メンチュヘテプ2世
- メンチュヘテプ2世 メンチュヘテプにせい (簡易版)
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メンチュヘテプ2世は、アンテフ3世の息子で、父の死と共にテーベの支配者の地位に就いた。普通、紀元前21世紀の半ば頃のこととされ、B.C.2046年とも、B.C.2060年とも言われる(あるいは、B.C.2007年とする説もある)。
アンテフ3世の代のテーベ政権は、上エジプトの概ねを支配下において久しく、メンチュヘテプ2世も、支配者の地位を継承すると同時に、父同様ファラオ?を称したと思われる。
メンチュヘテプ2世は、足掛け51年在位したとされる。上下エジプトの再統一の経緯はほとんど解明されていない。しかし、遅くとも治世39年めには再統一が達成されていたと思われる。
メンチュヘテプ2世の死没は、普通、紀元前20世紀始め前後とされ、B.C.1995年、あるいはB.C.2010年などと言われる。また、少数派の意見にB.C.1956年とみる説などもある。
第11王朝の“ファラオ”を伝統的に初代とされるメンチュヘテプ1世から数えるなら、2世は、王朝の5代めになる。
メンチュヘテプ2世の王墓は、複数いた王妃たちと同じ墓域に営まれていたようだ。この墓域は、、アンテフ1世、2世、3世が埋葬されたドゥラ・アブー・アル-ナガル?(ルクソール西岸)に近接している。他に、王の彫像を納めた葬祭殿が墓域の南に隣接した位置で営まれていた。こちらの葬祭殿址の発見者は、ハワード・カーター?だった。
メンチュヘテプ2世は、ヌビア地域への遠征や、パレスティナ地域への遠征に熱心だったようだ。メンチュヘテプ2世の将軍(あるいは王子だったかもしれないが定かでない)だったメセティフの墓所(アシュート市近傍)からは、エジプト人兵士とヌビア人の射手、数十人ずつの混成で編成された部隊の木彫りミニチュアが発掘されている。
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メンチュヘテプ2世の代は、治世の長さの割りに細かな出来事が整理されていない。大きな戦役が続いたためだろうか(?)。
メンチュヘテプ2世がテーベの支配者の地位を継承した頃、テーベの政権は、パノポリス?のあたりまでを支配権として久しかった。
メンチュヘテプ2世の治世14年め、ティニス?でテーベに対する反乱が起きた。メンチュヘテプ2世は、この反乱の鎮圧の後、リュコポリス?を攻め落としたようだ。同時代の記録は断片的で、細かな経緯は定かで無いが、テーベの軍勢は一連の戦役を戦い、北方のヘルモポリス?やヘラクリオポリス・マグナ?を順次従え、再統一を達成していった。
再統一戦争が長かったはずの治世だが、メンチュエムハト2世の代、王朝の経営は、概ね堅調だったようだ。上下エジプトの各地で、神殿の修築など建設事業が進められた。
GM向け参考情報
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「増補待ち」。
別称類
主要国の言語
- アラビア語名の音=(調査中)
- 英語表記=Mentuhotep II
- フランス語表記=Montouhotep II
- スペイン語表記=Mentuhotep II
- ロシア語表記=Ментухотеп II
- 中国語表記=〓〓荷太普二世
(〓はそれぞれ表示できない漢字)
活用や検討
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キーワード:
参照:[メンチュヘテプ4世] [メンチュヘテプ3世] [小辞典ワールド編] [アンテフ3世] [歴史的ヌビア地域略史] [メンチュヘテプ1世] [古代エジプト略史] [歴史上の実在人物]