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トゥールーズ

トゥールーズ 
(簡易版)

簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。

フランス語名
Toulouse(トゥールーズ)
スペイン語名
Toulouse
英語名
Toulouse(トゥールーズ)

PCが予め知ってていい情報

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 「トゥールーズ」は、フランス“本土領”で、南西部に位置する、フランス第4位の大都市。ガロンヌ川の中流域にあって、伝統的に「南仏の首都」とのイメージが抱かれている。

 周辺地域を併せた地域連合の行政中心地であり、ミディ=ピレネー地域圏の首府、オート=ガロンヌ県?県庁所在地も兼ねている。

【参照地図】

やや詳しい情報

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 トゥルーズは、ガロンヌ川にアリェージュ川?が合流した地点の下流(北方)に位置。ちょうど、ガロンヌ川が北東流から北西流に大きくカーブしているあたりの、盆地状に似た土地(実際は、北西方向のガロンヌ川流域狭く開けた袋状地)の中ほどにある。

 市域面積は、808平方km。居住人口は、2007年の推計でおよそ88万人。標高115m〜263mで、平均高度は141m。中心市街の面積は、118.30平方km。周辺を含んだ大都市圏の面積は、4,015.2平方km。大都市圏の人口は、2007年の推計で112万人弱。大都市圏では、フランス共和国で第5位。

 ヨーロッパで最も古い総合大学とされるトゥールーズ大学?が、13世紀に開設されたことでも知られている。市街地の南西近郊に、学園都市トゥルーズ・ル・ミライユも設けられ、大都市圏の学生総数は12万人を越える、とされる。学園都市としては、パリ?、リヨン?に次いでフランス第3位と目されている。


 地中海沿岸とガスコーニュ湾との概ね中ほどにある位置は、ケルト時代以前から、交通、交易の中継点になっていた。近世に入っても、17世紀に開削されたミディ運河?で、地中海方面との交通は現在まで緊密だ。

 現在のトゥルーズ市は、ヨーロッパの航空宇宙産業の主要センターの1つになっている。、エアバス本社が所在し、近隣に関連工場もある。他に、SPOT衛星システム、他の衛星企業や、ヨーロッパ最大のスペース・センターであるトゥルーズ・スペース・センター(CST)などがある。

 主要産業は、航空産業、宇宙産業、電子機器、情報産業、バイオ・テクノロジー産業など。ハイテク部門が強くGRPは、パリ、リヨンに次いでフランス第3位。EU(欧州連合)?加盟国の内で、最も急速に成長している都市とも言われている。


 トゥルーズ市は、781年にシャルルマーニュ大帝?が創建したアクィテーヌ王国?の王都だった。3歳で王位に就けられたシャルルマーニュの第3子、ルイは、814年にシャルルマーニュが死ぬと、ローマ皇帝(フランク王)ルイ1世(敬虔王)?に。アクィテーヌ王国の王位は、ルイ敬虔王の第2子ピピン(アクィテーヌ王ピピン1世)に移譲された。

 ルイ敬虔王存命中からフランク王国では、息子たちの勢力争いが絶えず、トゥルーズ及び、アクィテーヌ地方の支配権は、ルイ1世の息子シャルル2世が西フランク王として、アクィテーヌ王だったピピン2世から、852年に奪取した。アクィテーヌ王ピピン2世は、敬虔王の孫だったので、シャルル2世の甥にあたる。

 シャルル2世は、852年にトゥルーズ伯爵として、ルーエリグ家?のレイモン(トゥールーズ伯レイモン1世)の爵位継承を認めた。レイモンは前任のトゥルーズ伯の兄弟だったので、この頃までのフランク王国の慣例からすると、異例の抜擢になった。当時は、爵位にあるからといって、特定の地域の領主権を世襲する習慣はまだ確立していなかったのだ。以降、1270年まで、トゥルーズの領主権は、ルーエリグ家のトゥルーズ伯爵に世襲継承されていく。

 つまり、シャルル2世のトゥルーズ伯抜擢は、結果として、シャルルマーニュ大帝が創建したアクィテーヌ王国を廃絶したものになる。これ以前、メロヴィング朝時代や、カロリング朝時代にも、トゥルーズの伯爵や公爵を名乗った家門はあったが、多くは1代限りで領主権の世襲継承は、例外的だった。(かつてのトゥルーズ伯やトゥルーズ公の後裔家系には、現在まで続いている例もある)


 11世紀末、トゥールーズ伯レイモン4世が十字軍に出征。12世紀に入り、領主権継承を巡る内紛が断続。伯爵家では、複数の“頭領”(行政官)を任命し、市の内外を行政区に分割して分担させ、市民を統制する策に出た。市民側は、これに対して抵抗し、10年間ほどの騒乱の後、1189年に市民側は、かなりの自治権をトゥルーズ伯爵家に認めさせることになった。

 1190年、24名の評議員からなる市民評議会が自治組織として発足。このトゥールーズの自治組織は、さまざまな紆余曲折はあったものの、フランス革命の時期まで600年ほど続くことになる。

 一方、12世紀、トゥルーズも含むラングドック地方?では、カタリ派?の宣教活動が活発化していた。カタリ派は、トゥルーズでもかなりの信徒を獲得。カソリック信徒との間で対立が生じた。当時トゥルーズ伯だったレイモン6世?は、カタリ派をサポートした。

 1209年から、ローマ教皇庁は、反カタリ派のアルビジョワ十字軍?を組織。北フランス諸侯を主体にした十字軍がラングドック地方に侵攻し、1229年まで宗教戦争が続いた。十字軍の総指揮官になった、レイチェスター伯シモン・ド・モンフォール5世の指揮下、トゥルーズも、カタリ派の拠点都市として攻撃を受けた。

 宗教戦争の途中、トゥールーズ伯レイモン6世は息子とともにイングランドに亡命。地域は、十字軍諸侯に占領され、領地として細分された。こうした北フランス諸侯の支配に、住民の不満は募っていった。1216年にレイモン親子がラングドックに戻ると、旧臣や南仏諸侯、在地住民が結集し再決起。1217年にレイモン親子はトゥールーズを奪回。

 シモン・ド・モンフォールは、最決起したトゥールーズ攻撃中の1218年に戦死。投石器による石弾の直撃を頭部に受けて、と伝えられている。1222年にレイモン6世は亡くなるが、旧領をほぼ回復していた。1224年、シモン・ド・モンフォールの息子はラングドックから逃走。カペー朝のルイ8世にラングドック占領地の支配権を譲渡した。

 ルイ8世は、1226年に新たな十字軍を率いてラングドックに侵攻、当時神聖ローマ帝国領だったプロヴァンスも征服。ルイ8世の死後、王妃だったブランシュがルイ9世の摂政として十字軍戦争を継続。1228年にトゥールーズを陥落させた。1229年、カペー朝は、トゥールーズ伯レイモン7世(レイモン6世の息子)と協定を結び、ルイ9世の弟アルフォンスとレイモン7世の娘との婚姻、及び将来の相続を約した。

 レイモン7世が1249年に死去すると、娘ジョアンの婿になっていた王弟アルフォンスが地域支配の実権を握り、地域はフランス王朝の支配地になっていった。

 この後、トゥルーズは、政治的な重要性を失っていき、南仏の経済的な地域センターと、総合大学を擁す学芸都市として続いていった。しかし、現在に至るまで「南仏の首都」とのイメージが抱かれるのは、「アルビジョワ十字軍時代に北フランス地方に対する抵抗の中心になったこと」「シャルルマーニュ大帝が設けたアクィテーヌ王国の都だったこと」などが重なって作られた歴史的イメージだろう。

 1681年にトゥルーズは, ブルボン朝のルイ14世は、息子の1人、ルイ・アレクサンドルをトゥルーズ伯に任じた。ルイ・アレクサンドルは、1737年に死没するまで、トゥルーズを領地にしていた。

さらに詳しい情報

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  • 地域で確認されている最古の考古遺跡は、紀元前8世紀頃の集落遺跡。
    しかし、それ以前から、ピレネー方面?からガスコーニュ湾沿岸、地中海沿岸にかけての旧石器人、新石器人らの行動圏だったと思われる。
  • 紀元前9世紀頃に、都市トロサが形成された。
    この頃のトロサは、現在のトゥルーズ市のダウンタウンから9kmほど南方、ガロンヌ川を見下ろす丘陵の上に築かれていた。この頃の居住者は、はじめは古代アクィタニア人?が主で、やや遅れて古代イベリア人?も加わった。
  • 紀元前3世紀にケルト系のウォルカエ族?の1派が移住。トロサで支配的になった。
    この後、トロサは、ローマ人が北方に侵出する前の、地中海沿岸のガリア地方では重要な都市になっていった。ユリウス・カエサルの『ガリア戦記?』には「トロサテス(Tolosates)」として記されている。

  • B.C.125年頃から、古代ローマが地中海沿岸のガリア地方へ侵出を開始。B.C.118年にナルボンヌ?を創建。トロサはローマ国家に従属的になったが、代わりに限定的な自治権を確保した。
  • B.C.109年にゲルマン系キンブリ族?が、地域を経由して地中海沿海部に侵出。
    前後して、トロサは、反ローマで決起した。
  • ローマ軍がキンブリ族を撃退した後、B.C.106年、トロサはローマに再征服された。この後、トロサもローマの属州ガリア・トランサルピナに完全に組み入れられた。
  • A.D.10年頃〜A.D.30年頃、トロサの市街は、丘陵地から近傍のガロンヌ川流域に移転。これ以降のトロサが、現在のトゥルーズ市の直接の前身にあたる。
    あるいは、移転はローマ皇帝の意向によったものだったかもしれない。以降、数世紀トロサは、新たに編成されたローマ帝国のガリア・ナルボネンシス州で、重要な都市の1つとして発展。ローマ化も進んだ。
  • 3世紀のゲルマン族大侵出では、幸いにもトロサが襲撃を受けることはなかった。都市は3世紀半ば頃までに西ローマ帝国では、4番めに大きな都市になっていた。
    この間、都市にキリスト教が浸透。教会を中心にキリスト教コミュニティーが拡大。
  • 407年にトロサはヴァンダル族?に包囲されたが、都市民は城壁を頼りに立て篭もり、ヴァンダル族はイベリア方面に移っていった。
  • 413年、アタウルフ率いる西ゴート族がトロサを制圧。ローマ軍が迫ると、西ゴート族はピレネー方面?に移っていった。
  • 418年、ローマ帝国のホノリウス帝が、西ゴート族と講和。古代アクィタニア地域の領有を認められた西ゴートは、トロサを王国の都に選んだ。西ゴート王国の支配は、フランク王国が地域を征服する6世紀はじめ頃まで続いた。
【参照地図】

  • 508年、トロサを含む一縁は、フランク王国の領地に含まれることになった。
    以降、数世紀、都市は停滞期に入り、悪天候、疫病などが重なって衰退。都市生活の秩序も乱れ気味になっていく。
  • 511年に、フランク王クローヴィスが死ぬと、アクィタニア地方も、息子たちの間で分割領有されていく。
    この間、細分化された領地の領有を巡る交戦が各地で断続。
  • 7世紀を通じて、メロヴィング朝フランク王国のアクィタニア地方への支配は、名目的なものになっていった。この頃には、トゥルーズはアクィタニア地方の首府とみなされるようになっていた。
    この間、伯爵、あるいは公爵としてトゥールーズの領有を主張する在地勢力も出たが、領有権の認定は、ほぼ王宮政治次第で、流動的だった。
  • 8世紀初頭、イベリア方面から、アラブ・イスラム勢が侵攻(サラセン侵攻)。
  • 719年に縮退していた西ゴート王国が、イスラム勢の前に滅びると、アル-アンダルス?のイブン・マリク?が、軍勢を率いアクィタニアに侵出し、ほぼ地域を制圧。
  • 721年ナルボンヌ?を拠点にしたアラブ軍は、トゥルーズを攻囲。脱出した当時のトゥールーズ公オドーは、取りまとめた援軍と、攻囲3ヵ月めのアラブ軍とのトゥールーズの戦い?に勝利。アラブ勢はイベリア方面に撤退した。
  • 730年までの不明の時期に、トゥルーズ公オドーは、カタロニアのイスラム指導者オスマン・イブン・ナイーサ(Othman ibn Naissa)と同盟。娘をイブン・ナイーサに嫁がせた。
    オドーがイスラム勢との同盟を選んだのは、北方のメロヴィング勢に備えるためだったと思われる。メロヴィングのフランク王朝は、トゥルーズの戦いに援軍を求めたオドーの要請を無視していた。オドーは、アクィタニアやガスコーニュ?で、在地勢力を糾合して戦ったのだった。
  • 731年、アル-アンダルスでは、アラブ指導者の間で勢力争いが起き、イブン・ナイーサは、新たな指導者たちの連合に敗れた。新たな指導者たちに率いられたアラブ勢は、イブン・ナイーサの同盟者だったオドーを討つことを唱え、ピレネー山脈を越えて東征。ナルボンヌのアラブ軍も併せて侵攻。ボルドーのあたりでオドーの軍勢を打ち破った。
    制圧したボルドーを拠点にしたアラブ軍は、北方に侵攻をはじめた。
  • 732年、オドーからの救援要請に応じたカロリング家のカール・マルテル?は、軍勢を率いポワティエの戦い?でアラブ軍を迎撃。激戦に辛勝した。
    ポワティエの戦い以降、トゥルーズ公オドーは政治的にカロリング家に従属的にならざるを得なかった。ただ、当時のカロリング家は、ブルグンド族?への対策が急務だったため、トゥルーズではある程度の自治が続けられた。
  • 735年、トゥルーズ公オドー死没。
    オドーの領主権を継承した息子は、トゥルーズ公としてフランク王朝に反旗を翻したが、736年にはボルドーを制圧されて、恭順。
    カール・マルテルが死ぬと、翌742年にトゥルーズ公は再度フランク王朝に反抗したが、745年に破られると、隠居を強いられ、領主権を息子であるアクィテーヌ公ワイファーに譲った。
  • 751年、カロリング家のピピン3世?は、メロヴィング朝を断絶させると、ローマ教皇の支援を得て、フランク族の王に選挙された。
    752年から、カロリング朝は、地中海沿海部に侵攻。759年にナルボンヌからアラブ勢を撃退し、ピレネー山脈の西方へ追いやった。
    こうして、トゥルーズを首府にしたアクィテーヌ地方は、フランク勢力に3方を囲まれる情勢になった。
  • 760年からピピン3世は、アクィテーヌ地方の攻略にかかった。768年にワィファーが変死し、トゥルーズを含むアクィテーヌ地方は、カロリング朝に完全征圧された。
    前後してピピン3世が、サン=ドニ?で死去。ピピンの死をきっかけに、ワィファーの息子が反カロリング朝で決起したが、シャルルマーニュ?に撃退された。

  • 781年、シャルルマーニュは、アクィテーヌ地方の全域に、ガスコーニュ地方?及び、ナルボンヌからニーム?までの地域を併せてアクィテーヌ王国を創建。当時3歳だった第3子、ルイをアクィテーヌ王とした。
  • 814年、シャルルマーニュ死去。シャルルマーニュの帝位を継承したのが、アクィテーヌ王だったルイ1世(敬虔王)?だった。
    アクィテーヌ王国の王位は、ルイ敬虔王の第2子ピピン(アクィテーヌ王ピピン1世)に移譲された。

GM向け参考情報

  • GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど

参照地図

補足情報

  • フランス共和国には、同名のトゥルーズという都市などがアルザス地方にもある。
  • トゥルーズ市で、航空宇宙産業が盛んになったのは、第1次世界大戦が終わる頃からのこと。第1次大戦後、商業航空輸送がトゥルーズで始まった。作家のサンテグジュペリ?などがパイロットとして勤務したアエロポスタル(エールフランスの前身)は、トゥールーズを起点として南アメリカとの間で郵便配達飛行の業務を営んだ。
    他に、ラテコエール 、ドゥヴォアチーヌ、などの航空機メーカーもトゥルーズに居を構えた。
  • トゥルーズを中心にした地域連合。
    2001年にトゥルーズと周辺の地域コミュニティーは、広域の公的交通や通信など社会インフラ整備と、経済環境の調整を目的に、地域連合を結成した。
    【参照地図】
    地域連合加盟コミュニティーの領域地図(Wikimedia Commons
    Image:Carte 25communes
    地図中に表示されている“Toulouse”の領域が、行政上のトゥルーズの市域で、中心市街よりは広いが、大都市圏よりは狭い。地域連合加盟コミュニティーの多くは、トゥルーズの大都市圏にかかっているが、かならずしもすべてが大都市圏に含まれているわけではない。

別称類

  • 日本語別表記=ツールーズ
主要国の言語
  • フランス語名=Toulouse(トゥールーズ)
  • フランス語の雅称=La ville rose(薔薇の都)
  • スペイン語名=Toulouse
  • 英語表記=Toulouse(トゥールーズ)
  • アラビア語名の音=(調査中)
  • ロシア語表記=Тулуза
  • 中国語表記=土魯斯
その他
  • オック語?(北オク語)現地名=Tolosa(トゥルズー)
  • イタリア語?名=Tolosa
  • 古代名=Tolosa(トロサ)
    言語系統未詳あるいは古代イベリア語か(?)、意味も不明。
  • ラテン語による古称=Tolosates(トロサテス),Tolosas(トロサス)
    ローマ帝国時代のラテン語名=Palladia Tolosa(パラディア・トロサ)

活用や検討

活用

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検討

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更新日時:2008/05/29 10:45:09
キーワード:
参照:[ガロンヌ川] [ボルドー] [ニース] [エアバス社]
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