トゥクルティ・ニヌルタ2世
- トゥクルティ・ニヌルタ2世 トゥクルティ・ニヌルタにせい 簡易版
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「トゥクルティ・ニヌルタ2世」は、紀元前9世紀の初頭に、10年弱ほどアッシリア?支配者の地位にあった人物。
やや詳しい情報
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トゥクルティ・ニヌルタ2世は、先代にあたるアダド・ニラリ2世の息子だった。父の死後、アッシリア王位を継承。統治年は、B.C.891年〜B.C.884年で、足掛け9年ほど。
アッカド語に基づくアッシリア王名は、「我が信心はニヌルタ神(に捧ぐ)」といった意味。
現在の歴史整理では、新アッシリア時代初期の支配者の1人と理解されている。
各地に遠征をおこなったことが、伝えられている。時として「父であり先代支配者にあたるアッシュル・ダン2世のアッシリア領“回復”政策を継承した」と言われる。
上記の評価は、必ずしも間違いではない。ただし、帝国期アッシリアの専制的なアッシリア支配者たちのイメージを、トゥクルティ・ニヌルタ2世に被せて理解することは慎重であるべきだ。
古代の記録によれば、トゥクルティ・ニヌルタ2世は「先代のアダド・ニラリ2世が征服した、西方ティグリス川流域で反乱が起きたため、遠征し、鎮圧した」。おそらく、西方の反乱は、アダド・ニラリ2世の死を好機、とみての決起だったのではあるまいか(?)。
トゥクルティ・ニヌルタ2世が、中アッシリア時代?末期の守勢から、攻勢に転じたアダド・ニラリ2世の政策を継承したことも、その政策を上々の首尾で達成したと思えることも確からしい。
しかし、実情としては、アダド・ニラリ2世の西方「征服」も、帝国期アッシリアに実現したような、確実な征服には至っていなかったのだろう。だから、反乱が起きた、と推測しておいた方が無難だろう。
もちろん、トゥクルティ・ニヌルタ2世にも、帝国期アッシリアの苛烈な征服者のような一面はあったことだろう。ただ、どこまでの範囲の「征服」を視野に置いて活動していたのか? については、性急な判断は禁物だろう。
さらに詳しい情報
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古代記録によれば、トゥクルティ・ニヌルタ2世は、「遠征軍を率い、ティグリス川の水源に達し、そこに記念碑を建てた」と、伝えられている。この石碑は、未確認だが、B.C.885年のことと推定さてている。
記録を信じるなら、ヒッタイト新王国の滅亡後、ウラルトゥが、国家らしい体制を築く、ほんの十数年〜数十年前に、アナトリア東部に分け入ったのかもしれない。
当時のバビロニアはどうだったか、と言うと、中アッシリア時代末期のアッシリア同様のアラム系諸族?の侵出を、南方と東方とから受けていた。バビロニアを統一する政権は成立していなかった。複数の王朝が並立し、未統一状態が、なおしばらく続く時期にあたった。
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「増補待ち」。
別称類
主要国の言語
- 英語表記=Tukulti-Ninurta II
- フランス語表記=Tukulti-Ninurta II
- ロシア語表記=Тукульти-Нинурта II
- アラビア語名の音=(調査中)
- スペイン語表記=(調査中)
- 中国語表記=(調査中)
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キーワード:
参照:[新アッシリア時代] [アッシュル・ナツィルパル2世] [アダド・ニラリ2世] [小辞典ワールド編] [歴史上の実在人物]