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ネコ1世

ネコ1世 ネコいっせい(NechoI)

PCが予め知ってていい情報

 ネコ(1世)は、古代エジプト?の新王国時代?最末期、あるいは、末期王朝時代?黎明期に、下エジプトナイル・デルタ地域で有力だった人物。

 紀元前7世紀の後半に、エジプトで起きた対アッシリア第1次反乱が鎮圧された後、アッシリア帝国?アッシュル・バニパルにより、サイス?(ナイル・デルタ西部に位置した)の王に任じられた。

 それまでのネコは、力関係でこそナイル・デルタ有力者の内の1人だったが、公的立場は、サイスの1知事だった。しかし、アッシリアの後ろ盾で王位に就いてからは、アッシリア?の従属者ではあっても、ナイル・デルタ西半分の統治者になった。

追加情報

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 B.C.671年に、アッシリア帝国?のエサルハッドンがメンフィス?まで侵攻したとき、ネコは、サイスの知事という地位にありながら、ナイル・デルタの西半分で支配的な立場にあった。第25王朝?の宗主権の下、各地で自律的だった地方有力者の1人だったのだ。
 このとき、ネコは、他のナイル・デルタ有力者たちと共に、エサルハッドンに臣従し、下エジプトのアッシリア総督首席といった地位に任じられた。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 B.C.669年頃、第25王朝のタハルカヌビアからテーベ?までの支配権を回復すると、呼応するようにナイル・デルタで対アッシリアの第1次反乱が起きた。この反乱がエサルハッドンの帝位を継承したアッシュル・バニパルの軍に鎮圧された後、ナイル・デルタ有力者の多くが処刑された。ネコも、一時アッシリア?の王都ニネヴェに送られた。譴責されていたのだと思われる。
 赦免後、帰国したネコは、サイス王に就任。メンフィス知事も兼ねることになった。おそらく、このときに息子プサメティコス?が人質としてニネヴェに留められたと思われる。
 B.C.665年にナパタ?でファラオ?に即位した第25王朝のタヌトアメンは、軍勢を率いて北進。アスワン?、テーベ、メンフィスを奪還。アッシリアに臣従していたナイル・デルタの有力者たちに、対決姿勢を示した。ネコは、B.C.664年にタヌトアメン軍を迎撃したナイル・デルタ同盟軍の陣中で戦死した、と伝えられている。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」「言語+知性 目標値14以上」
詳しい情報 「ネコ」の名は、古代ギリシア語の読みが現代に伝わったもの、古代エジプト語では「ネカウ」といった音に近かった。
小辞典版推奨判定
「歴史+直観 目標値12〜14」
インスピレーション ネコ1世の系譜は、下エジプトで第24王朝?を開いたリビア系勢力の王統に連なる、とする説がある。
注: 「説がある」のは事実だが、充分論証されているとも言えない。リビア系勢力の後裔であることは大方に認められているが、第24王朝直系の王族かどうかは、今一つはっきりしていない。)

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値14以上」
専門的知識 ネコは、サイス?知事ネカウバアから、B.C.672年に知事の位を後継したと思われる。一般に向けては、この年が「ネコ1世」の即位年と説明されることが多い。
 しかし、彼はファラオ位を称したわけではない。“即位”と言っても、地方政権の長の位置につき「知事」を称したわけだし、知事の位も第25王朝に追認を受けたものだろう。この「追認」を形式的なものとみなせば、「地方政権の長へ事実上の即位をした」と整理することもできはする。
 そうした歴史整理を否定するわけではないが、同時代的には、ネコは、第26王朝?成立後に王朝始祖とみなされた人物、との位置づけの方が重要だったはずと思われる。

【参照イメージ】

GM向け参考情報

 ネコ1世は、古代エジプト史ではマイナーな人物だろうと思われます。高校世界史級ではド・マイナーかもしれません。生前、ファラオ?位に就いたわけでもありませんから。

 しかし、末期王朝時代?に古代エジプト王朝最後の輝きとも言える第26王朝?を開いたプサメティコス1世?の父で、同王朝第2代のネコ2世?の祖父です。もう少し注目されてもいいのではないか? とも思われますが、彼の事跡を細かく整理した日本語の歴史書、特に概説書はあまり見かけません。

事跡

 ネコは、サイス?知事ネカウバアから、B.C.672年に知事の位を後継したと思われる。多くの一般向け資料で、この年が「ネコ1世」の即位年として紹介されている。しかし、彼はファラオ位を称したわけではない。

 当時のサイスは、ナイル・デルタの西半分を支配していた地方政権第24王朝?の後継者を自認しつつ、第25王朝?の宗主権に服していた。このことから、ネカバウやネコの「知事」の称号も自称ではなく公的と認められる。ただし、当時のナイル・デルタには、外来遊牧部族のマー族、リブ族が、族長たちに率いられた部族集団ごとに割拠しており、ネコに限らず地域の有力者たちは対処に苦慮。必ずしも磐石の地域支配でもなかった。

B.C.671年
 アッシリア帝国?エサルハッドンが下エジプトを制圧した後、ネコは、他のナイル・デルタ有力者と共にアッシリアに臣従。後、ネコは、下エジプトの総督首席といった地位に任じられた。
B.C.669年
 この年までに、一旦ヌビア?にまで退いていたタハルカは、テーベまでの支配権を復活させた。エサルハッドンは軍勢を率いて下エジプトに再進攻したが陣中で没してしまう。ネコは、一時アッシリアの王都ニネヴェに送られ拘留される。譴責されていたのだと思われる。帰国後、サイス王に就任し、メンフィス知事も兼ねた。
B.C.665年
 ナパタでファラオに即位した第25王朝のタヌトアメンが、軍勢を率いて北進。アスワン、テーベ、メンフィスを奪還。アッシリアに臣従していた、ナイル・デルタの有力者たちに対決姿勢を示した。
B.C.664年
 タヌトアメン軍を迎撃したナイル・デルタ同盟軍の陣中で、ネコは陣没した、と伝えられている。
 同年、ネコの息子プサメティコス?は、アッシリアから、「全エジプトの王」に任じられた。この年が第26王朝?創建の年にあたる。おそらくは、前後して、ネコが王朝始祖とみなされるようになったのだろう。

人物像

 第26王朝?のファラオたちは、古代エジプト王朝の伝統復古に力を注ぎ、伝統的だったと言われます。

 しかし、アッシリア帝国?の宮廷で人質生活を送ったプサメティコス1世?や、その息子ネコ2世?の事跡をみると、政治的パフォーマンスとして伝統神殿の権威を利用しているものの、いくつかの改革や伝統違反もおこなっている点が目立ちます。

 一方、ネコ1世はどうか? と言うと、判断材料が乏しく、よくわかりません。

 しかし、どちらかと言えば、リビア系の第24王朝?同様、古代エジプトに同化した移入者起源の王朝だからこそ、過剰に古代エジプトのスタンダードな秩序感覚に身を寄せていった気配も見受けられます。

(ヌビア系の第25王朝?も、過剰に伝統スタンダードを重んじた王朝でした。ナイル・デルタの地方政権があっさり、25王朝の宗主権に服したのも、双方がそれぞれに伝統に身を寄せた王朝だったからでしょうか?)

 以上は、陰謀史観の類を廃した人物像。しかし、なかなか論証は難しいでしょうから、必ずしも歴史書などでみられる人物像でもないでしょう。

 さて、ネコ1世をブルーローズのシナリオ題材として考えてみると、どうなるでしょうか?

 いろいろわからない点が多いので、料理し易い人物だとは思います。

 特に、一旦ニネヴェに送還(?)されている間に何があったのか、帰国して以前より高い地位をアッシリアに認められたのはなぜか? などには物語的な興味が惹かれます。

 しかし、エサルハッドン、アッシュル・バニパルやプサメティコス1世といったメジャー級人物との関わりが深いので、あまり突飛な料理をすると、もっともらしさとの兼ね合いに苦労するかもしれません。(やはり、マイナー人物、ということでしょうか?)

活用や検討

活用

検討

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更新日時:2006/08/11 00:07:59
キーワード:
参照:[歴史的ヌビア地域略史] [歴史上の実在人物] [タヌトアメン]
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