センウセレト2世
- センウセレト2世 センウセレトにせい (簡易版)
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センウセレト2世は、第12王朝第4代のファラオで、先代にあたるアメンエムハト2世息子だった。父の治世33年目に共治王に任じられ、父の死と共に単独ファラオになった。単独ファラオになったのは、紀元前19世紀の始め頃と思われる。B.C.1895年とされる事が多い。B.C.1840年頃とするなどの、異説もある。
センウセレト2世がファラオとして統治していた期間については、研究者の間で、現在でも議論が多い。しばしば19年間?とされるが、これはトリノ・パピルス?に見られる、第12王朝の名のわからなくなったファラオ(Unknown pharaoh)の治世19年間をあてはめた推測説になっている。
古代の碑文類を物証にした議論では、「少なくとも8年間」とする説、「6年間から10年程度」とする説などがある。
センウセレト2世が建立させたピラミッドは、ファイユーム県のラフーン近傍に遺っている。センウセレト2世の代、第12王朝の墓域も、ダハシュール?からラフーンの墓域?に移された。
センウセレト2世は、ファイユーム地方に水路網を整備し、灌漑地を広げた。ユーセフ運河の前身となる古代運河として、河川を掘り下げ広げる工事が成されたのは、おそらくセンウセレト2世の代だった可能性が高い。
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センウセレト2世の事跡や人物像は、その統治期間が長い割に、あまり細かくはかわっていない。
しかし、カフーンの遺跡?から発掘された、王宮直属の墓職人の町からは、当時の生活を細かくうかがわせる経済文書、法律文書、私的記録などが多数発掘されている。
センウセレト2世の代、上下エジプトは、生産性が高まり、現代風に言えば全般に好景気だったようだ。現在では、当時のナイル川の水量を推定して当時の生産性を復元しようとする研究もなされている。
もちろん、ここで言う生産性の向上は、短期的な変化ではなく、センウセレト2世の代を挟んだ数代に渡って続いた変化が想定されている。しかし、センウセレト2世の代になされたとおぼいいファイユーム地方の灌漑事業も、こうした“好景気”の波と関連していた、と考える研究者は少なく無い。
センウセレト2世の王宮は、エジプト各地の州長官と良好な関係を維持していたようだ。例えば、ベニ・ハッサンの墓域の遺っている碑文には、センウセレト2世との良好な関係や、ファラオから与えられた栄誉について刻まれている。
センウセレト2世の統治期間について、議論が多いのは、同時代の碑文に見られる記録で知られている最も新しいものが、治世8年めのものでしかないためだ。この碑文は、1932年にトシュカ地方の、古代石切り跡で発掘された。
また、研究者の内では、トリノ・パピルスに見られる「忘れられたファラオの治世19年間」が、センウセレト2世の(少なくとも)8年間の他に、センウセレト2世と3世の間に、誰か「名前が忘れられたファラオ」がいたと推論する意見も聞かれる。ただし、この説は少数派の説で、どちらかと言えば異説に近い。
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別称類
主要国の言語
- アラビア語名の音=(調査中)
- 英語表記=Senusret II
- フランス語表記=S?sostris II
- スペイン語表記=Sesostris II
- ロシア語表記=Сенусерт II
- 中国語表記=辛努塞〓特ニ世
(〓は表示できない漢字)
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参照:[小辞典ワールド編] [セソストリス] [アメンエムハト2世] [歴史上の実在人物] [センウセレト3世] [ラフーン]