アブ・シンベル大神殿
- アブ・シンベル大神殿 アブ・シンベルだいしんでん 簡易版
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- アラビア語による現地名
- Ma’bad Abu Simbell Il-Akbar(マアバドゥ・アブー・スィンベル・イル=アクバール)
- 英語名
- The greater temple of Abu Simbel(ザ・グレイター・テンプゥ・オブ・アブ・スィンベル)
「アブ・シンベル大神殿(マアバドゥ・アブー・スィンベル・イル=アクバール)」は、エジプト北部にて、ナセル湖(ハイダム湖)西岸の南部で湖に臨む古代エジプトの遺構。
近傍に現存する小神殿(マアバドゥ・イル=アスガール)などと共に、「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。どちらの遺構も、アスワン・ハイダムを作る際に水没を避けるため、現在の位置に移築された物。
単に「アブシンベル神殿(Temples」?)と言った場合は、大小両神殿の神殿複合を指す。(日本語では、単に「神殿」と言うと、大神殿を指すこともある。神殿複合を指す場合は「両神殿」とでも言った方がいいだろう)
【参照イメージ】
(アブ・シンベル大神殿正面(ファサード),Wikimedia Commons)
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アブ・シンベルの両神殿は、現在ナセル湖湖中に沈んだ、かつての河岸段丘の刻まれた岩窟寺院だった。かつて大神殿があったのは、現在の位置の南東方向、現在より64m低い位置にあった。
かつての河岸段丘から、切り出した石材を移築。現在は、掘削した砂岩の丘陵に組み込まれている。移築工事には、1964年〜1968年の4年間がかけられ、並行して考古調査もなされた。
現在の神殿正面に向かって左手(ナセル湖を背にして左手)が大神殿(マアバドゥ・イル=アクバール)。アメン=ラー神、ラー・ホルアクティ神、プタハ神を祀った神殿だった。多くの研究者は、ナイル川河畔に建立された神殿に、「アスワンへ渡来する異邦人や、異邦の軍勢を威嚇する意図があった」とみなしている。
神殿正面の石窟巨像、及び、岩窟神殿は、以前の神殿を1000以上のブロックに切り分けた後、移築された。一見、神殿が刻まれているように見える丘陵は人工的な物。実は、巨像の背面から神殿の天井裏にあたる部分はコンクリートで裏打ちされた巨大なドームが設けられていて、丘陵と神殿構造とを支えている。
- 大神殿正面
- 大神殿の正面(ファサード)は高さ33m、幅38m。高さ22mの大きな座像4体が刻まれている。ただし、状態がいいのは3体で、向かって左から2体めは上半身が大きく崩れている。これは、かつて地震で崩れたもので、崩壊したパーツは、座像の足元に据え置かれている。
- いずれの像も、ラメセス2世?を模したもので。3体の表情が、微妙に異なっている。
- 巨像が座した玉座の脇には、ラメセス2世の、王母や娘たちなど、王族の彫刻が刻まれている。巨像と比べれば小さなサイズだが、地上から見上げても充分作りが見て取れるサイズ。
- 4体の巨像の中央部に、岩窟寺院への入り口が彫られているが、入り口の左右は、巨像が座した玉座をさらに支える台座を形象った彫刻になっている。台座の上部を見上げると神獣としてのヒヒの群れが刻まれている。ヒヒは「太陽の運航を称えているのだ」と言われる。
- さらに台座部分には、ヌビア人の集団と戦う古代エジプト軍、軍団を指揮するファラオなどの図像が刻まれている。研究者たちに注目されるのは、南端に建立されている碑文石碑。この石碑には、紀元前13世紀の前半にラメセス2世の代の第19王朝?が、ヒッタイトと結んだ講和条約と、ヒッタイト王女がラメセスの妃として迎えられたこととが記されている。
- 列柱室
- 正面入り口から入ると、まず、向かい合った石柱にオシリス神の姿をしたファラオの像が刻まれている列柱室に出る。列柱は、左右4柱ずつが向かい合い、都合8柱。
- それぞれの柱の内側には、向かい合うように、高さ5m〜6mほどの、石像が刻まれている。内1体は、オシリス神の姿をとったラメセス2世の像。
- 列柱室の北側壁面(神殿奥に向かって右手)には、「カディシュの戦い?」の模様を描いた壁画が描かれている。他の壁面には、古代ヌビア人の軍勢や、古代リビア人の軍勢に対する古代エジプト軍の勝利の様子が描かれている。
- 聖所
- 列柱の間を奥に行くと、幅が狭くなった短い通路を通って聖所に進める。聖所の構成は、次のようになっている。
- 4柱の柱が並んだ第1前室
壁面には、アメン=ラー神が座し、ラー=ホルアクティ神に護られた太陽船に、ラメセス2世と妃ネフェルティティが乗っている様子が描かれている。 - 横長の第2前室
- 第2前室中央の先の前堂
- 前堂との間が横に並んだ4本の柱で区切られている至聖所
至聖所には、アメン=ラー神、ラー・ホルアクティ神、プタハ神の神像が祀られ、ラメセス2世自身の像も並んで祀られている。 - 前室左右の奥に刻まれた側堂
側堂と至聖所とは、直接はつながっていない。
- 側室
- 列柱室の左右の壁には、さらに奥に刻まれた側室への通路がある。
- 南側の側室
列柱室奥に向かって左手隅に刻まれた通路が、比較的狭い部屋に通じている。この部屋の左手奥に、細長い側室がさらに2つ刻まれている。 - 北側の側室
列柱室北側(奥に向かって右手)の壁面には、奥側に並んで2つの通路が刻まれている。(カディシュの戦いの壁画の奥の壁面になる)。
それぞれの通路は、それぞれ細長く刻まれた側室につながっている。
さらに列柱室の奥に向かって右手隅の通路があり、比較的狭い部屋に通じている。この部屋の左手奥に、細長い側室がさらに2つ刻まれている。
アブ・シンベル大神殿は、古代エジプトの新王国時代?の第19王朝?、ラメセス2世?の代に建立された。いつの頃からか、存在も忘れられ、崩壊した河岸段丘の砂礫に埋もれていた。
神殿の存在を、欧米諸国に伝えたのは、スイス出身のオリエント学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトで1813年の頃。ただし、ブルクハルトが確認したのは、砂礫の堆積から一部が露呈していた外壁の部分で、遺跡の全貌が知られるのには、まだ時間がかかった。4年後の1817年、ブルクハルトと交友があった、イタリア人探検家のジョヴァンニ・ベルツォーニが、堆積を堀り、岩窟神殿出入り口まで通じる通路を設けた。
大神殿のファサード(正面)を含む全体を発掘したのは、フランス人エジプト学者ガストン・マスペロの業績で、1909年のことだった。
【参照イメージ】
- Abu Simbel - temples of Ramesses II and queen Nefertari(ANCIENT EGYPT)
大神殿と小神殿の内部平面図、などが掲載されています。
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岩窟神殿は、年に2回、主要部分の軸線を通った太陽光が、再奥の至聖所まで差し込むように建立されていた。寺院の方向性は、移築した後も維持するよう努力された。
年に2回とは、現在の暦で2月20日と、10月20日だったと言われる。しかし、現在は、太陽光が至聖所まで差し込むのは、1日後の、2月21日と10月21日になっている。
太陽光が至聖所まで差し込んだ日付は、「ファラオの即位日と、太陽神の生誕日」だった、とも言われるが、裏付ける文書記録は知られておらず定かでない?。
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参照:[アスワン県] [ナブタ・プラヤの遺跡] [遺跡] [アブ・シンベル小神殿] [アブ・シンベル] [小辞典ワールド編]