アダド・ニラリ2世
追加情報
- 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性目標値10〜12」
- やや詳しい情報 アダド・ニラリ2世の在位期間は、B.C.911年〜B.C.891年で、足掛け21年と長期に渡った。先代で父にあたるアッシュル・ダン2世の地位を継承すると、父の推し進めた攻勢の政策を継続。
- 当時、 アッシュル?周辺にも割拠していたアラム人?諸部族に対する戦闘を指揮し、領土回復を押し進めた。
- アッカド語に基づく王名は、「アダド神は我を助ける」といった意味。
- 現在の歴史整理では、新アッシリア時代初期のアッシリア王、と整理される。あるいは、その治世を、中アッシリア時代?末から新アッシリア?初期にかけての過渡期、といった含みで“アッシリア回復期”と整理しよう、との意見もあるが、議論は多い。
- 「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性目標値12〜14」
- 「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
- さらに詳しい情報 ティグリス川西方からアラム人?の諸部族を駆逐。アラム系遊牧民が定住化して営んでいたハニガルバド?の諸王国を征討。ユーフラテス川平地中流域に北方から流入するカーブール川(現シリア・アラブ共和国?領東部)流域まで勢力圏を拡大。
- 南方では、下サブー川(ザーバルサギール川)流域に進出していたバビロニア勢を駆逐。現在のサマラ?のあたりまでを制圧。東方でも、クルディスタン山地から山麓部に進出していた山岳民族を征討し、守備軍を駐屯させた。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性目標値14以上」
- 専門的知識(?) 記録によれば、アダド・ニラリ2世は、即位と共にアッシリアの領土回復戦争を開始し、21年間の治世中、ほとんどすべての戦闘で連勝したと伝えられている。アッシリアの短くない雌伏期の後に、なぜこのような比較的短期間での反抗が可能だったかについては、まだ充分整理されているとは言えないが、主に次のようなことが、言われている。
- アラム系諸部族の民族移動は最終局面に入り、地域によっては、すでに定着化した部族も出ていたなど、遊牧民の侵出活動は、沈静化の傾向に向かっていた。
- 中アッシリ時代?末、アラム系諸部族の民族移動最後の大波にさらされた各地の都市国家は、程度の差こそあれ、それぞれにダメージを受け混乱もしていた。その内で、アッシリアは、領土を縮退こそされたものの、アッシュル神?崇拝を中心とした独特の祭政一致体制で、よく民族的統一を保っていた。
- 紀元前15世紀にミタンニの東部を征服して以来、導入された騎馬の技術を、軍事体系にうまく採用することができていた。
- もちろん、以上のような事跡のいずれも、先代のアッシュル・ダン2世が進めた、と伝えられる内政面での整備がなければ、長く継続させることは困難だっただろう。
GM向け参考情報
- 特に無い場合は、「増補待ち」と明示することを推奨します。
アダド・ニラリ2世は、高校世界史級ではマイナーかもしれませんが、実は、アッシリアのメジャーな王であるアッシュル・ナツィルパル2世の祖父です。
アッシュル・ナツィルパル2世は、帝国期アッシリアの土台となる領土拡張を推し進め、同時に、「狼」と呼ばれるほどアッシリア軍団の悪評を高めた苛烈な王です。
アッシュル・ナツィルパル2世の大成の背景に、アダド・ニラリ2世を絡めると、おもしろい古代史ロマンを料理できるかもしれません。
例えば、オープン・ミッションの題材には、アッシュル・ナツィルパル2世の覇道を支えたらしいオーパーツを持って来て、実は、その物〔ブツ〕を獲得したのは、アダド・ニラリ2世だったとか持っていくのはどうでしょう(?)。
リアルな歴史イメージ
アダド・ニラリ2世の事跡の時系列整理は、まだあまり確定されていないようです。
アダド・ニラリ2世よりも前の代までのアッシリアは、王名表でこそ王名や在位期間は知れているものの、王碑文の類が極めて少なく、細かな歴史がわからない時期がしばらく続いていました。アダド・ニラリ2世の代も、そうした状態が続いていたと思われます。
要するに、アラム人侵入の波にさらされたアッシリアは、国家解体の手前までいっていたけれど、辛うじて持ちこたえた、というのが実状だったようです。
では、そんな瀬戸際までいっていたアッシリアが、アダド・ニラリ2世一代の間に平地メソポタミアの北部での支配圏を回復できたのは、なぜか? というのはアッシリア史研究のテーマの1つであるようです。
「アッシュル周囲のアラム人が、定住化せず、遊牧生活を送っていたので、反抗の余地があった」という説明をよく見かけます。
ちょっと考えると、疑問がわく話ではあります。だって、その遊牧民に追い詰められちゃったのがアッシリアではなかったの? って疑問です。
これについては、遊牧部族が次から次ぎへと波状的に押し寄せた時期には対処しきれなかったが、侵出(遊牧民移動)の波が沈静化すると、反抗に転じる余地が生じた、という歴史整理が、今のところなされているようです。
しかし、それにしては、定住化もしていたハニガルバドの王国も征討できちゃったのはなぜでしょうか? こちらについては、ハニガルバドと同盟していたヒッタイトが滅亡したため、弱体化していた、との事情はあるようです。
また、かつては、アダド・ニラリ2世が口火を切ったとみなされていた、領土回復戦争も、すでに先代王で父でもあったアッシュル・ダン2世(在位、B.C.934年〜B.C.912年)がすでに反抗戦を開始していた、とする説もあるようです。
アッシュル・ダン2世と領土回復戦争の関係は、今後更に、新たな歴史が解明される可能性はあります。しかし、アッシリアの領土回復の成果を挙げたのは、アダド・ニラリ2世と見ていても、当面は構わないでしょう。
(もちろん、アッシュル・ダン2世を絡めたおもしろいネタを思いついたら、シナリオに投入するのも一興でしょう)
人物像
アダド・ニラリ2世の人物像もあまりよくわかっていないようです。
実際は苦境にたった局面もあったかもしれませんが、歴史ロマンのイメージとしては、破竹の連勝を重ねたアッシリア王?と言うところではあるでしょう。
アダド・ニラリ2世の指揮下、各地の拠点を次々に押さえたアッシリアは、長年失っていた交易網の支配権を回復。壊滅寸全であえいでいたのが、一挙にバブリイな好況に恵まれたようです。
こうして、得られた利益は、さらに次代の征服活動の原動力とされました。
この辺を、フィクションとしての人物像構想の手がかりにすることはできるでしょう。
ソース案
ハニガルバド?諸国弱体化の事情までシナリオに取り込まずとも、「アダド・ニラリ2世が、ハニガルバドを滅ぼせたのは、実は、アッシュル神から与えられたオーパーツがあったからだ」、とか、「かつてミタンニが保持していたが、滅亡とともに行方しれずになっていたオーパーツを、アダド・ニラリ2世が確保したので、勝利した」とかのお話を作ることは可能でしょう。
(一応、弱体化はしていた、というポイントは押さえて料理していった方が、もっともらしいシナリオになると思われます)
あるいは、普通は、直接の因果関係を認め難いヒッタイトの滅亡と、アッシリアの再興との間に、大きな古代シャドウ・ウォーズの陰謀があった、とするか(?)。
こちらは、キャンペーン・プレイにて、少なくとも3回前後のセッションが必要なネタになりそうです。
別称類
主要国の言語
- 英語表記=Adad-nirari II
- フランス語表記=Adad-nirari II
- ロシア語表記=Адад-нирари II
- アラビア語名=(調査中)
- スペイン語表記=(調査中)
- 中国語表記=(調査中)
活用や検討
活用
重要な改訂の情報
- 内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。
(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) - 2007-02-11 (日) 12:13:57 鍼原神無 : 少し補完しました。
検討
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参照:[アッシュル・ダン2世] [歴史上の実在人物] [アッシュル・ナツィルパル2世] [新アッシリア時代] [シャムシ・アダド5世] [トゥクルティ・ニヌルタ2世]