メンケペルラー
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メンケペルラー(メンクェペルラァ)は、紀元前11世紀の後半から紀元前10世紀の初頭にかけて、50年以上の長期間、テーベ?のアメン神殿で第一神官だった人物。
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メンケペルラー(メンクェペルラァ)は、現在の古代エジプト研究で、「アメン大司祭国家」と呼ばれるテーベのアメン神官団で第一神官位に就いた人物の1人。 ミイラは、テーベにあるデイル・アル・バハリ?のカシェ?(隠し墓所)から発掘された。「ヘムチェルテピエンアメン(アメン神の第一神官)」の役職名を刻んだカルトゥーシュ?も確認されている。
やはり第一神官になったパネジェム1世の、息子の1人で、ヘリホルから数えて、大司祭国家のリーダーとしては、第6代にあたる。誕生名「メンケペルラー」は、「永続するラー神の神霊」といった意味。
B.C.1045年からB.C.992年にかけて、足掛けで54年間第一神官でありつづけた。 しかし、2年間しか第一神官位になかった先代、ジェドコンスエファンクとの間の継承の経緯は、よくわかっていない。
メンケペルラーが第一神官位に就いた年は、下エジプトのタニス王朝?が、初代スメンデスの統治の末年だった時期にあたる。その後、メンケペルラーがテーベの第一神官である間に、タニス王朝の統治者は、第2代アメンエムニスウ?、3代プスセンネス1世?と移った。メンケペルラーとプスセンネス1世とは相前後して没している。
メンケペルラーが、第一神官に就いた前後、テーベで謀反が起きたようだ。古代記録によれば、タニス王朝のスメンデスの統治25年めに、「謀反人たちが西方沙漠のオアシスに追放された」と、ある。通説を踏まえると、「追放」は、B.C.1045年のことで、メンケペルラーの統治初年にあたる。
メンケペルラーは、プスセンネス1世の娘イシスエムケブ?と婚姻した。プスセンネス1世は、メンケペルラーの兄弟なので、イスエムケプは叔父と婚姻したことになる。
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長期間第一神官の地位にあったメンケペルラー(メンクェペルラァ)だが、その事跡は意外なほどわかっていない。
1つには、ミイラが本来の墓所(未発見)から、カシェ(隠し墓所)に移されていたためだ。 一説に、「おそらく、長兄で、義理の父にあたるタニスのスメンデス1世に対し、従属的だったので、記録が乏しいのだろう」とも言われている。
ともあれ、テーベのアメン大司祭国家とタニス王朝とは、メンケペルラーの代に安定した関係を実現したようだ。
フランスのルーヴル博物館に収蔵されている黒花崗岩の石碑には、「アメン神の神託による」として、西方沙漠に追放された人々が赦免され、テーベへの期間が許された旨、記されている。残念なことに、この碑文の布告年は定かに解明されていないが、長期間に及んだメンケペルラーの代のいずれかの年のことだろう、とは言われている。
あるいは、この赦免と期間許可は、大司祭国家とタニス王朝とのなんらかの政治的合意の結果だったのかもしれない。
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参照:[アメンエムニス] [パネジェム1世] [ジェドコンスエファンク] [マサハルタ] [歴史上の実在人物] [小辞典ワールド編]