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シャルマネセル3世

シャルマネセル3世 
シャルマネセル さんせい
(Shalmaneser III) 
暫定版

記事内容追加調査中の暫定版です

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 シャルマネセル3世は、紀元前9世紀の後半に活躍したアッシリア?の支配者。父、アッシュル・ナツィルパル2世の領土拡張政策を継承。

 アッシュル・ナツィルパル2世の代にアッシリアに従属した勢力には、反抗に転じたものが多かったが、シャルマネセル3世は、これらを再度、服属させていった。

追加情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 シャルマネセル3世の帝位在位期間は、B.C.858年〜B.C.824年とされる(登位年には、B.C.860年説もある)。
 父、アッシュル・ナツィルパル2世が没し、王位を継承した直後から西方遠征を開始。数年に渡り戦闘を繰り返した。おそらく、西方にアムル人が建てた小国家群を先頭に、シリア・パレスティナ地方?の諸都市が、アッシュル・ナツィルパル2世の死をきっかけに反抗に踏み切ったのだと思われる。
 シャルマネセル3世率いるアッシリア軍は、まず、現在のシリア=アラブ共和国北東部にあたるアシュタタ地方(ユーフラテス川が南流から東流に転じる屈曲点の周辺)を拠点にしていた、アラム人国家ビート・アディニを滅ぼした。
 平地部でのユーフラテス川両岸は、アッシリアの直轄領に組み込まれ、以降、アッシリアが滅びるまで、西の境界とされた。
小辞典版推奨判定
「言語+知性 目標値12〜14」「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 「シャルマネセル」のアッカド語?に基づくアッシリア王名は、「シャルマヌ・アシャリド(Shulmanu-asharid)」で、意味は「シャルマヌ神は至高なり」。

  • 「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 現在の歴史学では、シャルマネセル3世は普通、新アッシリア時代、先帝国期?のアッシリア王?と整理される。
 シャルマネセル3世の代、アッシリアは、ダマスカス?を盟主に同盟を結んだシリア・パレスティナ地域?の都市国家群との交戦も重ね勝利した。これが、最盛期にエジプトまでを制圧したアッシリア帝国興隆の直接の基盤を成した、と目される。
 ただし、シリア・パレスティナの都市同盟との戦いは、B.C.853年のカルカルの戦いを境に、最終的にはアッシリア側が勝利したが、苦戦も多かったようだ。例えば、カルカルの戦いについては、アッシリア側の記録にすら7万の軍勢の内、1万4千人が戦死した、と伝えられている。
 ともあれ、アッシリアは、シリア・パレスティナ地域の諸都市に、再度覇権を認めさせ、朝貢国として服属させた。しかし、ユーフラテス川流域部のように、シリア・パレスティナ地域を直轄領として再編成するまでのことはできなかった。バビロニア?地方に対しても、政治的優位は維持したが、アッシリアの支配力を強化することまではできなかった。

GM向け参考情報

 シャルマネセル3世は、高校世界史級ではマイナーかもしれませんが、古代オリエント史では征服王としてたいへんメジャーな人物です。

 特に、「黒のオベリスク」「バアラトの青銅門?」などに、誇らしげに描かれている征服王朝の栄華から、先帝国期?アッシリアの支配を固めた王とのイメージが強い。

 しかし、研究者の間では、その統治の実態について様々な議論があります。


 なお、現在のメソポタミア研究では、かつて、中アッシリア時代?シャルマネセル2世の存在が、確認される前、現在、シャルマネセル3世と呼ばれている人物が「2世」と呼ばれていた時期がるようです。

 特に、ネット上で情報を探ると、古い時代の歴史整理に準拠して、3世を2世としているコンテンツもあるようです。注意してください。

事跡

登位
 シャルマネセル3世の登位年は、B.C.858年説を一応の主流説としますが、他に、B.C.860年登位説などもあります。
 新アッシリア時代は、古代メソポタミア史の内で、比較的編年が詳しく確定されていますが、シャルマネセル3世の父、アッシュル・ナツィルパル2世の死没前後には、かなりの混乱が生じた可能性が高いようです。
登位直後
 シャルマネセル3世は、登位直後に遠征軍を率い、あるいは派兵して、勢力圏西部や、北方に侵攻しています。おそらくは、アッシュル・ナツィルパル2世の死をきっかけに、アッシリアの支配への反抗に踏み切った勢力が多かったのでしょう。
 シャルマネセル3世率いる遠征軍は、ヴァン湖周辺(おそらくは南岸か?)にあったと思われる、ウラルトゥ王国の王都スグニアに侵攻。これを滅ぼした、と伝えられている。
 スグニア滅亡後(翌年?)、新たに遷都されていたウラルトゥの王都に、シャルマネセル3世が再度遠征。この都も遠征軍に滅ぼされた、と伝えれている。
 他に、メソポタミア地域平地部で、ユーフラテス川流域のアシュタタ地方で、アッシュル・ナツィルパル2世に一端服属したアラム人?国家ビート・アディニ?を滅ぼした。
 平地部のユーフラテス川流域は、アッシリアの直轄領とされ、後にアッシリア帝国?が滅亡するまで、アッシリア直轄領の西縁とイメージされるようになった。
シリア・パレスティナ経略
 アッシュル・ナツィルパル2世の代にアッシリア?に服属、朝貢していたシリア・パレスティナ地域?の都市国家も、アッシリアから自立、都市同盟を結びアッシリアに敵対しました。
 シャルマネセル3世は、数年にわたり、遠征軍をたびたび派兵し、これを攻略。
B.C.853年
 シャルマネセル3世率いるアッシリア軍と、シリア・パレスティナ地域?の諸都市同盟軍との決戦と言えるカルカルの戦いが戦われた。
 アッシリア側は苦戦の末戦勝。この後、シリア・ポレスティナ地域各地の都市国家は、順次個別に攻略され、アッシリアに再服属、朝貢国に転じていった。
統治晩年
 シャルマネセル3世の統治晩年、ニネヴェ?を中心にアッシリア領の中核部で反乱が起きたらしい。この反乱については、記録が曖昧で、規模、背景、経緯などは、未だ定かに整理されていない。完全な鎮圧は息子で次代王シャムシ・アダド5世の代になされた、とも伝えられている。

人物像

 シャルマネセル3世は、伝統的には、父アッシュル・ナツィルパル2世の征服事業を継承した、偉大な征服王、とイメージされていました。特に、後代、アッシリア帝国が、シリア・パレスティナ地域の覇権を、再度地域の諸都市と争った時機に、アッシリアでは、シャルマネセル3世の事跡が理想化して語られたようです。

 現在の歴史学では、単なる武力に優れた王ではなく、征服地での支配体制確立に努めた有能な王でもあっただろう、との線での研究が盛んです。ことにシャルマネセル3世の指揮下におこなわれた遠征や征服よりも、王が、どの地域までどれだけ支配機構を確立したかの実態についての研究が議論になっています。

 新たに直轄地とされた地域に、シャルマネセル3世が導入したアッシリア中核部同様の行政区編成、代官の派遣などの方が、単なる征服事業よりも、アッシリアの支配力強化には効果を挙げた、と考えられています。

 ただし、新たな征服地の内でも、シャルマネセル3世の代の内に、行政区再編が定着したのはどの地域までだったか、については、研究者の間でも異論が多く、議論が続いています。

 この件は、統治晩年に、ニネヴェ?などで起きた、と伝えられる反乱の実態や、アッシリアが帝国化するに至った社会変動とも関連し、議論の多い大きな研究テーマになっているようです。

 征服王のイメージの方は、シャルマネセル3世の関連遺物「黒のオベリスク」や、「バアラトの青銅門?」に遺された記録や図像で強化された人物像です。

 シナリオのネタとしてシャルマネセル3世を利用する場合は、征服王のイメージと、有能な統治者のイメージとの兼ね合いを意識するといいでしょう。

関連遺物

 シャルマネセル3世関連の主要な考古遺物

黒のオベリスク くろのオベリスク(シャルマネセル3世の黒色オベリスク)
 19世紀に、ニムルドの遺跡で発掘された、古代アッシリア?遺物。 「 シャルマネセル3世の黒色オベリスク」とも。
 U.K.(連合王国)ブリティッシュ・ミュージアムに収蔵。
バアラトの青銅門?

活用や検討

活用

  • このページの記事を踏まえた、アイディア・フック?、使ってみたシナリオ、セッション・レポ、などなど
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