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マルティニーク島地域圏

マルティニーク島 マルティニークとう (簡易版)

簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。

フランス語表記
Martinique
英語表記
Martinique

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 「マルティニーク島地域圏」は、フランス共和国の海外行政圏の1つ。

 カリブ海東部海域で、ウィンドワード諸島?内のマルティニーク島で営まれ、海外県も兼ねている。

【参照地図】

やや詳しい情報

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 マルティニーク島地域圏は、現在のフランス共和国で営まれている4つの海外地域圏の1つ。“本土領”の地域圏とは異なり、1つの県(海外県)が、地域圏を兼ねている扱い。

 2003年に海外地域圏を兼ねることになった。植民地から海外県に変更されたのは、第2次世界大戦?後の1946年のこと。


 首府(県庁)は、フォール・ド・フランス?(Fort-de-France)。島北部の南西岸に位置。元々は、植民地時代に、軍事拠点として設けられた城砦(Fort)サン・ルイ砦を中心にした港町だった。

 1902年のプレー山?噴火で、山麓にあった旧行政中心のサン・ピエールが壊滅。同年、行政府がファール・ド・フランスに移転された。ちなみに、サン・ルイ砦は、現在もフランス軍の施設として利用されている。

 フォール・ド・フランスは、地域行政府と地域議会を擁し、フランスの国民議会にも代議員の議席を有す。地方議会の議長が、行政府の長を兼務するが、これは“本土領”の県と同様の制度。

 かつてのの行政中心サン・ピエールは、「アンティル諸島のパリ」と呼ばれた港町で、フランス領だけでなく、カリブ海域の有力な地域センターになっていた。そうした歴史の上に、マルティニーク島は、現在も多数の観光客を引きつけている。


 土地面積は、1,128平方km。

 40万人をやや越える人口が居住(2007年)。平均人口密度は、1平方kmあたり355人の計算になるが、例えばフォール・ド・フランスには1/3強の人口が集住している。他の人口は、島の南部に偏っているようだ。


 住民は、アフリカ系黒人、黒人と白人の混血であるムラータが多い。どちらも、ほとんどが植民地時代の奴隷の子孫だ。少数派には、白人、インド系を主にした南アジア系、華人(中国系)もいる。

 フランス語?が公用語に定めらているが、日常的には、フランス語ベースのアンティル・クレオールが用いられている。

 宗教事情は、カソリック信徒が多数派。


 植民地時代は、サトウキビやコーヒーのプランテーションで栄えた。「マルティニーク」の島名は、カリブ族の言葉で「花(の島)」を意味したとも、「女性(の島)」を意味したとも言われる。島名のごとく、砂糖の貿易で栄えたが、砂糖交易の価値が失われるにつれ、経済的に凋落した。

 現在の主要産業は、観光業、及び関連したサービス業、そして農業。主作物は、サトウキビ、コーヒー、バナナなど。精糖業、ラム酒醸造などの食品加工業も営まれている。

 マルティニーク地域圏は、現在でもカリブ海域の内では、経済状況が良好な方だ。地域圏のGRPは、2006年の統計で76億5千万ユーロ、96億1千万U.S.ドルに相当した。同年の島民1人あたりGRPは、19,050ユーロ、23,931U.S.ドルに相当した。(どちらの比較もMERベース)

 観光地であることも関わって、俗に「フランス“本土”で手に入る物は、最新のブランド品まで含めて、なんでもマルティニークで手に入る」とも言われている。そのせいか、域外からの輸入額は、輸出額の4倍ほどの入超になっている。

さらに詳しい情報

  • 「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。

 1493年、クリストファー・コロンブス?が海域に到来。この頃は、カリブ族?の部族集団が先住していた。この頃は、カリブ族?の部族集団が先住していた。その後の研究で、カリブ族が到来する以前は、アラワク族?が先住していたことが解明されている。

 17世紀前半、まず、U.K.(連合王国)の入植団が入り、前後してフランスの開拓団100人ほどがセント・キッツ島?から入植。島の北西部で、後にサン・ピエール?に発展する植民地を開拓しはじめた。

 サトウキビの農耕地を開拓する入植者と、カリブ族の部族集団は果敢に戦ったが、4、5年の内に大勢は決し、劣位に追い込まれたカリブ族は、フランス人たちにより1660年頃までには島を追われた。この過程で、17世紀中葉頃には、フランス系植民地が、マルティニーク島で優位にたっていった。

 1642年、ルイ13世の勅令で、フランスのサトウキビ・プランテーションで、アフリカからの黒人奴隷を用いることが公認された。

 18世紀後半、ヨーロッパでの7年戦争?(1756年〜1763年)の余波で、マルティニーク島は、1762年にU.K.軍に占領された。敗戦処理をした1763年のパリ条約?では、フランス王国?は、マルティニーク島などの領有権を、カナダ全域の領有権と交換した。当時のフランスにとって、砂糖の交易が莫大な収益をもたらす事業だったため、と思われる。

 1794年から1802年にかけて、ヨーロッパでフランス革命戦争?(革命政府をヨーロッパ諸国との戦争)が闘われている間、マルティニーク島などカリブ海域のフランス領は、U.K.軍の侵攻を受けた。この時は、アミアンの講和?によって、領有件はフランスに返還された。

GM向け参考情報

 「増補待ち」。

別称類

主要国の言語

  • フランス語表記=Martinique,r?gion fran?aise d’outre-mer
  • 英語表記=Oversea region of Martinique
  • スペイン語表記=Martinica,departamento de ultramar
  • アラビア語名の音(調査中)
  • ロシア語表記=Мартиника,заморский департамент
  • 中国語表記=馬提尼克海外大区

リンク

関連項目

資料リンク

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更新日時:2008/04/20 15:50:48
キーワード:
参照:[フランス共和国の海外地域] [北アメリカ州のランド・マーク] [マルティニーク島]
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