スメンデス
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スメンデスは、マネトーの『エジプト誌』では、ファラオ?として記録されている。第21王朝は、ナイル・デルタのタニスに都したが、上エジプトは、現在の古代エジプト研究で「アメン大司祭国家」と呼ばれるテーベ神官団が事実上支配していた。
テーベ神官団の支配層と第21王朝の王統は複雑な婚姻関係を持ち共存するようになるが、初代のスメンデスは、テーベに対してかなり強くファラオとしての権威を主張したふしもある。
スメンデスを現在の視点から評価すれば、「ファラオを称し、ファラオとして振舞ったが、ある程度テーベの神官団と妥協せざるを得なかった人物」といったところだろうか。
ファラオを宣した時期は、普通、B.C.1069年から、とされることが多い。死没した年は、マネトーが記した在位期間26年間から算出して、B.C.1043年、とされることが多い。
「スメンデス」は、セクトゥス・アフリカヌス、ヨセフス?などの古代史家によって伝えられたギリシア語名。
スメンデスの埋葬地は、未確認。あるいは、タニスで発見された墓所遺跡NRT-Iが、スメンデスの墓所かもしれない、とは言われている。しかし、通例、ファラオのミイラと共に埋葬された事跡記録も発見されておらず、その出自なども定かに解明されていない。
スメンデスの出自については、「ラメセス11世に使えた武官だった」とも「第20王朝に服属していたタニスの豪族の子弟だった」とも言われている。また、『ウェンアメンの航海記?』に、「下エジプトの支配者」として登場するネスバーネブヂェト(Nesbanebdjed)が、ファラオ就任前のスメンデスとする意見も古くからある。
ともあれ、ラメセス11世が死没した時、スメンデスが埋葬の手はずを整え葬送を取り仕切ったらしい。その功績をもってファラオ位を継承する、と唱えたかに伝えられている。
古代エジプト王朝の伝統的スタンダードからすると、前記の理由付けは、通例ファラオ位継承の根拠にはならない。スメンデスも、ラメセス11世の娘(か、あるいは王族の娘)と婚姻し、伝統的なファラオ位継承権を得ていたらしい、との推測もある。また、ラメセス11世の、おそらくは姉妹か娘だったと思われるノメジット?と婚姻していたテーベ神官団のヘリホルに対し、ファラオ位継承の優先権を主張した根拠が、「ラメセス11世葬送の功績」だったかもしれない。
B.C.1069年と推定されている年、スメンデスはメンフィスでファラオ就任の儀式を執りおこなった。その後、しばらくはメンフィスに在住したことも確からしい。この間、第20王朝の後半に「下エジプトの王都」として建造されたベル・ラメセスなどを解体するよう命令。調達した石材を使って、古都タニスを新たな王都として大改修させた。スメンデスは、タニスを多数のオベリスクで飾られた王都にしたか、あるいは少なくともそのような構想を実現しようと試みたようだ。
比較的長い治世の中盤以降、スメンデスはタニスから統治した。上エジプト支配の実権は、アメン神官団が握っていたようだが、スメンデスがタニス王朝の優位をテーベ神官団に認めさせたことは、スメンデスがテーベでおこなわせた改修工事に関する記録などからも確からしい。
スメンデスがテーベでおこなった建築事業では、例えば、カルナック大神殿をナイル川の増水から護る為の大周壁の補修などが知られている。
スメンデスの死後、タニスの王朝は、アメンエムニスウ?に継承された。アメンエムニスウは、スメンデスの息子とも、テーベのヘリホルの息子とも言われている。
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現在の研究者の間では、「スメンデスがタニスから下エジプトを支配していた時期は、実際はラメセス11世の統治末年からはじまっていた」とする説も唱えられている。
一見、大胆な説だが、この説を踏まえると『ウェンアメンの航海記』の解釈などが、すっきりとできるようになる。
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参照:[パネジェム1世] [ジェドコンスエファンク] [メンケペルラー] [アメンエムニス] [マサハルタ] [小辞典ワールド編] [タニス,古代エジプトの〜] [歴史上の実在人物] [ラメセス11世]