニア王名」とするもの。
この説は、どちらかと言えば、異説に近いが、かと言って根も葉もない説でもない。
しばしば、「アッシュル・エティル・イラニは、アッシュル・バニパルによって後継者に任じられ、バビロニア王に封じられた」と説かれる。
アッシュル・エティル・イラニの同一人物説では、「シン・シュム・リシルに王位を奪われ死亡した」とされることが多い。B.C.623年頃のことらしい。
なお、シン・シャル・イシュクンは、アッシリア帝国?最後の支配者と目されているアッシュル・ウバリト2世の兄弟だったかもしれない。
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参照:[歴史上の実在人物] [アッシュル・ウバリト2世] [新アッシリア時代] [アッシュル・エティル・イラニ] [シン・シュム・リシル]