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ラッカ市

ラッカ市 ラッカし 暫定版

記事内容、追加調査中の暫定版です。

アラビア語名の音
Ar Raqqah(アル・ラックァー)
英語、他
Rakka(ラッカ)

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 ラッカ市は、シリア=アラブ共和国北部に位置するラッカ県の行政中心。県域の概ね中ほどで、ユーフラテス川北岸に位置。

【参照地図】

追加情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「交流+知性 目標値8〜10」、「情報+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 ラッカ市は、ユーフラテス・ダムの下流で東北東40kmほどに位置。アレッポ市?の東南東160kmにあたる。人口、およそ19万人(2000年推計)。ラッカ県の行政中心であると同時に、ラッカ県の過半を占めているラッカ郡の行政中心も兼ねている。シリアの他の県同様、大統領に任命された県知事が、中央政庁から派遣され県を統治。
 大雑把に見ても、ラッカ市には、県の居住人口の1/5以上1/4未満が居住している見当になっている。
 周囲の1次産品の集散地。近傍で石油埋蔵が確認されている。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 現在のラッカ市は、オスマン=トルコ帝国が地域を統治した1683年に創建された。古代ラッカ市及び、古代ラッカからサラセン帝国時代に発展したラッカ市とは場所がずれている。
 17世紀に都市が再建されるまで、一帯には古い砦の遺構などが遺っていた程度だった。当時、これらの砦跡は、アラブ系ベドウィン族など、遊牧民のキャンプ地に利用されていた。
 現在のラッカ市は、オスマン時代に基礎が築かれた後、第1次世界大戦?後のフランス統治時代に再開発された。第2次世界大戦?後に地域の綿花栽培事業が軌道にのると、さらに発展。市域に史跡が遺っていないわけではないが、繰り返された開発で、多くは移築されたりした。工業地の下に埋まっている史跡も多い。
 ラッカ市の近傍には、ユーフラテス川の河畔に古代ラッカの遺跡が遺る。この遺跡は、時としてドゥラ・エウロポスの遺跡?と混同されるが別遺跡。
 ラッカ市の南西54kmには、古代アッシリアのレサフェの遺跡?も遺る。

  • 「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
さらに詳しい情報 ラッカ市の前身にあたる古代都市は、セレウコス朝?のセレウコス2世?が紀元前3世紀の後半に創建したカリニコス(又は、カリニクム)だった。それ以前に、古代マケドニア?のアレクサンドロス3世?の命で、地域の拠点砦のような城塞都市が建造されていた。この城塞は、都市としては小規模で、駐屯部隊の拠点砦と思った方が実態に近かったと思われる。
 カリニコスは、ビザンツ時代の紀元5世紀半ば頃、数年間レオントポリスと改名されたことがあるが、再度カリニコスの名に戻された。
 A.D.542年、ササン朝ペルシアが地域に進攻。カリニコスは壊滅状態になったが、さほどたたない内にビザンツ皇帝の命で再建された。しかし、地域からビザンツ帝国の勢力が退くと、カリニコスを中心とした地域は、しばらくシリア系地方領主の勢力圏とされた。この頃までに、近傍のシリア系キリスト教の修道院が有名になっていた。
 5世紀前半、地域はアラブ人イスラム勢力に席捲された。カリニコスの街は、アラブ勢と条約を結び支配圏を委ねた。この後、アラビア語文献に、「アル・ラックァー」の都市名が記されるようになった。しかし、シリア人の間では、なお数世代、都市は「カリニコス」と呼ばれ続けた。
 ウマイヤ朝時代の末期、拠点都市としてのラッカの重要度は急激に高まり、都市は発展した。
 771年、アッバース朝のカリフ、アル・マンスールが、当時のラッカ市の西に隣接して、駐屯部隊の拠点アル・ラーフィカを建設。
 796年、カリフ、ハルーン=アル・ラシードは、ラッカに宮廷を設けた。この頃から、旧ラッカ市とアル・ラーフィカが融合して、より大きな都市に発展。アッバース朝の主要な官庁は、バグダードに残っていたが、アル・ラシードの治世の間、ラッカは、北アフリカから内陸アジアに渡るアッバース朝勢力圏の政治、経済の中心地として機能した。ラシードの宮廷が設けられてから13年間ほどのことになる。
 ハルーン=アル・ラシードの没後、アッバース朝の中心は再度バグダードに戻った。ラッカ市は、しばらくアッバース朝の西方の中心都市として栄えたが、アッバース朝の勢力が衰えるに連れ衰微。9世紀末頃から、ハムダーン朝が事実上の地方政権として地域を支配するようになると、一地方都市にまで零落した。
 さらに後、12世紀頃から13世紀前半、ザンギー朝からアイユーブ朝の時代、ラッカは、農作と工芸、特に陶芸で有名になった。しかし1260年代頃からモンゴル征西軍の脅威にさらされる。ラッカ市の壊滅については、1288年に、廃墟となった都市の最後の住民が殺戮された、旨の記録が残っている。

GM向け参考情報

環境帯

 気候帯としては、ステップ性の乾燥気候に属す。市域や周辺地域では、ユーフラテス川、及びバリク水系?の水利を利用した灌漑で、綿栽培が盛ん。

活用や検討

活用

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重要な改訂の情報

  • 内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。
    (誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要)
  • 2007-09-08 (土) 23:45:53 鍼原神無 : ラッカ県の項を新たに起こし、こちらの項目にも関連した増補と再整理を加えました。
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検討

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更新日時:2007/09/08 23:46:42
キーワード:
参照:[ラッカ県]
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