シャルマネセル5世
- シャルマネセル5世 シャルマネセル ごせい (Shalmaneser V) 簡易版
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シャルマネセル5世は、アッシリア帝国?の支配者だったティグラト・ピラセル3世の息子。父の跡を継ぎ、紀元前8世紀前半に、帝国を支配した。
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シャルマネセル5世は、父であるティグラト・ピラセル3世の在世中、フェニキア地方(現レバノン領のあたり)の属領総督だった。
ティグラト・ピラセル3世が死没したB.C.727年に、アッシリア王位を継承。「シャルマネセル5世」の名は、ユダヤ教聖典(『旧約』)で伝えられた名。アッカド語?に基づくアッシリア王名は、「シャルマヌ・アシャリド(Shulmanu-asharid)」で、意味は「シャルマヌ神は至高なり」。
シャルマネセル5世の治世は、B.C.722年までの足掛け6年間に過ぎないが、王碑文の類が残っていないため、治世について、ほとんど何もわかっていない。わずかに、当時のイスラエル国王ホシェアが、エジプト王朝と結んでアッシリアに叛旗を翻し、シャルマネセル3世の遠征軍に攻められたことが、ユダヤ教聖典の『列王記?』と、バビロニアの年代記とに記され、伝えられている。
当時、イスラエル王国の領土だったサマリア?は、アッシリアの攻囲に数年間持ちこたえた後、降伏したようだ。シャルマネセル5世は、遠征からの帰路途上、死没したと思われるが定かではない。普通、B.C.722年のこととされている。
あるいは、占領地サマリアで死没した、と言われることもあるが『列王記』には、それを思わせる記述はない。
『列王記』では、下巻の17章に、イスラエル王国?を滅亡させたのが、シャルマネセル5世であるかのように記されている。
一方、アッシリア側の碑文類では、シャルマネセルの次代にあたるサルゴン2世が、イスラエル王国を滅ぼし、捕囚をアッシリアに強制移住させたことが記されている。
現在、普通、イスラエル王国滅亡は、サルゴン2世の命による戦争の結果、とされている。
『歴代記』の記述の混乱については、「イスラエル王国滅亡の前後にユダ王国?に逃れた難民たちの告げた混乱した報告が記録され、それが後代『歴代記』編纂時にソースとして用いられたのだろう」と言われることが多い。
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アラム語などで残された断片的な古代記録に「ウルラユ」という名で記された人物がシャルマネセル5世にあたる、と考えられている。「ウルラユ」は「エルルの月に生まれた」と言う意味の名で、シャルマネセル5世の王位継承前の名前だった可能性がある。
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参照:[歴史上の実在人物] [サルゴン2世] [メロダク・バラダン2世] [新アッシリア時代]