ニネヴェの遺跡
追加情報
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値8〜10」、「情報+知性 目標値10〜12」
- やや詳しい情報 ニネヴェは、新アッシリア時代の帝国最盛期に王都に遷都された都市だった。2005年現在、ユネスコ世界遺産にこそ未登録だが、イラク当局提出の「暫定世界遺産リスト」(当該国当局が考える公式な世界遺産候補リスト)に掲載されている。
- 小辞典版推奨判定
- 「情報+知性 目標値10〜12」
- やや詳しい情報 遺跡が存在するニナワ県?は、イラク共和国の内でもスンナ派信徒の居住率が高い県の1つ。
- しかも、モスル市近傍のティグリス川の左岸(東側)は、クルド人?居住者が多数派の地域になっていく、右岸(西側)はモスルを含めて、スンナ派アラブ人とクルド人が混住する地域。モスル周辺では、丁度、ティグリス川が境になっているような型だ。(ちなみに、イラクのクルド人は、圧倒的多数がスンナ派信徒を自認している)
- 2006年現在、周辺ではメディアで「抵抗勢力」と呼ばれる勢力の活動が断続。
【参照地図】
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10〜12」、「情報+知性 目標値12〜14」
- 詳しい情報 ニネヴェの遺跡が位置するニナワ県は、「ニネヴェ」の古代都市名に由来。遺跡は、ニナワ県県都のモスル市?近傍に立地。
- モスル市街主要部からは、ティグリス川を挟んだ東北東方向にあたる。
- 遺跡地帯は、概ね面積が広く周辺との比高がさほどでもない(数m〜10mほど)微高地のようになって遺る。この遺跡地帯の北と東とは、モスル郊外の宅地に囲まれている。
- また、遺跡地帯の中央部を地方河川であるコスル川が、一部で屈曲しながら横断。市域の西でティグリス川に合流していく。
- コスル川左岸(南東方向)では、遺跡地帯上にも、かなり宅地が広がっている。この宅地は、モスル郊外のネビ・ユナスの町の1部。
- ネビ・ユナスの町には、ユダヤ教聖典(『旧約』)で、ニネヴェの都を訪れた、とされる古代のユダヤ教徒、ヨナの墓と信じられる場所を記念したイスラム寺院がある。
- 本来の古代都市市域が、発掘可能な状態で遺っているのは、遺跡地帯の概ね北半分と南端にあたる。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値14以上」
- 専門的知識 ニネヴェの遺跡は、アッシリア帝国?の支配者アッシュル・バニパルが収集した「アッシュル・バニパル文庫」(ニネヴェの図書館)で有名。
- アッシュル・バニパルの王宮址は、古代ニネヴェ都市域の西辺で市域を横断するコスル川が大きく屈曲している箇所の西に位置。
- 古代ニネヴェは、メソポタミアの最古と呼べる都市の1つでもある。下層からは、紀元前7千年紀以前に溯る、とされる新石器人の集落址も発掘されている。
- アッシリア?の都市としては、王都と宗教センターを兼ねた城壁都市、といった性格。ニネヴェの名も、メソポタミア文明圏で崇拝されたニン女神?の名にちなむものだったらしい。
- 紀元前2千年紀頃から、アッシリア?の支配者たちが建築を競い、B.C.700年頃、帝国期のセンナケリブの代に、王宮が移され最盛期を迎えた。センナケリブの王宮址は、コスル川の右岸(北西岸)で、アッシュル・バニパル王宮址の南西に近接。西側の都市外壁に隣接している。
- これらの王宮址が固まっている地域は、遺丘の堆積によって、遺跡地帯の内でも、1段小高くなっている。現地では、このあたりが「クユンジクの丘」と呼ばれている。
- 現在、遺跡最上層に露呈しているのは、アッシリア王?センナケリブ以降の都市遺跡。
【参照イメージ】
- (ニネヴェの遺跡地帯衛星撮影,Satellite Remote Sensing and Archaeology)
GM向け参考情報
用途
ニネヴェの遺跡は、シナリオに応じて料理法の幅は広いと思われます。ただ、周辺人口が、やや多めである点が考えどころです。
例えば、次のような用途が考えられるでしょう――
- NPC調査隊の警護自体が、PCチームのオープン・ミッションになる
- 例えば、非常事態下での、緊急短期集中調査。
- あるいは、非常事態に伴う重要遺物の受け取り → 警護移送 → 現イラク政府とローズ財団トップとの合意が成り立っての一時海外退避(財団が責任を持って、現イラク暫定府から一時預る型)。分析調査などの名目をたてれば、イラク内外への政治的影響の軽減が期待できる。
- 陰謀組織や、シャドウ・ウォーズに脇から関ってしまうNPCの非公然探索、調査の舞台
- ミッションの焦点となるオーパーツの手がかりが与えられる、シナリオの1舞台
- オーパーツが、遺跡の何かに反応して、冒険の新たな手がかりを示す特別なスポット
現況とアクセス
遺跡自体へのアクセス
モスル?を、拠点にするのが通例だろう。
2006年現在、一帯の治安担当は米軍。(この件については、「イラク治安維持の地域分担?」の項も参照されたし)
暫定遺産リストに挙げられている遺跡なので、現イラク政府も米軍もかなりの配慮をしていると想定。
暫定遺産リストを作成したのは旧フセイン政権なので、いわゆる抵抗勢力もそれなりに配慮はしている、としてもいい。
あるいは、アラブ諸国から潜入した抵抗勢力メンバーは気にしないとか、米軍などが配慮していることを逆手に取り、いざと言うときに逃げ込む場として想定、抜け道なども用意している、などとフィクション設定してもいいだろう。
さらに、ニネヴェ遺跡を巡って、外国出身の抵抗勢力と現地の人の間に意見の不一致があるなどすれば、かなり現地情勢に関ったシナリオを構想することもできるだろう。
アクセス・ルート
アクセス・ルートは、シンプルにモスル?から渡河。
VTOL類によるアクセスは、ミッションの緊急性によってはあり得るでしょう。それでも「クユンジクの丘」地帯への直接離着陸は、避けた方が好ましいです。
(この関連は、「VTOL類で遺跡に着陸してもいいか?」にある、考え方Aを参照の上、検討してみてください)
【参照地図】
- イラク 地図
(Super Travel Net) - 「イラク共和国の有用地図集」も参照されたし。⇒ イラク共和国の有用地図集
(Sun SITE)
(モスル?一帯の地図,ニネヴェ遺跡は“Nineveh Ruin”として記されています,Global Security.org)
遺跡の現況
コスル川以南の遺跡地帯が宅地に占められ、発掘、再調査が可能な遺跡地帯が、北部と南端に限られている現状は、PC向けの情報本文にもある通り。「アクセス・ルート」の項に見られる衛星写真を見ると状況はよくわかるだろう。
遺跡地帯の景観写真を見ると、遺跡地帯北部などは、家畜の放牧も使われているらしい。
ニネヴェ遺跡には、米英主導の連合軍侵攻以前に、旧フセイン政権による部分的“修復”が成されていました。
都市外壁の一部が“修復”されていて、囲壁北辺に位置する「ネルガル門」も“修復”されています。
囲壁内部では、「クユンジクの丘」地域で、センナケリブの王宮址が、宮殿外壁のみ修復されているようです。
- ニネヴェ遺跡の“修復”について
- フセイン政権のイラク各所の遺跡“修復”は、外には「アラブの大義」を説き、内には「イラク・ナショナリズム」を説いていた大統領の政治的パフォーマンスだった、と言われています。実は、各国の考古学研究者には評判が悪かったものです。
- 「細部の考証を無視した“創作”であって“修復”とは言えない」、「あれでは遺跡ではなくテーマパークだ」などと言われていました。強引な修復計画のため、本来の遺跡が損なわれる、あるいは将来の再調査が困難になる、と危惧されていた遺跡もあります。
【参照イメージ】
(部分的に修復されている都市囲壁)
(クユンジクの丘から見た都市囲壁と、囲壁越しのモスル市街遠景)
(クユンジクの丘の景観)
(クユンジクの丘で部分修復されたセンナケリブ宮殿の内側)
(遺跡中心部から遠望したネビ・ユナスの町)
(ネビ・ユナスの町並み)
(University of Oxford)- (“修復”されたネルガル門,ATLANTIC BAPTIST UNIVERSITY)
- Ancient Nineveh (Kuyunjik Palace)(The History of the Ancient Near East)
(ニネヴェ遺跡地帯の遠望。全体が小高くなった上に、さらに1段小高く見えるのが、クユンジクの宮廷区画) - 修復されたニネヴェの城壁((日本国)外務省サイトの、イラクの文化遺産)
- ニネヴェの遺跡地帯、及び周辺の写真ギャラリー(THE ORIENTAL INSTITUTE,The University of Chicago)
遺跡の規模と構成
最盛期、センナケリブ在位期前後の市域は、およそ7平方km。
北東方向から蛇行しながら南西流してティグリス川に流入する小河川(コスル川)の流れを、囲壁内にとり込んでいた。また、古代には、都市壁外縁の西から南にかけて掘られた外堀を巡って、ティグリス川に注がれる分流れ設けられていた。
- 囲壁外形の大まかな形状
- まず、地図上で、底辺を北向きに向けた後、西側の長辺を、ティグリス川の流れと概ね平行になるように傾けた底辺の短い二等辺三角形を描く。南方の頂点は南南東方向を指して傾くはずだ。
- 二等辺三角形が傾いた状態で、南南東方向を向いている頂点近くに東西方向の切れ目を入れ、頂点側を取り除く。
- 後には、歪んだ四辺形が残るはずだ。これが、概ねかつての囲壁のアウトラインに近い形状と配置に概ね近い。
実際の囲壁は、上記「大まかな形状」で仮想した四辺形の各辺にあたる部分が、それぞれ幾つかの門を城壁で繋いだ作りになっていた。
門と門との間の城壁はほぼ直線に沿って建てられていたが、門を越すごとにわずかずつ向きを変えた囲壁が多い。
前記の外形での「辺」はあくまで説明のための仮想。しかし、アウトラインとしては、仮想した「歪んだ四辺形」が、最盛期の囲壁跡と言えなくはない。
北側で、西南西〜東北東方向に建っていた囲壁は、約2700m。
ティグリス川に概ね平行な長い囲壁は、およそ4100m強。
南側で、概ね東西方向に建てられた一番短い囲壁は800m弱。
東側の長い辺は3800m強。
ただし、上記の数字は、いずれも先ほどの仮想ラインの距離。実際は東側の城壁は、仮想ラインの外側に向け緩い弧を描くように膨らんでいる。(だから、実際の囲壁はもっと長い)
当時は、東側の囲壁に並行するように、南でティグリス川に合流する運河が市域の外を流れていた。
つまり、仮想イメージを使って説明した囲壁の外形アウトラインは、ティグリス川と運河とが、やや傾いたYの文字のような地形を作っていた、その両水路の間に建てられていた。それで「歪んだ四辺形」になっていたのだった。
- 修復された囲壁
- 衛星写真から判断して、囲壁が“修復”された箇所は以下のようと想定。
- 北辺(北西辺)、北角から、北東辺の北部。
- 「クユンジクの丘」地域の西辺。
- ネビ・ユナスの宅地を越えた、古代市域南端の南縁囲壁、及び、南東角から東辺の一部。
- 市門数
- 遷都以降、市壁に設けられていた市門総数は、15。
- 北側、3つ。ちなみに、“修復”された「ネルガル門」は、3つの門の真ん中の門。位置は北辺中ほどやや西寄り。未確認だが、他の2つの門は“修復”されておらず、修復囲壁が途切れていると想定。
- 西(ティグリス)側、5つ?(発掘でも、城壁跡に大きく途切れてるとこが2ヵ所ほど遺っており、往時は5つ以上だったかもしれない) 。
- 囲壁は、王宮区画以外“修復”されていない。未確認だが、市門も“修復”されていないと想定。
- 南側、1つ。未確認だが、市門は“修復”されておらず、修復囲壁が途切れていると想定。
- 東側、6つ。囲壁も“修復”されていない。
- 遺跡図紹介
- 紙媒体の遺跡図としては、さしあたり次をご紹介しておきます。
- 大貫良夫、他、共著,世界の歴史1『人類の起原と古代オリエント?』,中央公論社,1998.
- ニネヴェ遺跡図は、上記本のp.340。
- 小さな概略図で縮尺率きついけど、比較的大きめの神殿跡が4つ、小さな神殿があちこちに点在していた様子はわかります。
- ただし、遺跡周辺の現状については、記されていません。
遺跡の来歴
古くから、アッシリア文明?に属した都市で、宗教センターも兼ねた。
B.C.700年頃、新アッシリア時代帝国期のセンナケリブの代に、王宮が移され王宮所在都市として最盛期を迎えた。
センナケリブ、エサルハッドン、アッシュル・バニパルと、3代に渡り王宮が置かれたが、アッシュル・バニパルの死後、新バビロニア、とメディアとの連合に攻められ、掠奪を受けた後、破壊を被った。B.C.612年のこととされる。
地域には、13世紀にチュルク系のセルジューク朝の下で、わずかに復興。16世紀までは遊牧民の定住化集落もあった。
遺跡となったニネヴェが初調査されたのは、1842年のこと。まず、当時、オスマン・トルコ領だったモスル?の領事館に赴任していたフランスの外交官、ポール=エミール・ボッタが、『聖書』の記述を手がかりに「クユンジクの丘」の試掘をした。
実はこのときの試掘はうまくいかず、文字の刻まれたレンガがいくつか発掘されただけで終わった。
ところが、何者かがボッタに、「少し離れたコルサバードに行けば遺跡がみつかる」と告げたらしい。彼はコルサバードで、目当てのニネヴェではなくサルゴン2世の築いたドゥール・シャルルキンの遺跡を発見してしまった。フランス政府も発掘助成金を出すことになり、ドゥール・シャルルキンの発掘がはじまったのだが、それは別の話だ。
1845年、U.K.(連合王国)の A.H.レイヤード?、当時「第3種文字」と呼ばれた楔型文字(後にアッカド語?と判明)の解読研究に取り組んでいたH.ローリンソン?らが、モスル周辺の広い地域を探索しはじめた。
ボッタが「クユンジクの丘」で試掘したことを知っていたレイヤードらは、当然、最初は別の場所で試掘をおこなった。1847年に彼らが発見したのはニムルドの遺跡(カルフの遺跡)だった。1説にニムルドの名が、ユダヤ教聖典(『旧約』)のニムロドに由来する、との伝説に惹かれての発掘だったと言う。
その後レイヤードは、何か思うところがあったのか、クユンジクの丘にチャレンジする。彼が、ニネヴェを捜しあてたのは1849年のこと。レイヤードの助手をしていたH.ラッサム?が、アッシュル・バニパル文庫(粘土板図書館)を発掘したのは、1853年のことだった。レイヤードは、1853年の発掘を最後に、U.K.に帰国した。
ニネヴェ遺跡は、新石器時代にまで溯る遺跡層が成層した古い遺跡なので、その後、現在に至るまで、何度も再調査が繰り返されている。
主な出土物、など
- アッシュル・バニパル文庫
- ニネヴェ遺跡?出土の粘土板文書の内、アッシリア帝国?の帝王、アッシュル・バニパルが収集した古文書コレクションの通称。19世紀に発掘された。
- 「ニネヴェの図書館」、「アッシュール・バニパルの図書館」などと呼ばれることもあるが、粘土板古文書のコレクションを指す呼称としては「アッシュル・バニパル文庫」が相応しい。
美術工芸品の分野で、有名なニネヴェ出土品は、と言えば、まず、有翼人面牡牛ラマッス?の像があげられる。ラマッス像の1体は、レイヤードが、はじめてニネヴェ遺跡で発掘し、その後の大規模調査のきっかけとなった。(その後の発掘で、レイヤードは15体のラマッス像を発掘した)
他に、通称「瀕死のライオン」と呼ばれる浮き彫りなども有名。
これは、本来は、アッシュル・バニパルがライオン狩りをする様子を、続き絵物語(コンティニュアス・レラティブ)の形式で描かれたものだった。現在は、1部が切り出されてブリティッシュ・ミュージアムに収蔵されている。
【参照イメージ】
- 「瀕死のライオン」(東京都美術館)
- Nineveh (Iraq)(THE BRITISH MUSEUM COMPASS)
ブリティッシュ・ミュージアム収蔵品内、ニネヴェ出土品をセレクトした、フォト・ギャラリー。
アイディア・フック
- ラマッス像の謎
- イラク戦争での米英軍侵攻前、ニネヴェ遺跡の修復された城門のところに、ラマッス像が1体設置されてたらしい。戦争前の写真でみた。
- 今、本当はどうなってるかは知らないけど。フィクション設定修復された「ニムルド門」のところに設置sれたラマッス像は、戦争前にどっかの陰謀組織のNPCが旧政府の誰かをそそのかして、設置するよう誘導した、とする。
- ラマッス像のどこかに、未知の遺跡か、オーパーツが隠されてる場所の手がかりが隠されている、とすると、普通の冒険小説風だ(笑)。
- ラマッス像が、結界の要になる設定で、なぜかニムルド門のあたりだけは、戦火が及んでも大丈夫な仕掛けになってたとかすると、なんとなく「ブルーローズ」風かな?
- とりあえず、陰謀組織が、そこまで、面倒なことをして、遺跡北辺を護ろうとしたのは何故か? を設定すればいいか。
- 陰謀組織に誘導されたのは、元大統領ご本人でなく、当局の中間管理職ぐらいにしとくと、シナリオも組み易そうだ。
トピック「出土物の行方」
ニネヴェの遺跡が発見された当時は、西欧列強国、特にU.K.(連合王国)とフランス、もっと言えば、ブリティッシュ・ミュージアムとルーブルとが、威信を競い合うように遺物を収集していた時代だ。
現在のように、当該国政府への出土物帰属といった原則も確立していなかった。
そのため、U.K.隊が発掘した出土物は、ほとんどすべてがロンドンに持ち去られた。
レイヤードが発掘したラマッス像もブリティッシュ・ミュージアムに収蔵されている。
もっと悲惨なのは、宮殿跡の壁面に楔を打ち込んで切り離された浮き彫り「瀕死のライオン」である。
ちなみに、ギリシア政府が、継続してU.K.政府に返還を求めているいわゆる「エルギン・マーブル」は、この「瀕死のライオン」のように遺構を損壊して持ち去ったもの。
ギリシア側の言い分は「壷や彫像など、遺物の返還は求めない」、「壁画は本来建築物と一体であったものであり、修復のためにも返還されるべきだ」と言うものだ。
活用や検討
活用
重要な改訂の情報
- 内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。
(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) - 追加調査で新たにアクセスした情報を元に改訂を加えました。遺跡、及び周辺地域の現況に関する記述が、ほぼ前面改訂になっています。(2006年6月15日)
- 2006-10-21 (土) 06:52:23 鍼原神無 : 「GM向け参考情報」にアクセス・マップを追加。解説文の中身には変更ありません。
検討
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