パネジェム1世
- パネジェム1世 パネジェムいっせい (Pinedjem I) 簡易版
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パネジェム1世は、紀元前11世紀の中葉に、40年弱ほど、テーベ?のアメン神官団のリーダーだった人物。
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パネジェム1世は、現在の古代エジプト研究で「アメン大司祭国家」と呼ばれるテーベ神官団の第一人者として、事実上、上エジプトの支配者のように振舞った人物の一人。
ヘリホルが用いた「アメン神の第一神官(ヘムチェルテピエンアメン)」の称号は用いなかったようだ。「カーケペルラー・セテプエンアメン(ラー神の神霊が顕れる、アメン神に選ばれし者)」の称号を用いていた。しかし、事実上は、神官団の第一神官として振舞ったとみていいだろう。
父だったピアンキが、短期間、神官団のリーダーだった跡を継ぎ、B.C.1070年頃に就任。現在の古代エジプト研究でのアメン大司祭国家の整理に即すと、司祭国家第3代の指導者にあたる。
パネジェム1世の墓所は、テーベでデイル・アル・バハリ?のカシェ?(隠し墓所)に秘められていた物が発掘されている。ミイラや、共に納められていた埋葬物の内から見出された記録に依れば、B.C.1032年頃死没した、と推定される。神官団を率いた期間は、足掛けで39年ほど、という計算になる。
パネジェム1世は、古代エジプト第20王朝?、最後のファラオだったラメセス11世の娘の一人、ヘヌトタウイ1世と婚姻していた。
息子の一人は、タニス王朝(第21王朝?)第3代のプスセンネス1世?となった。
パネジェム1世のミイラに添付されていた文書には、簡略な事跡記録が記されていた。この記録は、ヘリホルが始めて、上エジプトでアメン神官団が用いていた「ウヘム・メスウト(再生暦)」に即していなかった。当時、タニス王朝に君臨していたスメンデス(1世)の治世暦に準拠した記録が記されていた。大司祭国家初代とされるヘリホルの治世記録と同様の編纂方式だ。
このことから、テーベの大司祭国家は、タニスの第21王朝をたてつつ平穏に共存していた、と推定されている。
一方、テーベのカルナック神殿では、第1中庭に面したパイロン(塔門)では、外壁と入り口とにパネジェム1世の肖像が描かれている。他にも、パネジェム1世の名を記した銘文が神殿の数箇所に遺っている。ことに、第1中庭に立つラメセス2世?の巨像に刻まれていた銘文を改竄し、自分の名を刻んだ記録は、いろいろな意味で有名だ。
こうした痕跡から、アメン神官団の第一神官が、事実上、司祭王としての権威を上エジプトに振るっていた様子がうかがわれる。
死後、ミイラがカシュに埋葬された様子からも、当時のテーベでの第一神官の権威の高さが推測される。
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デイル・アル・バハリ?のカシェ?(隠し墓所)から発見されたパネジェム1世のミイラや副葬品は、盗掘を免れるために移され再葬されたもの、と言われている。しかし、最初に埋葬された墓所は、現在も発見されていない。
パネジェム1世の死後、子どもたちの内、プスネンセスの兄弟が、アメン大司祭国家の第一神官の地位を継いだ。第4代にあたるマサハルタと、第6代にあたるメンケペルラーだ。
また、娘であるマアトカラーは、アメン神の神聖妻の地位に就いた。
「タニスの第21王朝をたてつつ平穏に共存していた」と、推定されている大司祭国家だが、パネジェム1世の死後、かなりの期間、内戦状態に陥ったと目されている。内戦に至った、経緯、背景は、未だ、定かには整理されていない。
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参照:[マサハルタ] [小辞典ワールド編] [ウヘム・メスウト] [ジェドコンスエファンク] [ヘリホル] [メンケペルラー] [歴史上の実在人物] [ピアンキ]