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スーダン共和国略史

スーダン共和国略史 暫定版

記事内容追加調査中の暫定版です

PCが予め知ってていい情報

 1980年代に、北部を拠点にした中央政府が、全土にイスラム教の宗教法を施行したため、キリスト教徒、民族宗教信徒が多い、南部と内戦状態に。紆余曲折もあったが、主にキリスト教徒が多いディンカ族を中心にした南部勢力と、北部の中央政府との対立を軸に続いた。南部勢力の中心的抵抗組織がSPLA(スーダン人民解放軍)。

 1984年、エチオピア連邦民主共和国?から、内戦を逃れた多量の難民が流入、折からの旱魃が重なり、経済が困窮。1985年にクーデタが起き、1986年に新内閣発足。

 1989年、民族イスラム戦線 (NIF)も関わったクーデタが発生。

 1994年東部で、反政府闘争が激化。1997年以降、東部の反政府勢力が、エリトリアとの国境部を中心にした地帯を実効支配。

 1998年、政党結成の自由などを含む新憲法が国民投票で採決された。1999年、大統領は非常事態を宣言し、国民議会を解散。2000年、反大統領派勢力を排除した新内閣が発足された。

 2003年、ダルフールでの紛争が激化。

 2005年7月、中央政権の大統領と、南部のSPLA最高司令官が就任した第1副大統領との連立体制で暫定政府が発足。暫定政府が6年間の統治をおこなった後、南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部のキリスト教徒系政権の連邦国家を形成するか、南部が独立するかを決めることになった。

 ところがその後、就任したばかりの副大統領が、ウガンダ共和国?訪問からの帰途途中の7月30日に事故死。悪天候による事故でヘリコプターが墜落、と公表されたが、南部の中心都市、ジュバで騒乱が起きた。

追加情報

 「スーダン共和国」の項を参照のこと。⇒ スーダン共和国

GM向け参考情報

スーダン共和国略史

注記

 以下の略史の時代区分は、この場限りの便宜的なものです。

前史

1820年
 オスマン=トルコに服属していた時代のエジプト軍、現スーダン領の地域に遠征。
1821年
 遠征エジプト軍、スーダン北部のナイル水系流域を制圧。以降、北部から属領化。
(1879年までに、当時のスーダン地域全域が、順次エジプト軍に制圧されていった)
1881年
 エジプトの統治に対する反乱(マフディーの乱)が起こされた。
1883年
 反乱勢マフディー軍、エジプト軍を撃退し、地域の実権を掌握(マフディー国家?)。
1898年
 U.K.(連合王国)、エジプト合同軍が遠征し、反乱を平定。
1899年〜1955年
 スーダンの地域は、アングロ=エジプト?政府の統治下に。
1953年
 アングロ=エジプト政府と、スーダンの政治勢力各派との間で「スーダンの自治、及び、民族自決に関する協定」成立。
1954年
 前年の協定を受け、独立を目指す自治府発足。

1950年代〜1960年

1951年
 エジプト王国(当時)は、「スーダンはエジプトの領土」と主張。
(翌、1952年、エジプトでは軍事クーデタが起き、王政とアングロ=エジプト体制とが廃絶された)
1956年
 「スーダン共和国」として独立。
1958年
 11月、軍部によるクーデタで、軍事政権が全権を掌握。(1964年まで続く)
1962年
 南部で、反軍事政権運動であるアニャ=ニャ運動が激化。内紛状態に。
1964年
 軍事政権が覆され、民政に復帰。
1969年
 5月、軍部のクーデタで、革命評議会が全権を掌握。国名を「スーダン民主共和国」に改称(1985年まで)。

1970年代

1971年
 革命評議会議長、大統領に就任。形式的に民政に。前後して、スーダン人民共産党の反革命評議会組織メンバーが処刑された。
 この年、北部政府は、南部のアニャ=ニャ運動指導部の自治権を承認すると公表。
1972年
 エチオピアのアディス・アベバにて、北部政府と、南部のアニャ=ニャ政権が和平合意。南部は、正式に自治地域となった。
1973年
3月 首都ハルトゥーム市のサウディ=アラビア大使館にて、パレスティナ武装過激派集団「黒い9月」による、大使館占拠事件が発生。人質のかなりは解放され救出されたが、U.S.A.(合衆国)、ベルギーの外交官らは殺害された。
1978年
 南部の上ナイル地方で油床発見。スーダンでは初発見だった。

1980年代

1983年
9月 北部政権がシャリア法(イスラム法)を導入、全土に厳格な適用を施行。この適用は、鞭打ち刑、石撃ち刑、他を含む復古主義的、あるいは原理主義的なもの。
 シャリア法導入をきっかけに、南部でディンカ族キリスト教徒主体のSPLA(スーダン人民解放軍)?などが、反政府武力闘争に踏み切る。スーダン内戦に展開していく。
1984年
 この年から数年、スーダン領を含む広域で旱魃。
 エチオピアからの難民多数の流入もあり、スーダンの社会、経済が混迷。
1985年
 軍部将校がクーデタを起こし、暫定統治評議会を制定。当時の大統領は、エジプトへ亡命(暫定統治評議会は、後付で前大統領を「追放」処分とした)。国名が「スーダン共和国」に改称(復帰)された。
 この頃までに、南部の反政府勢力に中南部の黒人部族も加わり、内戦激化。
1986年
4月 北部暫定統治評議会、選挙を実施。
5月 北部、民政に移行。
1988年
 北部の連立政権、南部のSPLAと停戦協議を試みたが決裂。
1989年
6月 軍部が、イスラム復古主義組織NIF(民族イスラム戦線)と連携し、クーデタ。革命委員会が設置され、北部に非常事態体制が施行された。

1990年代

1992年
 国連で、人道支援、緊急援助を除く国際支援を停止する制裁策が採択された。
1993年
10月 革命委員会、1989年のクーデタのリーダーを首相に指名し、解散。権限は、暫定政府に移管されたが、首相が大統領を兼務。この実権移管は、形式的処理にすぎなかった、とする評価は諸外国に多い。
1995年
 エジプト大統領が、エチオピア訪問中にアディス・アベバで暗殺未遂のテロにあった。エジプト大統領は、スーダン北部政府が暗殺を試みたテロリストを支援していた、と公に非難。
1996年
3月 暫定政権、北部で総選挙。しかし、1989年以来、政党は禁止されており、暫定政権の信認投票の意味しかなかった。
1998年
5月 政党結成の自由などを盛り込んだ、新憲法の可否を問う国民投票実施。新憲法成立。1989年のクーデタ以来禁止されていた政党活動が解禁されることになった(政党登録開始は1999年1月より)。
8月 U.S.A.(合衆国)軍が、ハルトゥームの化学工場をミサイル攻撃。毒ガス兵器を製造していた、との理由を唱えていた。(「実際は、少し前に、ケニアとタンザニアとで立て続けに起きた合衆国大使館爆破テロに対する報復だった」とも言われている)
1999年
1月 新憲法に基づき、政党登録の手続きが開始された。
 この年、大統領権限の縮小を求める国民議会議長派と、大統領派との政争が目立つようになった。
12月 大統領、非常事態を宣言し国民議会を解散。内閣は総辞職。
 後、国民議会議長は、議長職を解任された。元議長は、新野党「人民国民会議(PNC)」を組織。
 この年、IMF(世界通貨基金)は、1992年の制裁策以前から停止していた融資の再開を開始。スーダン国内で、石油採掘と輸出が開始され、経済状況が若干好転していった。

2000年代

2000年
9月 ハルトゥーム州当局、公共的な場所での女性の就労禁止を布告。
12月 北部で総選挙実施。野党はボイコット。大統領と大統領派政党が勝利。
2001年
2月 北部の野党PNC(人民国民会議)と、南部のSPLA(スーダン人民解放軍)がスイスのジュネーヴで会合。内戦終結、民主化に協力するとの覚書を調印。これを理由に、PNC党首(元国民会議議長)を逮捕、投獄。
3月 WFP(世界食糧計画)が、地域で飢餓に直面する人々300万人向けに、人道支援基金増額を求めた。
4月 南部のSPLAが、新油田開発のために派遣された各国の労働者を攻撃すると警告。政府軍は、油田地帯から一般市民を強制退去させたが、そのやり方が強引だとして非難を被った。
4月から5月にかけて 北部の警察当局は、PNC(人民国民会議)党員の逮捕を続けた。
5月25日 PNCメンバーの葬儀に数千人の会衆が参列。被葬者は、警察に逮捕された間に、おそらくは拷問で受けた傷が元になり死亡したとされている。警察は、参列者に催涙ガス弾を討ち込んだ。
6月 北部政府と南部SPLAとが、ケニアのナイロビで、停戦と講和を巡り会合するも決裂。
7月 北部政府が、南部勢力との講和について、エジプト及リビアが提示した仲介案を受け入れる旨を公表。この仲介案には、国家体制変更について協議検討する旨も盛り込まれていた。
9月 国連で、スーダン制裁決議が議決される。
11月 合衆国政府、スーダン北部政府を、過去のテロ関与、及び、人権抑圧で一方的に非難する声明を公表。
12月 議会の選挙と大統領選、実施。野党は選挙をボイコットし、現職大統領が再選された。
同月 「内戦での捕虜などで奴隷労働を強制されていた南部出身者14,500人以上が、過去6ヶ月間に解放されている」と公表された。
 2001年頃から、ダルフール地方で、組織化された反政府武装集団と、民兵集団との交戦が多発するようになった。
2002年
1月 南部の反政府武装組織SPDF(スーダン人民防衛軍)、SPLAに合同。
同月 SPLAと北部政府は、ヌバ山地中部での6ヵ月間の停戦合意を調印。6ヵ月後にさらに6ヵ月間停戦を延長する合意も付帯されいた。(ヌバ山地中部は、南部勢力の防衛拠点だった)
7月 北部政府とSPLA、ケニアで会合。20日、両者は、内戦停戦についての議定書に調印。この議定書では、「南北協同の暫定統治府発足」と、「6年間の暫定統治の後、南部自治府は住民投票で、 北部との連邦国家を形成するか、南部が独立するかを自決する」こと、「南部は、北部でのシャリア法適用を了承する」ことが確認された。
同月 26日、20日の議定書調印を受け、北部大統領とSPLAリーダーとが、ウガンダ大統領に引き合わされる形式で、初めて対面会合した。
8月 北部政府とSPLAは、和平協議継続のため、停戦を延長することに合意。他方、双方の捕虜拘束は継続された。
11月 暫定政権での北部と南部の役職分担についての協議が難航。しかし、双方とも停戦合意の尊守は確認した。
2003年
2月 ダルフール地方の反政府武装勢力が、政府の差別主義的な政策を非難し、ダルフールにあった政府施設を攻撃。その後、ダルフールでは、武装したジャンジャウィードの武力行使を正規軍が空爆で支援する作戦が実行された、と言われている。前後して、ジャンジャウィードによる非アラブ系住民集落の選択的、組織的襲撃が増えた、とされている。
10月 北部で逮捕拘禁されていた、人民国民会議リーダー(反大統領派の元国民会議議長)が釈放された。
2004年
1月 ダルフール地方で武力行使をしていた反政府組織に対し、陸軍が動員された。十万以上とも二十万とも言われる難民が、隣国チャドに避難。
3月 国連当局者が、「ダルフール地方の黒人集落で、スーダン北部政府に支援されたアラブ人民兵集団ジャンジャウィードが、組織的選択的大量殺人を続けている」と、公式非難。
 スーダンでは、国連側の非難に対し、北部政府、陸軍当局、及び反大統領派を含む野党関係者までが、次々と、ジャンジャウィードによる大量殺人を否認する発言をおこなった。
4月 ダルフールの反政府勢力各派と、ハルトゥーム政府との間で停戦協定が結ばれ、和平交渉が開始された。
5月 北部政府と、南部自治府とが、講和に向けて、暫定統治の権力分担に関する議定書で合意。この議定書では、石油など資源の利権分配についての大筋合意も含まれていた。
7月 AU(アフリカ連合)からダルフールへ、4月に締結された停戦協定の監視団が派遣された。
 同月、停戦協定で合意されていたジャンジャウィードの武装解除などが実行されていない、として、反政府側が和平交渉から離脱。
8月 一説に、この頃までに、150万人のダルフール難民と70万人の被害者が生じた、と言われている。
9月 ダルフール地方での人道危機を、大量虐殺とする公の非難が増える。国連当局は「ダルフール地方の一般市民を、民兵集団による暴力から保護するため、スーダン(北部)政府は他国の支援を受け入れるべきだ」と、主張。
 スーダン側は「ダルフールで大量虐殺がおこなわれている、というのは、反政府勢力が仕組んだ政治宣伝」と主張。
 2004年年末までに、AUから派遣されていた停戦監視部隊の人員が、5000人規模に拡大された。(さらに後、順次7000人ほどにまで増員されていった)
2005年
1月 北部政府と南部自治府、講和。包括和平協定を調印。連合しての暫定統治の実施にも合意。
同月 国連は、「ダルフールでスーダン政府と民兵集団とによる組織的な残虐行為がおこなわれている」と、公式レポート。「大量虐殺」の認定はしなかった。
3月 1月に調停された包括的和平協定を受け、国連はUNMIS(国連スーダン・ミッション)を創設。他方、国連安全保障理事会は、2004年に締結されたダルフールの停戦協定を侵しているあらゆる勢力を非難。これらの勢力が、一般市民に対する戦争犯罪を犯している、とも非難。
5月 北部政府内相が、スーダンの地元紙に「ダルフール地方の民族紛争は和解に達している」などとコメント。
6月 北部政府と、北部の野党NDAとは、NDAの暫定統治政権参加を認める協定に調印。
7月 9日、元南部反政府勢力リーダーが、暫定政権の第一副大統領に就任。南部自治府に大幅な自治権を認める基本法が公布される。
 30日、暫定政権第一副大統領(元南部反政府勢力リーダー)、ウガンダ訪問からの帰途途中に事故死。後、悪天候による事故でヘリコプターが墜落、と公表された。
8月 1日までに、南部では、第一副大統領の事故死をきっかけにした騒乱が、ジュバなどで発生。南部人とアラブ系イスラム教徒とが南部の各地で衝突。
 この月、国連人道問題調整事務所は「スーダン政府軍が、ヘリコプターによる空爆でジャンジャウィードと連携した住民攻撃を再度おこなった」と報告。
 同月、AUは、停戦監視団の警護部隊300人を増派。
9月 南北暫定政府、ハルトゥームで発足。
10月 2005年に締結された南北講和協定に沿った線で、南部自治府正式発足。役職は、概ね以前の反政府勢力幹部に占められた。
2006年
1月 ダルフールでの残虐行為の捜査を、2005年中に国連安保理から付託されていた国際刑事裁判所(ICC)は、資料調査や国外での聞き取りから「大規模な強姦他の極めて深刻なジェンダー暴力などの戦争犯罪がダルフールでおこなわれた」とし、被疑者を逮捕するか、ICCに引き渡すようスーダン政府に要請した(大量虐殺の認定は控えられた)。
(後、ハルトゥームでダルフールの戦争犯罪を審議する法廷が設けられた、とされているが、各国からは機能していない、と批判されている。
2月 国連安全保障理事会は、AU(アフリカ連合)派遣部隊が担っていたダルフール地方での活動を、国連に移管する準備に着手する旨の議長声明を採択。これは、AU部隊の予定任期終了をにらみ、活動資金不足などを理由にしたAU側からの支援要請に応えたもの。
4月 ダルフール地方に隣接しているチャド当局が、ダルフールに拠点を構える武装勢力が、チャド国内で活動する反政府勢力を支援している、としてスーダンとの国交を断絶。同時にチャド - スーダン国境を封鎖。
5月 ハルトゥームの暫定政府、ダルフールの主要反政府勢力SLM(Sudan Liberation Movement)との間で、和平合意。しかし、ダルフールで活動中のSLM以外の反政府勢力2派は、講和を拒否。
8月 ハルトゥームの暫定政府、国連による平和維持軍派遣提案を拒絶。「平和維持軍が派遣されれば、スーダンの主権を侵害する侵略とみなす」と主張。
同月 国連は、UNMIS(国連スーダン・ミッション)のミッションを拡張する議決を採択。従来の使命に「ダルフールでの効果的な講和の早期実現の支援」も加えられた。
9月 ハルトゥームの暫定政府、ダルフールに派遣されているAU(アフリカ連合)の停戦監視部隊は、9月末に派遣予定期間が終了すると共に撤収すべきだ、と主張。
10月 国連スーダン大使(Jan Pronk)が、ハルトゥームの暫定政府に海外退去を命じられた。理由は、大使が個人サイトのブログで、「ダルフールでの戦闘について、スーダン側部隊の士気が低下している」などと記したため、とされる。
11月 AU(アフリカ連合)、ダルフールへ派遣していた停戦監視部隊の任期を6ヶ月延長。
12月 スーダンの暫定政権は、AUが派遣している停戦監視部隊を拡張する、という方針で、国連平和維持軍の派遣に原則同意。

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更新日時:2008/05/27 09:46:07
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参照:[ダルフール紛争] [中部スーダン地方] [UNMIS] [AMIS]
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