クァルーン湖
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クァルーン湖は、エジプトの西方沙漠東部、南北中ほど北寄りで、ファイユーム・オアシスの北東部に位置している湖。英語名が、「モエリス湖(Lake Moeris)」。
ナイル川から引かれたユーセフ運河から淡水が流入しているが、湖自体は塩湖。
- 【参照イメージ】
- Photos:Egypt - Faiyum(Photos:Egypt - Delta,Trek Earth)
(ナイル・デルタの南西に広がるファイユーム・オアシスの北縁にカルーン湖が見られる,NASA,Wikimedia Commons)
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クァルーン湖は、エジプトのファイユーム県北東部に位置し、湖面は海抜で−43m。現在の湖面面積は、およそ200平方km。カイロ市の南西、およそ80kmにあたる。
なお、塩湖とは言っても塩分濃度は比較的低く、希塩水に適応した魚介類の生息は多い。
湖の北方には低湿地が多い。この低湿地は、塩分の多い湧水のため、事実上の無人地帯になっている。湖の西や東から南方にかけては灌漑地も広がり、かなりの人口が居住。内でも、ユーセフ運河が設けられている湖南方は、ことに人口密度が高く、ファイユーム市のあたりまで、灌漑農作地の内に集住地が断続。
西欧人がエジプトに進出した19世紀頃からクァルーン湖は、リゾート地として開発された。
現在も湖畔の主に南岸には、ビーチ・コテージや、魚料理を出すレストランが並び、外国人向けのホテルもある。湖で、ボート遊びや釣りを楽しむサービスも営業されている。
クァルーン湖は、古代エジプトの言語?では、「メル・ウェル(Mer-Wer)」と呼ばれ、「大いなる湖(Great Lake)」を意味したと思われる。記録は、初期王朝時代?の最初期、B.C.3000年頃にまで遡る。この頃、湖は淡水湖だったが、湖と言うよりは、むしろ広い範囲に湖沼が広がり、さらに周辺の低湿地に連なっていた。
「メル・ウェル」(現在のクァルーン湖)は、しばしば、単に「湖」と呼ばれ、「淡水の湖」「オシリスの湖」とも呼ばれた。
「クァルーン」の地名は、後世古代ギリシア語系統の言語で「メル・ウェル」と同じ意味(大きな湖)を現わすことで用いられ出したもの、と思われる。
ちなみに、現在の地名「ファイユーム」も、さらに後世「大湖」を含意して用いられた地名だ。
古王国時代?、クァルーン湖を含んだ周辺地域も「メル・ウェル(地域)」と呼ばれ、湖の北西に位置していたメル・ウェル(ギリシア語名クァルーン市)が中心都市になった。
クァルーン湖の北岸西部にはアスル・サーガの遺跡?が位置。東岸から東に5kmほど離れたあたりには、ギザ市からファイユーム市に至る主要地方道の近傍にカラニス遺跡?を擁すコム・オシームが位置。
クァルーン湖周辺からは、新石器時代末のエジプト地域最古と言える定住地遺跡が発掘されている。出土物はファイユームA文化に属すものと分類され、少なくともB.C.5000年頃には溯ると推定されている。クァルーン湖の北岸では、先王朝時代に溯る遺跡も確認されている。
この頃までの遺跡は、概ね、当時の低湿地の各所に散在した、小高く水はけがよかった土地に限られていたようだ。
現在のファイユーム市の近傍に位置した、古代都市クロコディポリス(古代エジプト名シェディト)も、低湿地の外縁で、新石器時代から営まれた集住地の上に発展した都市だった。
古王国時代、メル・ウェルの湖沼地帯は、セベク神?が住まう地として神聖視された。地域でのセベク神の崇拝は、間違いなく先王朝時代?にまで遡るようだ。中王国時代?になると、セベク神は王室神話と関係づけられ、古代エジプトの全域に崇拝が広がっていった。
古王国時代の末頃までには、ナイル川からクァルーン湖に通じていた川筋が掘削され、幅も深さも広げられたようだ。
古王国時代におこなわれた水路拡充事業は、まず、ナイル川の増水が多すぎた年に余剰水を湖に導く目的でおこなわれ、遅れて周辺地域を灌漑する目的にも活用された。
中王国時代?の後半、第12王朝?の代になると、クァルーン湖などの湖水をナイル減水期に活用することが、再度積極的におこなわれた。
ナイル川からメル・ウェルに通じていた川筋に大規模な工事が加えられ、ユーセフ運河が造作された。同時に、増水期に水を導入するためのダムと、減水期に水を導き出すためのダムとが設けられたのも第12王朝期のこととされている。このインフラ整備により、増水期の余剰水を減水期に活用するための大きな貯水池として、メル・ウェル(クァルーン湖)が活用されるようになった。
この時期のメル・ウェルは、現在ファイユーム・オアシスの、ほぼ全域を覆うような大きな湖で、「大いなる湖」の名に相応しい景観をなしていたようだ。古代ギリシア語名「クァルーン」もこうした盛期の景観に基づくものだったことだろう。
紀元前3世紀の遅くとも後半には、クァルーン湖周辺の環境は荒廃をはじめていた。この背景には、ナイル川の水収支や増水量などの変動があった、とする意見もあるが、定かではない。
遅くとも、B.C.230年頃には、ユーセフ運河は放棄され、堆積で分断されていたようだ。結果、クァルーン湖は盛期の大きさから現在の領域に向かって急速に縮退していった。湖水の塩水化もこの縮退の過程で起きた出来事であるはずだ。
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古代エジプトの中王国時代以降、広く信じられた古代の歴史伝承では「クァルーン湖は、(第12王朝の)ファラオだったアメンエムハト4世が作った」と、伝えられていた。
アメンエムハト4世は、第12王朝第7代で、王朝最後のファラオの1代前だった人物。その事跡や人物像は今1つ定かにされていない。あるいは、ユーセフ運河の開削と「クァルーン湖の創造」は、4世を共治王としていた先代のアメンエムハト3世の王命だった可能性が低くない。
エジプト地域を含めた北アフリカでは、B.C.7000年頃を境に大きな気候変動があったと目されている。それまでよりも気温が一層暑くなったが、ナイル川流域の川谷部の水はけがよくなり、粗放な植物栽培がはじめられるようになった。同じ頃、ファイユーム地方の湿原地帯は、拡大している。
ファイユーム地方、ことにクァルーン湖の周辺は、かねてから、氷河時代やそれ以降の絶滅種生物化石の採集スポットとしても知られている。例えば、メリテリウムや、パレオマストドンの化石が発見されたのも、クァルーン湖周辺のおよそ4千万年前の地層からである。
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