アンテフ2世
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アンテフ2世は、アンテフ1世の死と共に、テーベの支配者の地位に就いた。おそらく、紀元前22世紀の末頃で、B.C.2118年とも、B.C.2117年とも言われる。異説に、紀元前21世紀前半とする説もあり、B.C.2064年などとも言われる。
テーベの支配権を継承したアンテフ2世は、かなり速やかに、テーベ以南、第1急湍のアスワン地域まで、上エジプトを直接統治下に治めた、と伝えられている。
アンテフ2世がファラオを称してテーベなどを支配していたのは、49年間とも50年間とも言われる長期間に及んだ。
アンテフ2世は、やはりその統治の初期に、アンタエオポリス?までをも服属させた、と伝えられている。この拡張政策が、ヘラクレオポリス・マグナ?の地方政権(第10王朝?)を刺激したのか、テーベとヘラクレオポリス・マグナは、アビュドスやティニス?の支配権を巡って戦いを断続させた。
長期的には、戦況はテーベ側が優位に立ち、アンテフ2世の統治末期には、パノポリス?のあたりまでが、テーベに服属した勢力圏になった。
アンテフ2世は、死後、ドゥラ・アブー・アル-ナガル?の墓域に埋葬された。没年は、B.C.2069年と推定される事が多い。B.C.2015年頃とも言われる。
アンテフ2世の代のテーベでは、後世カルナック大神殿?に発展するアメン神殿の建立が始まったと思われる。それ以前、テーベの祭神はメンチュ神?だった。
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アンテフ2世の代のテーベの、南方支配と、北方拡大の因果関係は、現在までのところあまり明快に整理はされておらず諸説ある。
ただ、南方を直接統治下に置いた事で、長距離交易に関わる富を得た事は確からしい。この財力が、北方への拡大政策を支えたのだろう、との推定は、広く受け入れられている。
アンテフ2世の長期に渡る上エジプト支配は、ヘラクレオポリス・マグナとの交戦にも関わらず堅調だった。アンテフ2世の死後、支配者の地位を継承したアンテフ3世は、テーベの勢力圏をリェコポリス?のすぐ南あたりまで拡大することになる。
アスワン地方のエレファンティネ島にあった神域から、アンテフ2世の彫像が発掘されている。この事は、テーベの直接統治を裏付ける物証と見なされている。
さらに、アンテフ2世は、治世30年め頃までに下ヌビアのワワトのあたりまでも影響力を及ぼすようになっていた、と推測している研究者もいる。
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別称類
主要国の言語
- アラビア語名の音=(調査中)
- 英語表記=Intef II
- フランス語表記=Antef II
- スペイン語表記=Intef II
- ロシア語表記=Иниотеф II
- 中国語表記=因提夫二世
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参照:[小辞典ワールド編] [メンチュヘテプ2世] [メンチュヘテプ1世] [アンテフ1世] [歴史上の実在人物] [アンテフ3世]