ヴィクトリア瀑布
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ヴィクトリア瀑布(ヴィクトゥリア・フォールズ)は、アフリカ南部で、ザンベジ川?の中流域に位置する滝。
ザンビア共和国とジンバブエ共和国との国境部に広がる滝は、100m〜150mほどの落差に対して、およそ1.7kmほどの幅を持つ滝で、大変珍しい景観をなしている。地名は、U.K.(連合王国)のヴィクトリア女王?の名にちなんだもの。
「世界3大瀑布」の1つ、とも言われ、1989年からユネスコ世界遺産の自然遺産に登録されている。自然遺産は両国共同管理。2008年現在、両国はそれぞれの領域に国定自然公園も制定している。
ただし、両国国境の移動は簡単ではない。特に、ザンベジ側からジンバブエ側への入国審査は厳しく、しばしば入国拒否される者もいる(2008年現在、各国の非難を受けているジンバブエの独裁的な政権は、ことに報道関係者などの入国に神経質だ)。
ちなにみ、ジンバブエ側からザンビア側への入国審査では、通例、入国拒否のような対処は無いようだが、「審査にかかる料金が高めだ」とも言われている。
【参照イメージ】
(ヴィクトリア瀑布遠景,Wikimedia Commons)- ヴィクトリア瀑布に関するフリー・ファイル集アーガイブ(Wikimedia Commons)
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「ヴィクトリア瀑布(ヴィクトゥリア・フォールズ)」の現地語名は、“Mosi-oa-Tunya(モシ・オ・トゥニャ)”で、「雷鳴の轟く水煙」といった意味。
滝は、ジンバブエ領北縁の西部、東西に長い、ザンビア領南縁の中西部に位置する。ジンバブエ側では、ヴィクトリア・フォールズ・タウンが、サンビア側でがリビングストン(リヴィングステァン)の町が至近。
上流部では、3月〜11月が雨季で、10月〜翌4月。瀑布の勢いが盛んな時期は、例年2月〜5月で、4月がピークと言われている。
ピーク時の前後には、「モシ・オ・トゥニャ(雷鳴の轟く水煙)」の名の通り、ドラムを連打しているような滝音が轟く。水煙の方は、400mほど立ち上ることは多く、日によってはさらに高くまで上ることもある。水煙は50km離れた地点からも遠望でき、満月の夜には、水煙の間に月虹がかかる。
ただし、流量の多い時期には、滝裾から滝面を見上げても、水煙に阻まれて見通すことができない。流量の多い時期は、「滝壷のあたりは、いつも土砂降りのようなものだ。ただし、雨が下から上へ向かっているんだが」と言われている。
滝の周囲は、野生動物や野鳥が多い。下流のジンバブエ側では、川魚の棲息も多い。ジンバブエ側の自然公園は「ヴィクトリア瀑布自然公園」、ザンビア側の自然公園は「モシ・オ・トウニャ自然公園」。
瀑布は、地域がU.K.(連合王国)の植民地だった20世紀初頭には、すでに景勝地として知られていた。ことに、セシル・ローズ?が発案したヴィクトリア・フォールズ橋(ヴィクトゥリア・フォールズ・ブリィヂッ)?が1905年に完成してからは、観光地として発展した。
しかし、1966年〜1979年には、ジンバブエ・ローデシア戦争?が戦われ、国境部も、ザンビア側から封鎖された。ヴィクトリア瀑布の一帯が、観光地として賑わいだしたのは、ジンバブエの独立後、1980年代の後半頃から。1990年代には、毎年30万人ほどが訪れるようになっていた。
幅広い滝の珍しい景観は、ザンビア - ジンバブエ国境部のザンビア川で、一旦幅広く広がったザンベジ川?が、落下後は、ジンバブエ側の狭い渓谷沿いにジグザグに流れることで形成されている。
瀑布の手間では、ザンビア側の川筋は、砂岩を主にした河岸段丘に縁取られている。滝の手前数百kmに渡っては幅の広い川床の間に多数の中州を持ち、網の目状に流れてくる。
滝を成している断崖は、玄武岩室の岩地に長く開いた裂け目になっている。100m〜150mほどの落水距離は、ナイアガラの滝?の落差の2倍はある。ザンビア側で横幅が広がった川は、そのままの幅で裂け目に流れ込む。裂け目の底、滝つぼにあたる部分も幅1.7kmほどに渡っているが、最も深い箇所の水深は108mに及ぶ。
ジンバブエ側に落下した水は、裂け目の東端から1/3ほどの位置に開いた幅110mほどの谷間から、ジグザグ・コースの渓谷に流出していく。
ヴィクトリア瀑布に最初に到達した欧米人は、U.K.のデビッド・リビングストン(ディヴィッド・リヴィングステァン)?で、1855年に到達。1852年〜1856年のザンベジ川流域踏破行の途上のことだった。ヴィクトリア女王の名にちなんだ地名をつけたのも、リビングストン。
欧米で、瀑布の景観が広く興味を引くようになったのは、おそらく1880年に、イングランド?で地域の詳細な地図も記載した探査記録が公刊された後、と思われる。
瀑布の存在は、ボツワナなどで、欧米人の間にも伝聞として伝わっていたが、多くは現地人伝説、と考え半信半疑だったようだ。あるいは、リビングストン以前に、アラブ人交易商の間に、瀑布の存在を実見していた者もいたかもしれない、と思わせる歴史上の記録も散見されている。
【参照イメージ】
(ヴィクトリア瀑布空撮写真,Wikimedia Commons)
さらに詳しい情報
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ヴィクトリア瀑布(ヴィクトゥリア・フォールズ)は、玄武岩質の岩盤の各所に走った、砂岩が侵食されることで形成された。現在から20万年前〜10万年前頃は、瀑布は未形成だった。ザンベジ川の流れも現在とは逆方向に流れていたことが、地質調査から推定されている。
侵食によって滝が開けた後も、現在のように幅の広い落水が形成されるまでには、なお長い時間がかかったようだ。
現在のヴィクトリア瀑布周辺からは、様々な時期の石器人の活動痕跡を遺した遺跡が発掘されている。出土遺物としては、300万年ほど前のホモ・ハビリスの化石遺骨、5万年ほど前の中石器群、1万年前ほどから2千年前ほどにかけての新石器などが知られている。
2千年前頃まで、地域で主流だった石器人集団は、鉄器も使うコイ・サン族(の祖先集団)に対して劣位になり、さらに後、コイ・サン族も新たに渡来したバンツー系のエスニック・グループによって劣位に立たされた、と推測されている。
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【参照地図】
(Victoria Falls (map of the waterfalls) ,CZECH TECHNIACAL UNIVERSITY EXPEDTION)
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