アメンエムハト2世
- アメンエムハト2世 アメンエムハトにせい (簡易版)
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アメンエムハト2世は、第12王朝第3代のファラオで、先代にあたるセンウセレト1世とネフェル妃の息子だった。紀元前20世紀末から、紀元前19世紀の初めにかけてファラオだった、とされる事が多い。
センウセレト1世の統治末年に、共治王に任じられた。任じられた年代は定かには特定されていないが、幾つかの同時代記録から、少なくとも3年間は共治王の地位にあった事は確実。父の死没と共に単独ファラオになった。紀元前20世紀が第4四半期?に入る前後と思われ、B.C.1926年のこと、とされることが多い。
通例、アメンエムハト2世は、ファラオの地位に35年あった、とされている。B.C.1929年〜B.C.1895年とされる例が多く、他に、B.C.1875年〜B.C.1840年とする説なども、唱えられている。
ファラオとしてイチタウイに長期間君臨した治世のことは、意外に解明されていない。例えば、王妃(正妻)が誰であったかなどにも議論がある。
発掘されている断片的な記録からは、アメンエムハト2世がパレスティナ地域の南部に遠征軍を送り、2つの都市国家を破壊したことや、ヌビア系部族が貢納に来訪したこと、などが記されている。
アメンエムハト2世は、治世33年目に、息子を共治王センウセレト2世に任じた。このことは、アスワン地方から発掘された石碑の碑文によって確認されている。
アメンエムハト2世は、現在のダハシュール?にピラミッドを建造させた。このピラミッドは、風化による崩壊で、構造体はわずかしか遺っていない。ダハシュールの遺跡では、ピラミッド近傍から王朝と関係したと思われる女性のミイラが、盗掘を免れた宝飾類などと共に発掘された。
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長期に渡った割りに細かな出来事は解明されていないアメンエムハト2世の治世だが、地中海東岸方面との外交関係が密接化したことは、特徴と目されている。
ビュブロス?(現在のレバノン共和国)からは、アメンエムハト2世の名が刻まれた宝飾品が発掘されている。エジプト側でもテーベ?の南に位置するトードに遺るメンチュ神殿址から、地中海東岸、エーゲ海地域、バビロニアなど、各地の宝飾品や遺物が納められた青銅の箱が発掘された。この箱の蓋には、アメンエムハト2世の王名が刻まれていた。
こうした物証から、アメンエムハト2世の王朝では、各地の王宮と贈与品を交換し合う儀礼的な外交が営まれていた、と推定されている。あるいは、記録に伝えられたパレスティナ南部への遠征は、遠交近攻策と観て構わないのかもしれない。
また、この時期の同時代史料からは、地中海東岸系の人名が、上流家庭の召使などに増えている。おそらくは、アメンエムハト2世の代の第12王朝は、地中海東岸の諸都市に対して、優位な外交関係を結んだのだろう。
例えば、ビュブロスから出土したアメンエムハト2世の宝飾品は、エジプト製宝飾品を模してビュブロスで作成された遺物と共に同じ場所から発掘された。少なくとも、この時期のエジプトが、都市国家ビュブロスに対して文化面で優位にあったことは、確からしい。
他に、アメンエムハト2世の代と同時期と鑑定されている遺物は、クレタ島?からも出土している。エジプト側では、ラフーンの遺跡?やアビュドスの墓域遺跡から出土したクレタ産の遺物が、やはりアメンエムハト2世の頃の物と目されている。
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別称類
主要国の言語
- アラビア語名の音=(調査中)
- 英語表記=Amenemhat II
- フランス語表記=Am?n?m?s II
- スペイン語表記=Amenemhat II
- ロシア語表記=Аменемхет II
- 中国語表記=阿蒙涅姆赫特二世
活用や検討
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キーワード:
参照:[センウセレト1世] [センウセレト2世] [小辞典ワールド編] [歴史上の実在人物]