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スラヴォニヤ

スラヴォニヤ(地方) (Slavonja) 暫定版

記事内容追加調査中の暫定版です

PCが予め知ってていい情報

 「スラヴォニヤ(地方)」は、バルカン半島北辺内陸部で、ドラヴァ川?サヴァ川、とドナウ川とに縁取られた地域の歴史的な地域名。

 2005年現在は、概ねクロアチア共和国の東部にあたり、 ハンガリー共和国南西部と、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ?北部とに挟まれ、セルビア共和国ヴォイヴォディナ自治州に接している。

追加情報

小辞典版推奨判定
「情報+知性 目標値8〜10」「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 旧ユーゴスラヴィア連邦の解体過程で独立したクロアチア共和国だが、独立の前後、スラヴォニヤ地方には「クライナ=セルビア人自治共和国」が創設されていた。
 「クライナ=セルビア人自治共和国」は、武力行使と政治的駆け引きの両面から解消に追いやられたが、独立前のクロアチア領内におよそ60万人いたとされるセルビア系住民の居住は、2005年現在の推計で20万人弱。主にセルビア共和国に流出したと目されるセルビア系住民帰還の目処はたっていない。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値12〜14」
やや詳しい情報 スラヴォニヤ地方は、ドラヴァ川?に概ね北を区切られ、ハンガリーとの概ねの境とし、サヴァ川に南を区切られ、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ?との境としている。ドナウ川が東を流れ、セルビア共和国との境を成しているが、ドナウが東に屈曲した途中からは、セルビアとの国境は川沿いを離れ地上に引かれている。なお、クロアチア領の北東端も一部、ドラヴァ川の北岸に及んでいる。中心都市はオシェイク?

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」「情報+知性 目標値14以上」
詳しい情報 スラヴォニヤ地方は、第1次世界大戦後の1918年に発足したセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(1929年「ユーゴスラヴィア王国」に改称)に含まれていた。
 1939年、チュコ=スロヴァキアがナチ政権下のドイツに征服されると、ユーゴスラヴィア王国は枢軸国側に立つ旗色を鮮明化。1941年に3国同盟に加入した。しかし、同年進駐した枢軸国群は、ユーゴスラヴィア王国を分割。スラヴォニヤを含むクロアチア地域には、ファシズム政党ウスタシャによるクロアチア独立国(ナチスの傀儡政権とされる)が成立した。
 第2次世界大戦の終戦後、旧ユーゴスラヴィア連邦?が成立すると、スラヴォニヤ地方も、連邦構成国の1つに加えられたクロアチア共和国領に編成された。

GM向け参考情報

地域区分

 スラヴォニア地方は、さらに東部に東スラヴォニア地方、中部のクライナ地方、西部の西スラヴォニア地方に細分することがよくなされます。ちなみに、地域の中心的都市オシェイク?は、東スラヴォニアの中ほどに位置。

 なお、ここまで地域を細分整理する場合には、現クロアチア領北東端のドラヴァ川北岸地区も、歴史的な「バラーニャ地方」としてほぼ同等の歴史的な個性を持つ地域として把握した方がいいでしょう。

クロアチア内戦期のスラヴォニヤ地方のアウトライン

注記

 いわゆるクロアチア内戦は、、旧ユーゴ解体過程の様々な内戦、内紛、外交と関わりあっており、単独の出来事としては整理しきれません。以下では、関連した諸々の出来事の内から、スラヴォニア地方の動向に関りの深い出来事のみをピックアップしています。

1990年
4月 クロアチア共和国で、多党制の選挙が実施され共産主義者同盟保守派候補は大敗。
6月 クロチア新政権が、旧ユーゴスラヴィア連邦からの離脱の方針を打ち出す。
9月 スラヴォニヤ地方の中部のクライナ地方から、東寄りでセルビア共和国領と接している東スラヴォニアにかけ、「クライナ=セルビア人自治区」の発足が宣言された。
12月 クロアチア共和国で新憲法制定。クロアチア人の自決権、共和国の国家主権が強調され、クロチア語を公用語とし、それまでのキリル文字の使用から公用にはラテン文字を用いる方式に切替える、などの措置がとられた。同月、旧ユーゴスラヴィア連邦国防省が、連邦構成各共和国の独自軍整備を否定。
1991年
1月 旧ユーゴスラヴィア連邦当局が、連邦構成各共和国で編成過程にあった独自軍の武装解除命令を発布。クロアチア共和国軍は、この命令に従わなかった。
2月 クロアチア共和国議会、共和国憲法を、旧ユーゴの連邦憲法より優先させるとの法改訂を決議。
3月 スラヴォニア西部でセルビア人?住民とクロアチア警察との衝突が生じ、旧ユーゴの連邦人民軍も出動。
4月 スラヴォニア東部でセルビア人住民とクロアチア警察との衝突が起きる。
5月 「クライナ・セルビア人自治区」でおこなわれた住民投票の結果、同自治区はセルビア共和国への編入を決議。
6月 クロアチア共和国、旧ユーゴスラヴィア連邦からの分離独立を宣言。これをきっかけにクロアチア各所で対立が激化。
9月 クロアチアに配備されていた旧連邦人民軍がセルビア人保護を目的として武力介入。クロアチア内戦が本格化。
11月末 国連の仲介にてジュネーヴ?で開催された旧ユーゴ和平会議にて停戦が合意され、国連平和維持軍のクロアチア派遣も検討された。
12月 ドイツが単独でクロアチア共和国、及び、前後して独立を宣言していたスロヴェニア共和国?の独立を承認。同月、スラヴォニア・バラーニャ・西スレム自治組織が、クライナ・セルビア人自治区と連合し「クライナ=セルビア人自治共和国」の創設を宣言。その領域はクロアチア共和国領の1/3ほどにわたった。
1992年
1月 ECが、クロアチア共和国、及び、スロヴェニア共和国の独立を承認。ただし、この承認は民族自決を尊重したもので、クライナ=セルビア人自治共和国の存在も尊重されていた。
2月 国連安保理が、クロアチアへの国連保護軍(UNPROFOR)派遣を決議。およそ1万4千の部隊が、クライナ・セルビア人共和国領に派遣された。
 この間、隣接するボスニア=ヘルツェゴヴィナ?では、内戦が長期化。スラヴォニヤ地方でも臨戦態勢下の緊張が続く。
1994年
3月 ロシア連邦の仲介で、クロアチア共和国当局と、クライナ=セルビア人自治共和国との間で休戦協定が成立。
10月 U.S.A.(合衆国)、ロシア、EU、国連が、クライナ=セルビア人自治共和国に一定の自治権を認める和平案を提示。
12月 クロアチア共和国とクライナ=セルビア人自治共和国との間で、経済関係正常化合意が調停される。
1995年
 U.S.A.(合衆国)、ロシア、EU、国連が、クライナ=セルビア人自治共和国に一定の自治権を認める和平案を新たに提示。
 この間、国連保護軍(UNPROFOR)の中流期限切れが近づき、セルビア人勢力は駐留延長を要望。クロアチア当局が期限通りの撤退を強く要求し、両者の関係は緊張。結局、国連保護軍の規模を縮小しつつ駐留期限が延長された。
5月 クロアチア共和国軍、西スラヴォニアを攻撃し制圧。
8月 クロアチア共和国軍、クライナ地方を攻撃し制圧。
11月 U.S.A.(合衆国)で続けられていた旧ユーゴ和平会議席上で、クライナ=セルビア人自治共和国のセルビア人勢力が、東スラヴォニアの統治権放棄を宣言。スラヴォニア地方はクロアチア当局の統治領であることが、事実上国際承認された。

活用や検討

活用

検討

  • 検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで)

更新日時:2006/01/27 08:01:36
キーワード:
参照:[ランド・マーク] [バルカン地域] [ヨーロッパ州のランド・マーク]
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