ラファフ
PCが予め知ってていい情報
- 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。
ラファフは、エジプト=アラブ共和国とガザ・ストリップ(パレスティナ暫定自治領?)との境界をまたいで、双方に分断されている町。
出入国ゲートが設けられているが、2007年現在は閉鎖されている。
やや詳しい情報
- 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
ラファフの町は、地中海沿岸から5〜6kmほど。ガザ・ストリップ側では西縁の南北中ほどに位置。エジプト側では、北シナイ県の北東隅の一角にあたる位置。
ガザ・ストリップでは、町を含んだ南西端の地区が「ラファフ地区」と区分されている。ラファフの町は、ラファフ地区の行政中心地。
【参照地図】
(上はガザ・ストリップの略地図、下はガザ・ストリップの行政区分図,Wikimedia Commons)
ラファフの町の人口は、おおよそで13万人ほどと見積もられているが、この見積もりには、町の近傍に設けられている難民キャンプの居住人口、84,000人ほども含まれている。
町の北方にはテル・アッ-スルタン・キャンプ(通称カナダ・キャンプ)が、南方にはラファフ・キャンプが近接。町の南には、イスラエル軍による空爆を受け、2001年に放棄されたヤーセル・アラファート国際空港が位置していた。
【参照イメージ】
(空爆で廃墟になったヤーセル・アラファート国際空港施設,Wikimedia Commons)
地域では、古代から都市的な集落が営まれていた。古代からの集落は、12世紀頃には衰退していたらしい。エジプトでマムルーク朝が成立した後の記録では、郵便と同種のシステムの中継地として記され、16世紀頃のオスマン=トルコの記録では、小さな村落として記されている。
第1次世界大戦?中の1917年に戦場になった後、U.K.軍の基地が設けられ、周囲の人口が増えはじめた。これが、現在のラファフの町の直接のルーツになっている。
さらに詳しい情報
- 「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
古代エジプトの第19王朝?のファラオ?、セティ1世?の碑文に、ラファフの位置にあった古代の町についてが記されている。これが、現在知られる最も古い文字記録だろうと思われる。紀元前10世紀には、第22王朝?のシェションク1世?が、北方への遠征の途上、やはり古代の町に一時進駐した、との記録が遺されている。
B.C.720年頃、アッシリア帝国?のサルゴン2世の軍勢が、ラファフのあたりでエジプトの軍勢と交戦し勝利した。B.C.217年には、プトレマイオス朝?とセレウコス朝?が一帯で交戦し、プトレマイオス4世の軍勢が、アンティオコス3世の軍勢を下した。
ビザンツ時代には、東方教会の教区教会が設けられ、アラブ系集団との交易拠点として栄えたようだ。
GM向け参考情報
- GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイデア・フックなど
参照地図
- National Geographic Society - Maps
インタラクティブ・マップ。“Rafah”で検索していくといい。
GMの運用
- 「ラファフ国境ゲート」の項も参照のこと。⇒ ラファフ国境ゲート
- 「エジプト側のラファフの町」については、人口などは不明(調査中)。各種の地図を参照しても、人口が多いとは思えない。
別称類
英語名は「ラファフ(Rafah)」。
現代ヘブライ語による地名は「ラフィアー(Rafiah))」。
古代エジプトの言語では「ロビフワ(Robihwa)」。
アッシリア語で「ラフィフ(Rafihu)」。
ヘレネス、古代ローマ人の呼んだ地名は「ラフィァ(Raphia)」。
リンク
活用や検討
活用
重要な改訂の情報
- 内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。
(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要)
検討
- このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など
- 検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます)
キーワード:
参照:[ラファフ国境ゲート] [アリーシュ市] [シナイ半島]