ザールブルク(ローマ砦の遺跡)
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「ザールブルク」は、古代ローマ帝国がゲルマニアの防壁の一部として建造した古代城砦の遺跡。ドイツ連邦共和国のヘッセン州?で州域西部に位置。
ライン川?流域の東に外接したタウヌス山地西部の尾根近くにある。フランクフルト・アム・マイン?の概ね北方にあたり、地図上の直線距離で30kmほどに位置。
遺跡は、2005年に拡張認定されたユネスコの世界遺産「ローマ帝国の国境線」?の1部として扱われている。1987年に登録されていたU.K.(連合王国)の「ハドリアヌスの長城」が拡張登録された際に含まれた。
現存する構造物は、19世紀末から20世紀初頭に新造されたものだが、現在は、博物館として利用されている。
- 【参照地図】
- Germany(HOLT RINEHART WINSTON WORLD ATLAS)
- ヘッセン州の地形図(Physical Map of Germany,FREE WORLD MAPS)
- ゲルマニアのローマ国境線遺跡概略図(Wikimedia Commons)
(“saalburg”は画面に向かって左上部に地名が記されている)
やや詳しい情報
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ザールブルクの砦跡には、ゲルマニアの防壁の各所に建てられた防備用砦の1つがあった。高地ゲルマニアの防壁が、タウヌス山地の尾根沿いに設けられた部分に設けられた砦の1つで、はじめ紀元90年頃に建造された。
面積は約0.7haの敷地に、長方形の砦が、石材と木材を併用して建造された。城砦内部には、物見櫓や浴場の跡なども遺る。ローマ帝国の支援部隊(アウクシリア)160名ほどが駐屯したと思われる。
その後、ハドリアヌス帝の代135年頃に拡張され、長さ221m、幅147m、3.2haの敷地に、4つの城門、石壁、二重の堀を持つ作りになった。砦も、石造モルタルの作りに改築され、防備部隊も総勢500名ほどに増員された。さらに210年頃にかけて、より堅固な改築が加えられた。
現在、現地で見られる博物館の建物は、概ねこの第3期の改築を推定復元した作りになっている。ただし、建物の裏面は、第2期の砦の作りを推定復元したものになっている。260年に多くのゲルマン系部族が対ローマ蜂起に踏み切った後、ローマの防備部隊は砦を放棄した。
その後、いわゆる「民族大移動」の時代に、ザールブルクの砦だけでなく、ローマ帝国が建造したゲルマニアの城壁(長城)や、付属施設についての知識は忘れられていった。中世〜近世にかけては、「悪魔の城壁」の伝説が近傍地域で語られた。
ザールブルクの砦跡は、1853年と1862年に、ナッサウ?の古物収集家協会によって調査された。
19世紀半ば頃、ローマ時代の古代文献に伝えられたゲルマニアの城壁の、正確な発掘調査しよう、との機運が、プロシア帝国で高まった。「帝国ローマ国境委員会」が設立され、古代の長城跡を組織的な調査に着手。各所で砦や物見櫓の跡を発掘していった。委員会の活動によって、プロシアではローマ考古学が大々的に発展することになった。
1897年、プロシア皇帝だったウィルヘルム2世?は、「ローマ国境委員会」のルイス・ヤーコブの進言を入れ、ザールブルクの遺跡の発掘に基づき、かつての砦を復元建造する勅命を出した。
これが現在、遺跡スポットで博物館として利用されている建物になる。同博物館は、現在も、ドイツでのローマ国境研究の最重要機関の1つになっている。
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参照:[小辞典ワールド編] [タウヌス山地] [遺跡] [ゲルマニアのローマ国境線(遺跡)]