ゲルマニアのローマ国境線(遺跡)
- ゲルマニアのローマ国境線(遺跡) ゲルマニアの ローマこっきょうせん (簡易版)
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「ゲルマニアのローマ国境線」とは、古代ローマ帝国が、ゲルマニア国境部の防衛の為に設けた防御施設遺跡の総称。ドイツでは、単に“Limes”(リーメス)と呼んで、この遺跡を指すことも多いようだ。
1世紀末にドミティアヌス帝?の命で建造に着手され、2世紀前半のハドリアヌス帝?の代に、いったん完工。その後も増強が重ねられた。現在のドイツ領南部で、ライン川?中流域南部の右岸からドナウ川源流域の東方左岸の間に建造された。
2005年以降、ユネスコの世界遺産に「ローマ帝国の国境線」の件名で、ハドリアヌスの長城と共に登録されている。
- 【参照地図】
- Germany(HOLT RINEHART WINSTON WORLD ATLAS)
- ゲルマニアのローマ国境線遺跡概略図(Wikimedia Commons)
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「ゲルマニアのローマ国境線」は、総延長およそ550kmに渡るが、高地ゲルマニア部分の330kmほど(Obergermanischer Limes)と、レチアの境界線220kmほど(R?tischer Limes)とに大別される。
高地ゲルマニア部分は、ライン川中流域南部で右岸からはじまり、マイン川下流域の両岸に渡って土塁が設けられ、土塁に付随して幅8m、深さ2.5mほどの堀が設けられた。この土塁に付随して、およそ40の砦が築かれていた。ザールブルクの砦もこの付随砦の1つだった。
レチア部分は、主にドナウ川源流域の北方(左岸)に築かれ、現在のケルハイム(Kelheim)のあたりで、ドナウ沿岸に達していた。この部分は後期に建造され、高さ3mほど、幅1.2mの石塁が築かれた部分が167kmほどあった。
全防衛線沿いに、大型の砦跡は60以上確認されている。大型の砦には、1ヵ所に100人から1000人程度の守備隊が配置された。彼らは、防御線の警護警、及び、通過する人々を管理する関所に勤務した、と考えられている。防壁のローマ側では、砦の間に軍用道路が敷設されていた。大形砦の間には、20人〜30人程度が配置された小さな砦や物見櫓も多数設けられていた。
砦や櫓など、防壁付随施設に配備されたのは、主にガリア属州?から徴兵された兵。ローマ市民で構成された正規軍の基地は、リーメス完成後も、現在のマインツ?とストラスブール?とに置かれていた。
3世紀半ば過ぎ、ローマ帝国とササン朝ペルシア帝国とのエデッサの戦いで、破れたローマ皇帝ヴァレリアヌスがサーサーン朝の捕虜になった。この事件の後、ゲルマニア方面の諸部族が相次いで、ローマから離反し、独自の行動をとるようになっていった。それ以前は、帝国との協定などに基づき、概ねは帝国側が設けた国境線を受け入れていたが、事件の後、国境線を越えて侵出を繰り返すようになっていったのだ。
結局、防御施設は放棄され、ローマ帝国の防衛線はライン川源流域とドナウ川源流域の間付近まで後退。中世に入ると、国境防御施設の存在は徐々に忘れ去られた。地元の民間では、防壁や砦の遺跡は「悪魔の城壁」と呼ばれるようになっていった。
- 【参照地図】
- ゲルマニアのローマ国境線関連施設概略図(Wikimedia Commons)
リンク
関連項目
資料リンク
- Wikipedia英語版:Limes_Germanicus
Wikipedia英語版:Limes - Wikimedia Commons:Limes Germanicus
(高地ドイツ部分のローマ国境線遺跡関連ファイル集アーガイブ)
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キーワード:
参照:[アレマニア] [アレマン族] [遺跡] [小辞典ワールド編] [ユネスコ世界遺産] [ザールブルク(ローマ砦の遺跡)]