センウセレト1世
- センウセレト1世 センウセレトいっせい (簡易版)
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センウセレト1世は、第12王朝の初代ファラオアメンエムハト1世の息子で、王朝の第2代ファラオにあたる。センウセレトは、アメンエムハトの治世20年めに、皇太子から共治王に任じられた。B.C.1971年の事とされることが多い。
トリノ・パピルス?によれば、センウセレト1世は、45年間ファラオの位にあった、とされるが、現在では「治世46年めに没した」と碑文が刻まれた石碑が知られている。没年は、B.C.1926年とされる事が多い。
センウセルト1世は統治の末期に、息子アメンエムハト2世を共同統治者にした。アメンエムハト2世が共治王に任じられた年は、今ひとつ定かではないが、少なくとも3年間は共同統治した、とされている。
アメンエムハト2世の生母は、聖婚をした姉妹ネフェル妃だった。
センウセレト1世は、父アメンエムハト1世の共治王であった間、父親の南方拡大政策に沿って、何度かヌビアに遠征した。ブヘンにエジプト王朝の拠点が確保されたのは、アメンエムハトとセンウセレトが共同統治をしていた時期だ。
他に、センウセレト1世は共治王時代に西方沙漠や、シナイ半島方面への遠征軍も指揮した。父、アメンエムハトが王都イチタウイで暗殺されたのも、西方沙漠への遠征中のことだった、と伝えられている。「父の死を知ったセンウセレトは遠征軍を率いて王都に帰還すると、速やかに反乱を平定した」と、いうのも、碑文類に刻まれた記録だ。
父の死後、単独統治者となったセンウセレト1世は、ヌビア地方では支配を固め朝貢交易を進めた。西方沙漠のオアシスに勢力を及ぼし、シリア・パレスティナ地域?の都市国家の支配者たちと、優位な外交関係を結んだ。古代記録を信じるなら、西方のオアシスにエジプト王朝が勢力を及ぼしたのは、センウセレト1世の代がはじめてのことになるはずだ。
王朝に服属していたエジプト各地の地域支配者たちの間でも、忠誠を示すものを重用し、第1中間期?以来の地方分裂傾向を、かなり中央集権化したようだ。
このような事跡を記した古代の碑文類から、センウセレト1世は後世、中王国時代でも最も強力なファラオの1人とみなす人物像が伝統的になった。
さらに、センウセレト1世は、シナイ半島やワディ・ハンママートなどでの鉱山事業を国家事業として進め、長い治世を通じて各地の神殿や寺院を修築した。
センウセレト1世が関わった建築事業には、主要なものだけでも以下のようなものがある。
GM向け参考情報
- GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイデア・フックなど
「増補待ち」。
別称類
主要国の言語
- アラビア語名の音=(調査中)
- 英語表記=Senusret I
- フランス語表記=S?sostris I
- スペイン語表記=Sesostris I
- ロシア語表記=Сенусерт I
- 中国語表記=辛努塞〓特一世
(〓は表示できない漢字)
活用や検討
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キーワード:
参照:[歴史上の実在人物] [センウセレト3世] [歴史的ヌビア地域略史] [アメンエムハト1世] [アメンエムハト2世] [小辞典ワールド編] [オベリスク]