ラメセス11世
- ラメセス11世 ラメセスじゅういっせい 簡易版
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ラメセス11世は、第20王朝の第10代ファラオにあたる。その在位期間は、足掛けで30年とも、34年とも言われる。
立位したのは、B.C.1102年頃。少なくとも29年はファラオの地位にあったと考えられている。死去した年には、B.C.1073年説と、B.C.1069年説とがある。
第20王朝では、紀元前12世紀後半始め頃、ラメセス5世の代に内乱が起こったらしく、以降、統治期間の短いファラオが相次ぎ、同時代記録も断片化して、実情がよくわからなくなっている。
大局的な情勢では、ラメセス11世の頃、第20王朝は古代エジプトの統一支配を失っていった。まず、テーベを中心とした上エジプトで内乱が断続。実情のよくわからない混乱の後、ラメセス11世の統治19年から、アメン神官団が、事実上の自立に転じていった。下エジプトでも、後に第21王朝?を興すことになるスメンデスが、タニス?を中心にナイル・デルタの支配を固めていった。
対外的には、ヌビア地域もエジプト王朝の支配を脱していった。古代エジプト王朝が、伝統的にシリア・パレスティナ地域の都市国家に対してふるってきた宗主権も、すでに通用しなくなっていた。
ラメセス11世の治世のエジプト王朝弱体化は、何も11世1代の失策とは言えない。実際は、先代にあたるラメセス10世の代には、すでに対外的な政治力は失われていたようだ。
上下エジプトの事実上の分裂も、紀元前12世紀半ば頃から続いた混乱の結果、と言える。一方、ラメセス11世も、おそらく、進行する統治力の低下、分裂に、なんら有効な対策を講じられなかった人物ではあったようだ。
ラメセス11世は、他の多くのファラオ同様、生前から自身の墓所の準備をさせていた。墓所は王家の谷に掘削されていたのだが、完成する以前に当人が死去してしまった。
タニスの地方支配者だったスメンデスは、「ラメセス11世を埋葬した」として、ファラオを称し、タニスを中心にナイル・デルタに支配力を及ぼした。第21王朝?と呼ばれるタニス王朝の実態は、テーベのアメン神官団と婚姻関係を結び、上下エジプトを分割支配する体制だった。
ラメセス11世のミイラ、及び、実際に埋葬された墓所は現在も発見されていない。
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在位期間が長かったラメセス11世にしても、ファラオとしての事跡については、まとまった型での記録は知られていない。1つには、生前、準備されていた墓所が未完成に終わったことによる。
人物像については、断片的な信書や、状況から、ある程度推測されるくらいだ。
例えば、ラメセス11世が、クシュのパネヘシに送ったと思われる信書では「神殿用の建材を求めにヌビア地方に向かった、王朝の執事が行方知れずになってしまった。この怠慢な執事の行方を捜してほしい」などと記している。この信書では、ラメセス11世は、後に軍を率いてテーベで専横をふるうことになるパネヘシを、あくまで王朝のクシュ総督として扱っているようだ。
断片的な手紙だけから、人物像を想像しても憶測にしかならないが、地方の実情に疎いファラオだったようだ、との印象はいなめない。
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参照:[ラメセス9世] [歴史上の実在人物] [スメンデス] [パネヘシ] [ウヘム・メスウト] [ピアンキ] [ヘリホル] [パネジェム1世] [歴史的ヌビア地域略史] [小辞典ワールド編] [ラメセス10世]