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ティベリウス湖

ティベリウス湖 
ティベリウスこ
(簡易版 )

簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。

アラビア語名(音写)
Buhairet Tabariyya(バハイレット・タバリヤ)
英語表記
Lake Tiberias

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 「ティベリウス湖」は、西アジア地中海東岸、内陸を流れるヨルダン川流域で、ゴラン高原西方の南域に近接している淡水湖。北から、ヨルダン川が流入し、南に流出していく。

 『聖書?』に記された「ガリリー海(ガリラヤ海)」の古代ローマ名が「ティベリウス湖」で、英語他に継承された。

【参照地図】

やや詳しい情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。

 「ティベリウス湖(ガリリー海、ガリラヤ海、バハイレット・タバリヤ)」の、現代ヘブライ語による地名は、ユダヤ教聖典?(『旧約?』)の句から採られた「ヤム・キネレト(Yam Kinneret,キネレト海)」(『民数記?』、『ヨシュア記?』)。又は、「キノル湖(kinnor)」。

 ヘブライ語版『新約聖書?』での古称は、「ゲネサレ海」。


 湖面の南北長は20km、最大東西幅は12km。最大深度43m。大地溝帯を流れるヨルダン水系の一部で、湖面高度は、海面下209m。

 ヨルダン地溝帯にあるため、崖に囲まれた谷あいの湖のような地形になっていて、しばしば突風に見舞われる。『新約聖書?』の『マルコ伝?』には、ナザレのイエス?が湖を騒がせた嵐(突風)を鎮めた物語が伝えられている。


 1964年に、ティベリウス湖から敷設されたイスラエルの国営水道は、イスラエル領有地中部の他、現在の実効支配地のかなり部分で、生活用水に用いられている。

 ティベリウス湖から供給される生活用水はシル・ヨルダン?や、ヨルダン領にも供給されている。近年、消費水量の増大と、気候変動による水量の減少が重なって、冬季の乾燥が著しい年の水道断水や、死海縮退などの問題が生じている。

 根本的対策として、ヨルダン川流域の農作物の品種変更などが奨励されている。

 従来、ティベリウス側流域でも、ヨルダン領でも、輸出用の商品価値が高い農作物としてバナナなどが栽培されていたが、これをピーナッツなどの、少ない水で栽培できる作物に変更することが奨励されている。

 ティベリウス湖は、古代から魚類が豊富な湖として知られてもいた。「聖ペテロの魚」として知られる淡水魚が特産品として有名。ただ、古くから湖で営まれてきた漁業も、近年の水資源枯渇で、かなり圧迫されている。

 他に、ティベリウス湖一帯は、イスラエル湖の観光名所として開発され、多数の観光客を集めるスポットとして成長していた。しかし、2006年夏に起きた、レバノン南部からのヒズボラによる攻撃と、それに対するイスラエル軍の反撃とにより、イスラエルの観光産業は、壊滅的な打撃を受けてしまった。


 パレスティナ地域には、19世紀末から、主に、当時のヨーロッパ諸国で強まっていった反セム主義?(ユダヤ教徒排斥)を避けて移住してきたユダヤ教徒が増えていった。(それ以前からパレスティナ地域に居住していたユダヤ教徒もいたが、むしろ少数派だった)

 ティベリウス湖周辺地域には、1909年に初期のキブツ?(入植者による共同農場)が設けられた。

 第1次世界大戦後の1923年、旧オスマン=トルコ領だったシリア・パレスティナ地域?で、パレスティナを信託委任統治領としたU.K.(連合王国)と、シリアを委任統治領としたフランス共和国とが、パレスティナ国家とシリアとの境界線を策定。最初は、ティベリウス湖の北東岸はシリア領とされたが、後、湖岸10mほどの幅までを含めて、湖面全域がパレスティナ領とされた。

 1947年に国連から提案されたプランでは、ティベリウス湖一帯もイスラエル領として分割することが提案されていた。1948年〜1949年のアラブ・イスラエル戦争(第1次中東戦争)の間、湖の東岸はほぼ、シリア軍に制圧され、1949年の停戦合意でシリア領とされた。

 1967年の6日間戦争(第3次中東戦争)で、イスラエル側がゴラン高原を制圧したとき、ティベリウス湖一帯も再征服。現在に至る。


 ティベリウス湖一帯の地域についての、比較的詳しい歴史伝承が知られる古代では、おそらく、カナン人と、アモリ人との勢力圏だった時期が最も古いだろう。その後、古代エジプトの王の道?の一部となり、古代エジプト王朝と、フェニキア地方との交易ルートとなった。

 古代エジプト王朝は、地域に対して宗主王朝として君臨しただけだったが、その後、古代イスラエル王国(北王国)と、フェニキア系都市国家との間の緩衝地帯、あるいは争奪地のような地域になった。

 紀元前1千年紀になるとアッシリア、アケメネス朝、セレウコス朝、ハスモン朝、古代ローマと、主要な支配国だけでも順次移っていった。近隣政権による争奪や、短期間の支配も加えると、支配圏の変遷はさらに複雑になる。この間、ガダラ、ヒッポス、ティベリアスなどの古代都市が、湖周辺に築かれた。

 B.C.1世紀〜A.D.1世紀頃には、湖岸には多数の大きめの漁村が営まれ、漁場として活況を呈していた、と伝えられる。ナザレのイエスが、後に使徒と呼ばれるようになるシモン(シモン・ペテロ)、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの4人を弟子にしたのは、ティベリウス湖周辺のことだった。

 福音書に記された「イエスの山上の垂訓」は、ティベリウス湖を見下ろす近隣で述べ伝えられた、とされている。他にも、イエスがティベリウス湖とその周辺で示したとされる奇跡譚は多い。

 A.D.135年、古代ユダヤ人の第2次対ローマ反乱、バル・コクバの乱勃発。乱の後、ローマ当局は、エルサレムとその周辺からユダヤ人を追放した。ティベリウス市やティベリウス湖周辺にも、かなりの数のユダヤ人が移入した。『エルサレム・タルムード?』と呼ばれることになる宗教書が編まれたのは、ティベリウス市でのことだった、とも言われるが諸説ある

 ビザンツ時代までに、ティベリウス湖周辺は、クリスチャンの巡礼地になった。その後、地域の支配権は、主にビザンツ帝国とササン朝ペルシアとの間で争奪された。633年から、アラブ・イスラム勢の本格的侵出がはじまり、地域は635年までには、イスラム勢に制圧された。ティベリウス以外の都市は廃れていった。

 12世紀に一帯は、十字軍国家に領有されたが、これは、1187年にサラディン率いるイスラム勢に奪回された。

さらに詳しい情報

  • 「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。

 ヨルダン川が流れ、ティベリウス湖も位置するヨルダン大地溝帯?は、アフリカ・プレートから、アラビア半島を載せたサブ・プレートが分離する運動で形成されている。

 地域では現在も地震が多く、地溝帯形成時の前後には、火山活動も活発だった。その結果、地域の地質には、玄武岩などの火成岩が多い。

 湖の水源は、ヨルダン川上流からの水流だが、実は湖水の湖底で、地下からの湧き水(泉)も水源になっていることが、確認されている。

GM向け参考情報

 「増補待ち」。

別称類

主要国の言語

  • アラビア語名(音写)=Buhairet Tabariyya(バハイレット・タバリヤ)
  • 英語表記=Lake Tiberias
  • フランス語表記=Lac de Tib?riade
  • スペイン語名=Mar de Galilea
  • ロシア語表記=Тивериадское озеро
  • 中国語表記=加利利海

その他

  • 現代ヘブライ語名(音写)=Yam Kinneret(ヤム・キネレト)
  • 古代ヘブライ語名(音写)=kinnor(キノル湖)
  • 古典ギリシア語名(音写)=Gennesaret(ゲネサレト海)
  • ラテン語による古称=Mare Tiberias(ティベリウス海)

活用や検討

活用

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検討

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更新日時:2008/06/03 07:58:03
キーワード:
参照:[ガリラヤ海] [ランド・マーク] [アジア州のランド・マーク]
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