トラキア地方,古代〜
- トラキア地方,古代〜 こだいトラキアちほう 簡易版
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ヘレネス?が用いたギリシア語系統の古代言語で「異邦人」を意味した「トラキア人」は、長く部族社会を営んだ。後代、中央集権化を図って国家をなした、と目される時期でも、その国家統合度は緩く、集権もさほどではなかったと推測される。
いきおい、古代トラキア地方の領域も、当時からかなり曖昧なものだった。紀元前6世紀頃から、黒海沿岸部でヘレネスによるポリス開発が活発化すると、「内陸山地が、トラキア人の領域」とのイメージが強まったようだ。
B.C.360年には、古代マケドニアのフィリッポス2世?により、かなりの部分が征服された。紀元前2世紀には、地域を征服した古代ローマの政策で、地域は一旦、ペルガモン王国?と属州マケドニア?とに分割された。後、短期間、ローマ属州トラキアが編成され、従属国家も形成されたが、その領域はかなり狭まっていた。
紀元後4世紀、ローマ帝国はより広範なトラキア行政区を再編したが、これは、古代トラキア地方の復興と言うよりも、現在のスラーキ地方の前身と見た方がいいかもしれない。
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印欧語系統の言語を母語使用していたトラキア人は、黒海?からマルマラ海?にかけての西岸の主に山地を、主要な勢力圏にしていたと思われるが、紀元前6世紀頃から、沿岸部でヘレネスたちのポリス開発がはじまる。「トラキア人が山岳民族だった」との観方自体、ヘレネスによる文化的、歴史的な偏見だった可能性がなくはない。
ともあれ、B.C.516年頃、アケメネス朝ペルシア?のダレイオス1世?(大帝)による大親征を受け、地域のトラキア部族は、大部分がペルシア帝国に服属。一時、オドリュサイ族が部族統合を試みたが、B.C.360年には3つに分裂した。その後、古代マケドニアのフィリッポス2世?により、かなりの部分が征服された。
フィリッポス2世の死後、対マケドニア反乱の動きもあったが、これはアレクサンドロス3世?によって短期間に平定された。この頃、ケルト系のガラテア族が地域に侵出していたが、彼らは後にアナトリアにまで移住しガラテア王国?を建てた。
かねてから勇猛な庸兵と知られていたトラキア人たちの方は、古代マケドニアへの服属後しばらく、主にマケドニア系の諸国に庸兵として従事していった。
B.C.197年、地域を征服した古代ローマは、古代トラキア地方の大部分をペルガモン王国?に併合。ヘブロス川以西の海岸部をローマの属州マケドニア?に編入した。
B.C.171年〜B.C.168年に戦われた第3次マケドニア戦争の後、トラキア人たちの部族国家は、正式に古代ローマに服属した。この時期、複数の部族からなる国家が、ローマ帝国の属州トラキアに従属国家として形成されたが、その領域はかなり狭まっていた。北は現ブルガリアのバルカン山脈に、西はネストス川に縁取られ、南部はローマ属州マケドニアの領域であることが再確定された。
ペルガモン王国は、A.D.46年にローマ帝国に併合され、ローマ風の都市が幾つか建設された。
300年頃、ディオクレティアヌス帝の代、ローマ帝国は、ドナウ川下流からエーゲ海にいたる地域を、トラキア行政区として再編。この地域に1〜7世紀には西ゴート族、フン族、スラブ系諸族があいついで侵出。7世紀にはブルガリア国家が建設され、ビザンツ帝国はバルカン山脈以北の支配圏を喪失した。
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補足情報
別称類
主要国の言語
- 英語表記=Thrace
- フランス語表記=Thrace
- スペイン語名=Tracia
- アラビア語名の音=(調査中)
- ロシア語表記=Фракия
- 中国語表記=色雷斯
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キーワード:
参照:[ランド・マーク] [ヨーロッパ州のランド・マーク] [スラーキ] [地中海のランド・マーク] [ブルガリア共和国]