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ボルドー

ボルドー (簡易版)

簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。

フランス語名
Bordeaux
スペイン語名
Burdeos
英語表記
Bordeaux

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 「ボルドー」は、ガロンヌ川下流域に立地しているフランスの都市(ボルドー市)。中心市街は、ガロンヌ川がジロンド川に流出している河口部の上流、概ね南方およそ100kmほどに位置。

 周辺も併せた都市圏(Urban Community of Bordeaux)の行政中心であり、都市圏に周辺の郡を併せた「ボルドー地区(Arrondissement of Bordeaux)」の中心地でもある。また、ジロンド県?県庁所在地と、アキテーヌ地域圏の首府を兼ねている。

 都市圏の中心地であるボルドー市の内、ガロンヌ川右岸にある旧市街が、ユネスコ世界遺産、「月の港ボルドー」になっている。他に、広域都市圏の内には、「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路?」に属す世界遺産スポット3ヵ所もある。

【参照地図】

やや詳しい情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。

 ボルドー市は、ボルドー・ワインの産地として有名だが、現在の都市圏内外では、航空産業、レーザー技術やプラズマ技術の研究、産業などが盛ん。

 15世紀中葉に創設されたボルドー大学をはじめ、多数の大学、研究機関があり、学生数もおよそ7万人と多い。

 ボルドー市の面積は、49.36平方km。居住人口は、23万人ほど(2007年)。ボルドーの都市圏は、ボルドー市を含んだ27の地域コミュニティーで構成されていて、北縁では、ガロンヌ川河口部にも達している。面積は551.88平方km。居住人口は、1999年の統計で、66万人弱。

 ボルドー都市圏は過去10年前後で急速に発展、都市化が進んできた。現在も都市化エリアの範囲は拡大傾向にある。居住者の多数派はフランス系。ただ、イタリア系、スペイン系、ポルトガル系、ドイツ系の人口も多い。他に、北アフリカ各地出身者のコミュニティーも多数あり、併せると北アフリカ系の人口も多い。

 現在のボルドー市市域は、ボルドー都市圏の中ほど南東寄りで、ガロンヌ川の両岸に渡っている。この内、川の右岸に位置しているのが旧市街。

 ボルドー地区(Arrondissement of Bordeaux)は、33の郡を含んで、157の地域コミューンを擁す。ジロンド県?の中部から南西にかけてを占めている領域面積は、4,397平方km。西縁ではガスコーニュ湾に面している。居住人口は、1999年の統計で、98万人弱。

【参照地図】
  • ボルドー都市圏の略地図(Wikimedia Commons
    Image:Cub1
    都市圏の中部南東寄りでガロンヌ川屈曲部の両岸を占めているのが「ボルドー市」。
    右岸旧市街は、「三日月」の形状をしている。
  • アキテーヌ地域圏内のジロンド県?と「ボルドー地区」(Wikimedia Commons
    Image:D?partement de la Gironde - Arrondissement de Bordeaux
    地図中ピンク系の彩色部が「ボルドー地区」。ボルドー地区に赤茶色のエリアを併せると、ジロンド県の県域。

さらに詳しい情報

  • 「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
  • 今から3万年ほど前から2万年前ほど前までの間、地域は、ネアンデルタール人の活動圏だったようだ。
  • 紀元前4世紀の末頃、地域にはケルト系ビトゥリゲス族?の1派、ウィウィスキ族?が移住。
    ボルドーの古代名「ブルディガラ(Burdigala)」の地名は、ケルト系言語では解釈できない。あるいは、ウィウィスキ族の入植以前から、古代アクィタニア人?の集落が営まれていたのではないか(?)と推測されているが定かではない
  • A.D.60年頃、ブルディガラは、ローマ帝国の支配下に入った。
    ブルディガラは、ブリタンニアで産出される銅や錫をローマ市にもたらすルートの中継点として、重視され、3世紀頃までには、ローマ帝国の属州アクィタニアの中心都市になっていった。
  • 276年、ヴァンダル族に襲撃され略奪される。
  • 409年、ヴァンダル族に再襲撃され、略奪される。
  • 414年、西ゴート族に襲撃され略奪される。
  • 418年、ローマ帝国のホノリウス帝が、西ゴート族と講和。古代アクィタニア地域の領有を認められた西ゴートは、トロサ(現トゥールーズ)を王国の都に選んだ。ブルディガラも西ゴート王国の版図に。
【参照地図】

  • 498年、西ゴート王国に侵攻したフランク族に略奪される。
  • 6世紀初頭には、メロヴィング朝フランク王国の領邦に含まれるようになっていた。
  • 511年に、フランク王クローヴィスが死ぬと、アクィタニア地方も、息子たちの間で分割領有されていく。
    この間、細分化された領地の領有を巡る交戦が各地で断続。
  • 7世紀を通じて、メロヴィング朝フランク王国のアクィタニア地方への支配は、名目的なものになっていった。この頃には、トゥルーズがアクィタニア地方の首府とみなされるようになっていた。
  • 719年、縮退していた西ゴート王国が、イスラム勢の前に滅びると、アル-アンダルスのイブン・マリクが、大軍を率いアクィタニアに侵出し、ほぼ地域を制圧。
  • 732年、ボルドーは、アル-アンダルス?から遠征してきたアブドゥル・ラーマン?率いるアラブ・イスラム勢に制圧される。
    10月、トゥールーズの戦い?で、トゥールーズ公大オドーが率いた軍勢が勝利。アラブ勢の概ねはイベリア方面に撤退した。アブドゥル・ラーマンは戦いの最中に戦死した。
  • カロリング朝フランク王国の影響力が、アキタニア地方で強まる。
    カロリング朝は、ヴァイキングの襲撃からガスコーニュ湾沿岸を護ることを条件付け、地域の各所に領主を任命。ボルドーにも何人かの貴族がボルドー伯として任命された。
  • 10世紀頃、地域へのヴァイキングの襲撃がピークに。
  • 10世紀後半頃までには、ボルドー市は、ガスコーニュ伯の世襲領地の1部になっていった。
  • 1096年、聖アンドレ大聖堂建立。
  • 1154年、アキテーヌ公国の女性公爵アリエノールが、後のイングランド王ヘンリー2世と婚姻。
    ボルドーを含むアキテーヌ公領は、イングランド王室領となる。
    以降、交易拠点としてのボルドーの立場は再度重要になり、15世紀頃までにかけて、経済的繁栄が続く。
    13世紀に聖アンドレ大聖堂増改築。
  • 14世紀後半、エドワード黒太子がイングランド王だった頃(1362年〜1372年)、ボルドーはアキテーヌ公領の首府のような行政中心地に。
  • 1451年、フランス王を中心にした軍勢がボルドーを占領。1452年にイングランド軍が侵攻すると、ボルドー市民は蜂起して、フランス側の守備隊を市域から駆逐した。
  • 1453年、カスティヨンの戦いで、フランス側の軍勢が、イングランド遠征軍に勝利。以降、ボルドー及び、旧アキテーヌ公領は、フランス領に。ただし、ボルドー市民は、16世紀後半から17世紀半ば過ぎの間、フランス中央の支配に対する反乱を何度か起こしている。
    一説に、「ボルドー市で、市もフランス王国の1部だ、との意見が主流になったのは、17世紀中葉に、ブルボン朝のフランス王ルイ14世が(反乱鎮圧後)ボルドー市内に入場してからだ」とも言われる。
  • 1462年、ボルドー市は、市議会の開設を認可される。
  • 16世紀、ボルドー市はカリブ諸島からもたらされる砂糖や、アフリカから移送される黒人奴隷の取引で、商業的な重要度を高めはじめる。この繁栄は、18世紀前半をピークに、概ね18世紀いっぱいは続く。
    18世紀には、ガロンヌ川左岸の新市街も再開発された。
  • フランス革命の前後には、穏健派共和主義者の本拠地となり「ジロンド派」と呼ばれた。ジャコバン派主導の時期には、ボルドーのジロンド派に対する攻撃が何度かおこなわれた。

  • 1871年、フランス・プロシア戦争が劣勢になると、ボルドーで国民議会が開催され、フランス政府が移された。
  • 第1次世界大戦中、ドイツ軍がパリ近郊まで迫った際、フランス政府がトゥールを経てボルドーに移された。
  • 第2次世界大戦中、パリ陥落(1940年6月)の前に、フランス政府がボルドーに移された。
    この時は、パリに次いで、ボルドーもドイツ軍に占領され、フランスは降伏。対独協力政府はビシー?に移った。
  • 1945年4月、連合軍の支援を受けた自由フランス軍、ボルドーからドイツ軍を一掃。

GM向け参考情報

参照地図

補足情報

ボルドー関連の著名人

  • アリエノール・ダキテーヌ=アキテーヌ公爵、ギョーム10世の娘。1124年、生まれ。1130年、兄が死亡すると、6歳でアキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、ポワチエ伯領を相続。フランス全土の1/3近くを領有することに。
    1137年、15歳でカペー朝のフランス王ルイ7世と婚姻。1152年に近親婚である、としてルイ7世との婚姻が無効に。
    1152年、アンジュー伯、ノルマンディー公のアンリと婚姻。1154年、アンリがイングランド王位を継承。イングランド王妃を兼ねるようになったアリエノールは、「ヨーロッパで最も強力な女性」と呼ばれた。
    1204年、末子のジョン王の治世中に死亡。
    「アリエノール(Ali?nor)」は、南仏のオック語での生名。北仏のフランス語では、「エレアノール・ダキテーヌ(El?anor d'Aquitaine)」。英語では「エレノア・オブ・アクィテイン(Eleanor of Aquitaine)」。
  • リチャード2世(イングランド王)=エドワード黒太子の息子。1367年、ボルドー生まれ。1376年、父が死に、コーンウォール公に叙され、エドワード3世の王太子に。翌、1377年エドワード3世が死去し10歳でイングランド王位を継承。1399年に諸侯の反乱にあい、議会で正式に廃位された。1400年死去。
  • ミシェル・ド・モンテーニュ=16世紀に活動した哲学者、人文主義者。1533年、ボルドー近くのモンテーニュ城で生まれた。トゥールーズで法学を学び、法官に。1570年、37歳で法官を辞任して故郷に戻る。1581年、ボルドー市長に選出され、1585年まで2期勤める。1592年、死去。
    宗教戦争の時代だったが、自身はカソリックだったモンテーニュは、人文主義者ならではの柔軟さで、プロテスタント側の論客とも交友関係をもっていた。そのためか、法官辞任後、カソリックのシャルル9世、アンリ3世から、非常勤の侍従に任じられた。他方、プロテスタント側だたナヴァール公からも侍従として遇せられたことがある。
  • ジョルジュ・オスマン=1809年、第1帝政期のパリで生まれた。父は、ナポレオン1世に仕えていた。1853年〜1870年、セーヌ県(当時)の知事。この間、皇帝ナポレオン3世の意を受け、中世風の名残が多かったパリ市街を現代風に再開発。その際、「ボルドー市新市街の街並みが参考にされた」とされる。1891年パリで死去。
  • フィリップ・ソレルス=作家、批評家。1936年ボルドー生まれ。1970年代に雑誌「テル・ケル」を主宰(1982年廃刊)。2008年現在、存命中。

別称類

主要国の言語
  • フランス語名=Bordeaux
  • スペイン語名=Burdeos
  • 英語表記=Bordeaux
  • アラビア語名=(調査中)
  • ロシア語表記=Бордо
  • 中国語表記=波〓多
    (〓は表示できない漢字)
その他
  • ガスコーニュ語?名=Bord?u(ボルデゥー)
  • ケルト系言語による古代名=Burdigala(ブルディガラ)

活用や検討

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更新日時:2008/05/31 18:20:01
キーワード:
参照:[トゥールーズ] [ガロンヌ川] [ドルドーニュ川] [ビスケー湾]
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