ウガリットの遺跡
- ウガリットの遺跡 ウガリットのいせき(Archaeological site of Ugarit)
- PCが予め知ってていい情報
- 追加情報
- GM向け参考情報
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- 活用や検討
PCが予め知ってていい情報
「ウガリットの遺跡」は、現、シリア=アラブ共和国領の西端で地中海に面す港湾都市ラタキア?(ラディーキヤ)に位置する。
追加情報
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10」「情報+知性 目標値12」
- やや詳しい情報 ウガリットの遺跡は、地中海東岸に面した港湾都市ラタキア?(ラディーキヤ)の北郊外に位置。ラス・シャムラのテル(遺丘)と、ミネト・エル・ベイダの遺跡からなる。ラス・シャムラ(茴香の丘)、ミネト・エル・ベイダ(白い港)がそれぞれの遺跡名。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10」
- やや詳しい情報 ラス・シャムラの遺丘からは、紀元前7千年紀の新石器時代集落址も確認されている。ウガリットの都市遺跡は、ラス・シャムラ遺丘にみられる上部文化層にあたる。ミネト・エル・ベイダ(白い港)は、本来は現地の小さな湾を指す現地名で、この湾に面した畑地にある。遺跡としては、古代ウガリット市外港の遺跡。
- 小辞典版推奨判定
- 「言語+知性 目標値10」、「歴史+知性 目標値12」
- やや詳しい情報 ラス・シャムラから発掘された粘土板文書には、楔型文字の文字記号を使いながら、表音文字体系にて当時の西北セム方言を記したウガリット文字が用いられていた。記された言語は、後のフェニキア語とさほど変わらないカナン系の言語だった。
【参考】
GM向け参考情報
用途
ウガリットの遺跡は、導入部で使うのに向いていると思います。少なくとも、クライマックス場面で派手な異常現象を起こす使い方よりは適しているでしょう。
郊外とは言え、国際的な港湾都市にあり、トルコとの国境も遠くなく、マイナーとは言え、観光コースにも組み入れられているからです。クライマックスで派手な異常現象をおこす場合には、事後収拾の手だてに工夫が要になります。
戦闘の類は、銃撃戦程度ならともかく、戦闘ヘリや重機銃の類が投入されるレベルのものは、短期決戦的なものでも、事後の影響を収拾するのに苦労するでしょう。
特にシュープリームですが、2005年現在の状況では、武力襲撃をするなら、一撃離脱的な作戦を採り、撤収ルートと事後の隠蔽を充分準備した作戦をおこなうことを推奨します。
- 登場して唐突でないNPC
- フランス人研究者NPC、現地人遺跡管理者、シリア考古当局んも役人、現地の農民。他に、港湾都市を訪れる、各地、各国の労働者、商業関係者(商社マンなど)、マレに観光旅行者(ウガリットの遺跡まで訪れる者はマレ)。
遺跡へのアクセス
遺跡自体へのアクセス
ウガリットの遺跡は、現在でもフランス隊に発掘権が認められており、数年おきの断続的調査が繰り返されているようです。
また、メジャーとも言い難いですが、観光コースに組み込まれることもあるようです。
マリの遺跡などと同様、遺跡管理人が常駐しており、特別な許可がなければ遺跡地帯には立ち入れない、仮に立ち入ったとしてもやんわりと追い返されるタイプの遺跡、と想定します。(観光客は、観光会社を通じて立ち入り許可が得られている、と想定)
アクセス・ルート
遺跡はラタキア?郊外に位置するので、ラタキアへのアクセス・ルートに等しいとします。
VTOL類でも、ラス・シャムラのテル(遺丘)や、ミネト・エル・ベイダの遺跡の近傍に離着陸するスペースはみつかる、と想定します。
ただし、遺跡地帯への直接離着陸は、通例禁止と考えます。この件については、「VTOL類で遺跡に着陸してもいいか?」にある考え方Aを参照してください。
遺跡の周辺環境
ラス・シャムラの遺丘自体が、ミネト・エル・ベイダの小湾を見下ろす小さな丘を成しています。
高さの平均はおよそ15m。
周辺環境は、地中海式農業の農耕地。ここでは、麦作と果樹栽培の混合農地と想定しておきます。
遺跡の規模と構成
ラス・シャムラの遺丘
22haで概ね台形の遺丘。周辺からの平均高15mほど。
すべてが発掘されているわけではなく、細かな試掘用ピットを除くと、主要発掘地区は全体の2/7〜3/7ほど。6つの地区が発掘されている。
(石器時代遺跡などは、深く掘られた試掘溝〔ピット〕で確認された、と想定します。)
6つの主要発掘区とは、西側の宮殿地区と一般居住地区、北側の神殿地区と下町地区、他に東側に2ヵ所。
膝から腰くらいまでの高さの建物の建造物下部構造や石畳の街路が、地表に露呈している区画もあるようです。
フィクション設定ですが、遺丘上部で、上記の主要発掘区画が数m程度掘削され、ウガリット時代の遺跡が地表に露呈していると想定します。
つまり、発掘区画以外は、1段高くなった堆積面が残っているとの想定です。
ところどころに試掘ピットもみられる、としていいでしょう。
宮殿地区
1haほどの区画から、3つの宮殿、大きな塔が付随した砦、複数の小神殿などが発掘されている。
官庁区も兼ねており、内政、外交に関する粘土板文書が多数発掘されている。
神殿地区
ウガリットの2大神殿、主神で天候神だったバール神の神殿と、アムル系の農耕神ダゴン神との神殿、神官長の邸宅(公邸?)などが発掘されている。
神殿は、建築構造の高さを保持するため、基部では5mの厚みを持つ壁で築かれていた。
連接した前室と奥室を基本プランとし、奥室に至聖所と若干の付属施設が設けられていた。このスタイルは、当時の北シリアの神殿の作りの基本パターンの1つだった。
神官長邸宅からは、3部屋に渡る文書庫から、ウガリット神話を記したものなど、多数の粘土板文書が発掘された。シュメール語、バビロニア語、フリ語、ウガリット語の対訳語彙表も発掘され、研究に多大な貢献を果たした。
他に、青銅製の武具など、神々への奉納品も多数出土。
ミネト・エル・ベイダ
ミネト・エルベイダの小湾は、ラス・シャムラの遺丘から800m離れている。現在のラタキア港の港外で、北に接す小湾になっている。
ウガリットが栄えた当時、湾は、現在、堆積土で平地になっている部分に120m内陸に入り込み、港が整備されていた。
この地で、最初に発見されたのは、ミケーネ・タイプの墓室で、これがウガリット遺跡発掘のきっかけとなった。
ウガリットは、交易で成り立っていた港湾都市で、アラシア(キプロス島)やミノス(クレタ島?)、ミケーネ、エジプトやヒッタイトからの来航者が多く、交易が営まれていた様子が出土品から推定されている。
交易者たちは、出身地ごとに居留集落を営んでいた。ミュケナイ式の墓所も、ミュケナイ人居留地に設けられたもの。
遺跡の来歴
ウガリットは、アマルナ文書やヒッタイトの古文書から、その名は知られていたが、位置が不明の幻の古代都市だった。
発掘によれば、紀元前7千年紀の新石器時代集落址が確認されている。
都市国家としてのウガリットは、遅くともB.C.2000年頃には成立していた。ヒッタイトと同盟を結び、エジプト王朝とも友好関係を結んでいたことが知られている。
この頃までに、アムル人に遅れて都市化しはじめていたたカナン人?は、前後して地中海東岸の港湾集落に都市国家を築き、互いに競い合っていた。
後に、フェニキア系国家として知られる、ベリトス(現、ベイルート?)、ビュブロス、テュロスなどであり、ウガリットは同タイプのカナン系港湾都市の内最北の都市だった。
古代オリエントの国際関係で、大国間のパワー・バランスが保たれていた間は、ヒッタイトもエジプト王朝も、これらカナン系港湾都市を緩衝地帯として保護。貢納を受けていたようだ。
マリの遺跡から出土したマリ文書には、紀元前18世紀頃のマリとウガリットとの交易内容を記した経済文書が含まれている。
ウガリットは、紀元前15世紀頃、一時ミタンニに従属的になったが、ミタンニの勢力弱体後は、再度、ヒッタイトに従属的になった。
一応の独立国ではあり、エジプト王朝との間で独自の外交関係を結んでいたことが、ウガリットやエジプトからの出土遺物から知られている。しかし、事があると、王族の婚姻などにまでヒッタイトの介入を受けたことも、出土文書から知られている。
ウガリットは、紀元前14世紀頃から最盛期を迎える。
B.C.1365年頃、地震と津波とで多大な被害を被ったが復興。
B.C.1290年に、ヒッタイトとエジプト王朝との間でカディシュの戦い?が戦われた後、両国の間の講和(B.C.1269年)を仲介。双方から、仲介料を稼いでいたことも経済文書から知られる。
B.C.1200年頃、おそらく外部勢力の侵攻を受け壊滅。このときは復興され得なかった。
この外部勢力とは、いわゆる「海の民?」と呼ばれる勢力の侵攻と説明されることが多い。しかし、その実態については諸説あり、現在でも充分整理されているとは言えない。
1928年、シリアがまだフランスの委任統治下にあった時代、ミネト・エル・ベイダに面す畑で農作業をしていた農民が偶然、古代墓地の入口を発見。試掘をしたところ、ミケーネ式墓所が発見された。
これが、ウガリット外港で営まれていたミケーネ人居留地の墓所だったことは、後に発掘が進むに連れて解明された。ともかく、この墓所の発見が、ラス・シャムラのテルの発掘とウガリットの発見につながった。
発掘は1928年から1939年まで毎年続けられ、第2次世界大戦で中断。第2次大戦後は、1948年から発掘が再開され、シリアの独立後も断続。通算40次を越える発掘が重ねられている。
出土遺物
- 雷を手にしたバール神の碑
- 狩猟の皿
- 動物たちの女主人(伝統的な太地母神日用品の飾りに用いた浮き彫り)
ウガリット文書
ウガリット出土の外交文書、経済文書からは、古代地中海の国際政治と経済関係との解明が相当に進められた。
しかし、それ以外にも、ウガリット出土の粘土版文書は、これまでに3つの大きな貢献を、考古学と関連学問にもたらしてきた。
1つはウガリット文字の発見である。ウガリット文字は、メソポタミア式の楔型文字の書記法を流用しながら30文字のアルファベットからなる表音文字体系だった。
記された言語は後のフェニキア語となる言語と同系のカナン系言語だが、フェニキア文字は、独自の22文字からなるアルファベットで表記されている。
ウガリット文字とウガリット語の発見は、フェニキア人とカナン人の関係を示す重要な証拠となった。
次に、ウガリット文字で記された宗教文書に含まれたウガリット神話の発見も、シリア・パレスティナ地域の古代史解明に大きな貢献をした。
というのは、後代のフェニキア都市で信奉された神話は、断片的にしか伝わっていないのに対し、ウガリットからは、かなりまとまった神話エピソードをいくつか記した宗教文書が出土したからである。
後代のフェニキア神話の方は、極、断片的な碑文類を除けば、ギリシアやローマの知識人が要約しつつ記録したもの、あるいは、ユダヤ教聖典(『旧約』)の内で、忌むべき偶像崇拝の事例として記録されたものが主になっている。
つまり、ウガリット神話が発見されるまで、フェニキア神話はなんらかの偏見を被った断片しか知られていなかったのである。
もちろん、ウガリットが滅亡した後も続いたフェニキア系都市では、神話も時代とともに変化していたことだろう。
しかし、「バール神が人身御供を要求する神だった」という説には、強い疑問が提起されるようになった。また、ユダヤ教に伝わる海の怪物レヴァイアサンが、元はウガリット神話で語られていた神話獣であることなども知られた。
ウガリット神話は、またホメロスの叙事詩に見られる影響なども議論されている。
第3に、ウガリット出土の、ウガリット語、シュメール語、バビロニア語、フリ語の外対照表。フリ語は、ウラルトゥ王国で使われた言語と関係のあるカフカス諸語の系統の古代言語、と目されている。
現在でも、文法は解明途上で、完全な解読ができるようになったわけではない。ただ、ウガリットから語彙対照表が出土した結果、メソポタミア文明圏の特に北部での、フリ人の広汎な活動に照明があてられることになった。
用例
古代の国際交易港だった遺跡です。シリア以外の国での冒険に至る導入で使うと効果的でしょう。
海の民?の謎と絡めてもいいですし、ミケーネやクレタ、エジプトと絡めてもいけます。
ある程度派手な戦闘で、ホット・スタートにしても、事態の波及効果の収拾については、ボカして処理していくこともできるでしょう。
あるいは、逆に、戦闘に関ったPCチームや財団関係NPCが、事情聴取のために拘束され、しばらくたつと、陰謀組織側の隠蔽工作の副効果で解放されるなんて展開もあり得ます。その間、陰謀組織の方は独自の探索を進めてるってプロットです。
遺跡の出土物は、現在は、シリアへの帰属が成り立っているもの、と想定して処理するのがいいでしょう。(未確認ですが、おそらく成り立っていると思われます)
キーワード:
参照:[ラタキア市] [遺跡] [シリア=アラブ共和国の諸地域] [シリア=アラブ共和国]