ピイ
追加情報
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10〜12」
- やや詳しい情報 ピイ(ピエ)は、ヌビア王朝?と呼ばれる古代エジプト?第25王朝?のファラオ?。
- ヌビア王朝によるエジプト再統一は、以前はピイの後継者のシャバカによる事業、と目されていた時期もあった。現在では、ピイの事跡であるとの評価が定説になっている。
- そのため、現在、ピイは「第25王朝の開祖」と呼ばれるが、ヌビア王朝の当事者たちの意識では、以前から正統なエジプト王朝の後継王朝を自認していたらしい。
- B.C.716年頃に没するまで在位し、現スーダン共和国北部に位置するアル・クッル?に埋葬された。
- ちなみに、ピイはピアンキの別称も持つが、現在はピイ、あるいはピエの名で呼ばれることの方が多い。もちろん、第20王朝?末期にテーベ?でアメン神官団?大神官になったピアンキとは別人。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値12〜14」
- 詳しい情報 ピイは、クシュ王朝(ナパタ朝)による統一ヌビアの支配者カシュタの息子。カシュタの没年と同年(B.C.747年頃)、ナパタ朝?で即位した。ナパタ朝第3代、または第2代の支配者になる。
- 当時、下エジプトには、サイスを拠点にしていた第24王朝?、リビア系の第23王朝?(レオントポリス朝?)、やはりリビア系だった第22王朝?の系譜を引く地方政権など、複数の勢力が並立していた。
- ナパタ朝前代のカシュタも、上エジプトのテーベ?の南まで勢力圏を広げており、地域支配者の1人だったと言える。
- こうした背景のもと、ピイは統治の初期に、中エジプトのヘルモポリス?にまで支配力を及ぼすことができた。
- 統治20年目頃のB.C.728年頃、ピイはファラオとしてアメン神?の伝統祭儀であるオペト祭を執り行なうべく、軍勢を率いてテーベ?に入った。おそらくはこれをきっかけに、下エジプトの連合軍が南下進軍。ヘルモポリスを制圧し、その在地支配者も降伏させた。
- ピイは、軍勢を率いテーベからヘルモポリスに侵攻。会戦の結果、下エジプト連合軍は分裂し、サイス(第24王朝)の支配者だったテフナクト、タニス(第22王朝)の支配者だったオソルコン4世は北に逃走。他の諸王(地方豪支配者)たちは、ピイに臣従していった。地方支配者を従えたピイはさらに北に軍を進め、ヘリオポリスでテフナクト、とオソルコン4世を降伏させた。
- その後、ヘリオポリスとメンフィスに詣でたピイのもとに、下エジプト各地から地方支配者、有力者が参じ、みな臣従の礼をとったと言う。
- 従って、厳密に言うなら、ピイが統一エジプトの正式ファラオとなったのは、B.C.728年頃のこととなる。しかし、普通は、ピイの即位年はクシュ王朝で即位したB.C.747年頃とされる。
GM向け参考情報
ピイ(第25王朝?のピアンキ)は、高校世界史級の歴史ではマイナーな人物かもしれません。しかし、新王国時代末期の混乱を収拾した人物ですし、ヌビア王朝や、アメン神官団との関わりでもおもしろい人物です。
「ブルーローズ」のシナリオ題材としては、使い手があります。
補足情報
ピイがナパタ朝の第2代か第3代か、については、アメンイルディス1世?が遺した碑文の解釈が関わっています。問題の碑文に記された「ナパタ朝12年めの王(王朝創設から12年めに即位した王)」が、ピイのことなら2代めであり、カシュタのことならピイは第3代になると思われます。
アメンイルディス1世がテーベのアメン大神殿に迎え入れられた時期の判断についても、同じ碑文の解釈がかかわっています。
事跡
B.C.747年頃、クシュ王朝(ナパタ朝)による統一ヌビアの支配者だったたカシュタ(在位、B.C.760年頃〜)没。
- B.C.747年頃
- ピイ、カシュタの没年と同年クシュ王朝で即位。カシュタ同様ファラオを称した。
統治の初期に、ナパタ朝の勢力圏を、テーベからヘルモポリスまで広げた。おそらく、これに刺激され、当時サイス(第24王朝)の支配者だったテフナクトは、タニス(第22王朝のオソルコン4世)、及び、レオントポリスと連合。
- B.C.728年頃 統治20年目
- テーベ?でアメン神?の祭儀であるオペト祭を執り行なう。統治21年目、とする説もある。
- おそらく、ピイのオペト祭執行をきっかけに、下エジプトの連合軍が南下進軍。ヘルモポリスを制圧し、その在地支配者も降伏させた。
- ピイは、軍勢を率いテーベからヘルモポリスに侵攻。会戦の結果、下エジプト連合軍は分裂し、テフナクトとオソルコン4世は北に逃走。他の諸王(地方豪支配者)たちは、ピイに臣従していった。地方支配者を従えたピイはさらに北に軍を進め、ヘリオポリスでテフナクト、とオソルコン4世を降伏させた。
- その後、ヘリオポリスとメンフィスに詣でたピイのもとに、下エジプト各地から地方支配者、有力者が参じ、みな臣従の礼をとったと言う。
ピイは、降伏し、臣従の礼を採った各地の王たちをノマスケス(ノモスの知事)として扱い、それぞれの地域支配を容認していった。(ただし、テフナクトとオソルコン4世は許されなかった)
つまり、第25王朝?のエジプト“再統一”は、中央集権的な統一ではなく、ヌビア王朝が宗主王朝として、各地の地方政権の上に君臨する型となった。
(テーベでオペト祭を執り行なったピイは、妹であるアメンイルディス1世?を、当時のアメン神聖妻シェプエンウエペト1世の養女とし、アメン神の神聖花嫁の地位に就くよう手配した、とも言われる。これについては、ピイの父カシュタの代の出来事、とする説もある)
ピイは、ヌビア王朝の故地であるナパタから統治することを好んだらしく、北方へは、神殿参拝を兼ねて巡行するばかりだったようだ。ただし、ピイによる各地の神殿や聖地への巡行は頻繁におこなわれ、各地の神殿修築、増築の事業も盛んに命じた。
人物像
ピイは、古代の王らしい人物で、その人物像は現代的なセンスで割り切れない面が多いようです。
例えば、伝統エジプトの秩序(と、ヌビア王朝で考えられたもの)を回復する、との目論見は、政治的なパフォーマンスという以上に、本心からのものだったように思えます。臣従の礼を採った地方の王を、ノマスケスとして扱って済ませた点などから伺えます。
この辺は、第25王朝?の性格を把握するためのポイントになるでしょう。
ナパタ朝は、新王国時代?にヌビア地域に移入されたアメン神崇拝を、当初から王朝祭儀にしていました。おそらく、ヌビア地域へのエジプト王朝の影響力が消えた後、ヌビア各地で生じた地方政権がヌビアを統一するためには、アメン神崇拝の影響力が重要だったのでしょう。
第18王朝?のトトメス3世?がジュベル・バルカル?に創建した、ヌビアのアメン大神殿では、神官団がテーベの神官団と同様、強い政治的影響力を地域で振るったようです。例えば、ナパタ朝は、重要な政治的決定をおこなう際にジュベル・バルカルにアメン神の神託を求める慣わしをもっていました。
現代的なセンスでは、つい、政治的な見通しを持ったパフォーマンスとして、各地の神殿を再建したりした、とか考えがちなのですが。この辺が割り切れません。各地の伝統神殿への巡行、参拝や、宗教建築事業などは、どうも本気で、神官団と王朝との繋がりを強めよう、と思っていたようにも思えるふしがあります。
こうした、現代的センスでは割り切れない言動、思想というのは、古代エジプトのファラオや、他の古代文明の王侯にもまま見られますが。ピイの場合、ヌビアという、エジプトの周辺文化圏から出た王が、にも関わらず、エジプトの伝統文化を体現する、と本気で信じきっているように思える点が、あまりにストレートです。古代の王侯らしさがストレートに出ている、と言ったところでしょうか。
文化面での同化力が強く、古代においては比較的人種的偏見が少なかった、エジプト文明らしいファラオとも言えます。
逸話としては、ピイは、大変な馬好きだったそうです。統一王が馬好き、と聞いても、ありふれた話のように思えるかもしれませんが。当時のエジプト人からみると、古代ヌビア人やリビア系の民族は異様なほど馬好きとみなされていたようです。カルチャー・ギャップという奴ですね。
馬好きとされていた古代ヌビア人の内にあって、さらに馬好きと言われたわけです。エジプト側でのヌビアに対する偏見を割り引いても、かなりのものだったと想像して構わないと思えます。
関連遺物
- ピイの勝利の碑文
- カイロ博物館収蔵。高さ180cm、横幅184cmの楕円形を半分にしたような形状の石碑。ピンクの花崗岩に刻まれている。1868年にジャバル・バルカルのアメン神殿遺跡で発見された。
- 上2/5の区画には、玉座に座したアメン神と、その前に立ち、臣従する4人の王を席捲するピイの姿が、レリーフで刻まれている。
- 石碑下部には、神聖文字で、ピイによるエジプト再統一の経緯が詳しく記されている。碑文には、軍勢のことを「アメン神の導き」により「国土の混乱を正す聖なる使節」とある。
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参照:[歴史上の実在人物] [シャバカ] [古代エジプト略史] [カシュタ] [歴史的ヌビア地域略史] [歴史的ヌビア地域] [シャバタカ] [ピエ] [タハルカ]