シャムシ・アダド5世
PCが予め知ってていい情報
シャムシ・アダド5世は、紀元前9世紀末のアッシリア王。
シャルマネセル3世の息子で、父の跡を継いだが、シャムシ・アダドと息子で次代王アダド・ニラリ2世の代以降、アッシリアの勢力は一時的に停滞していった。この停滞の経緯、背景理由などについては、諸説あって定かには解明されていない。
追加情報
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10〜12」
- やや詳しい情報 シャムシ・アダド5世の先代、シャルマネセル3世の統治晩年、ニネヴェ?を中心にアッシリア領の中核部で反乱が起きた。この反乱については、記録が曖昧で、規模、背景、経緯などは、未だ定かに整理されていない。
- 本格的な反乱と言うよりは、急激に変化した体制に対する不満が暴発した、といったことだったかもしれない。この乱は、シャムシ・アダド5世が即位後数年で鎮定。古代記録によれば、シャムシ・アダド5世による乱の鎮定には、バビロニア?勢の助勢も効があったらしい。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値12〜14」
- 詳しい情報 シャムシ・アダド5世の治世は、B.C.823年〜B.C.811年。
- この頃、先代王シャルマネセル3世が、帝国直轄領にした幾つかの地域で、代官たちが独自の年号を用いた碑文が知られている。この件とシャルマネセル統治晩年〜シャムシ・アダド統治初期の騒乱とを結びつけ、アッシリアの国家統合が緩んだ、と推測する説もある。
- しかし、現在までのところ、全支配域に渡った内戦のような状況を証拠立てる物証は、確認されていない。国家統合が緩んだのではなく、シャルマネセルの代の直轄領拡大と、属州制度とが軌道に乗るのに時間がかかった、と見る説の方が有望そうだ。
- ともあれ、シャムシ・アダド5世と、次代(息子)のアダド・ニラリ3世の治世には、シャルマネセル3世の代に一端はアッシリアに服属したシリア・パレスティナ地域?の諸都市が離反。貢納品も届けられなくなる。アッシリアが、これらの都市国家の再征服に乗り出すのはティグラト・ピラセル3世の代からのことになる。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値14以上」
- 専門的知識 紀元前9世紀〜紀元前8世紀のアッシリアでは、直轄領に派遣された代官の印章が多く遺されるようになる。これら代官の多くは宦官でもあった。アッシリアで、宦官が重用され要職に就くようになるのは、この時期からのことである。
- 未だ充分論証されてはいないが、宦官の重用は、アッシリアの王朝、及び、統治機構の変質を予想させる。中アッシリア時代末期の衰微期に国家崩壊一歩手前まで追い詰められたアッシリアが復興するに連れて、あるいは、王朝の内宮と外宮の分離、つまり統治体制の本格化が進んだのかもしれない(?)。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+直観 目標値14以上」
- インスピレーション シャムシ・アダド5世の妃で、次代王アダド・ニラリ3世の王母になるサンムラマト?は、ヘレネス?(ポリス時代の古代ギリシア人)が、「古代オリエントの全域を支配した女帝」と伝えた伝説上の人物、セミラミスのモデル、とも言われている。
- 小辞典版推奨判定
- 「言語+知性 目標値14以上」
- 専門的知識 サンムラマトとセミラミスとを同一視する説は、「語呂合わせ的な語源論による説」と言われ、現在の歴史言語学では論拠薄弱、とされている。
GM向け参考情報
シャムシ・アダド5世は、かなりマイナーな人物です。高校世界史級では聞いたこともない、と言う人もいるでしょう。セミラミス(サンムラマト?)など、美味しいネタも絡ませることができるので、料理法に工夫のしがいのある人物と思います。
事跡と人物像
シャムシ・アダド5世の事跡はあまり整理されていません。その治世中のできごとにも、未だに研究者の間での議論が多い。と、言うことはフィクションを絡ませる余地が多いと言うことです。
学問的には諸説ある、という前提で。とりあえず、アッシリアの領土を拡大させた父、シャルマネセル3世がはじめた新しい統治体制をうまく軌道に乗せるのに手間取った統治者、という見方をお勧めしておきます。
人物像については、シナリオに使う題材との関連で、かなり幅を持たせることもできるでしょう。シャルマネセル3世とティグラト・ピラセル3世との橋渡しをした人物、ということは押さえておくといいと思います。もしかしたら、凡庸な人物だったかもしれませんが、決して無能な人物だったとは思えません。
キーワード:
参照:[新アッシリア時代] [セミラミス] [歴史上の実在人物] [アダド・ニラリ3世] [シャルマネセル3世]