アッシュル・ニラリ5世
- アッシュル・ニラリ5世 アッシュル・ニラリ ごせい (Ashur-nirari V) 簡易版
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「アッシュル・ニラリ5世」は、新アッシリア時代のアッシリア?支配者の1人。紀元前8世紀の半ばに、10年強ほど在位。
アッシリア帝国?初期の人物だが、その事跡、人物像などは、定かには解明されていない。
やや詳しい情報
アッシュル・ニラリ5世は、アダド・ニラリ3世の息子で、アッシュル・ダン3世の弟。
先代にあたるアッシュル・ダン3世の跡を継ぎ、B.C.754年頃アッシリア帝国の帝位に就いた、と思われる。在位期間は、B.C.754年頃〜B.C.745年頃の足掛け12年
アッシュル・ニラリ5世の代は、アッシリア帝国?の初期だが、帝国の支配力が低下していた。アダド・ニラリ3世の代、あるいは、アッシュール・ダイン・アピルの反乱?以降続いた、統治力低下がいよいよ末期状態を示していた、と思われる。
遠征先征服地での諸将の半独立傾向、中央宮廷での将軍シャムシ・イルの専横、旧属国群の間で強まる自立化傾向、属国からの貢納物の停滞などなどだ。また、中央宮廷での高位宦官群の帝権壟断も考えられている。
しかし、王名による記録は少なく、あっても断片的で、アッシュル・ニラリ5世の事跡や人物像は、定かには解明されていない。帝王がどのような地域に、どの程度の権力を振るえたかも、具体的な整理はなされていない。
治世4年目(B.C.750年頃)と治世5年目(B.C.749年頃)とに軍勢を率いて遠征をおこなったようだ。また、その後おこなわれたと思われるウラルトゥ王国への遠征は、ウラルトゥ王サルドゥリの軍勢に敗退した。
B.C.746年、帝国中央に近い平地メソポタミア?北部地域で、反乱が多発。この反乱の背景や経緯も、ほとんど伝わっていないが、多数の反乱が連鎖して、短期間に大混乱に陥ったようだ。
B.C.745年頃、おそらくはカルフ(ニムルド)でティグラト・ピレセル3世?がアッシリア帝位に就いた。アッシュル・ダン3世は、反乱勃発からティグラト・ピラセル3世即位までの間に、死没したのだろう、と考えられている。
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参照:[シャムシ・イル] [新アッシリア時代] [ティグラト・ピラセル3世] [歴史上の実在人物]