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センナケリブ

センナケリブ (Sennacherib)

PCが予め知ってていい情報

 センナケリブは、紀元前8世紀末から紀元前7世紀はじめにかけて在位したアッシリア帝国?帝王。父サルゴン2世の跡を継ぎ、対バビロン政策、対シリア・パレスティナ?政策なども継承した。

追加情報

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「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 センナケリブ(在位、B.C.704年〜B.C.681年)は、父サルゴン2世の在位中から王太子(帝位継承者)に指名され、サルゴンの死後、順当に帝位を継承した。しかし、未完成だったドゥール・シャルルキンを棄てると、旧くからの都市ニネヴェ?に遷都。エラムがカルデアのメロダク・バラダン2世と連合したバビロニアの反乱を鎮定。後、バビロニアからマルドゥック神像を強奪。「罪人」として、帝国の故都アッシュル?へと「連行」した。
小辞典版推奨判定
「魔術+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 「センナケリブの名は、ヘブライ語読みが欧米経由で現在に伝わったもの。アッシリア読みでは、『シン・アヘ・エリバ』。これは『(月の神)シンが兄弟たちの代わりを与えてくれた』です。考古学会では、彼が生まれる前に2人以上の男児が死んだ、と解釈されることが多いようです」―― フィールドの言語学者

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「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 センナケリブは、サルゴン2世の対シリア・パレスティナ政策も引き継ぎ、諸都市を攻略していった。古代ユダ王国の首都エルサレムも攻囲し、時の王ヒゼキアを捕虜にしたかのように記録しているが、この時イスラエルは陥落していない。ユダヤ教聖典(『旧約』)には、ヤハウェ神の使いの介入があり、アッシリア軍が撤兵した、と記されている。センナケリブはこの他に、当時アナトリア南東部のキリキア、ザクロス山脈?北部からクルディスタン山地にかけてを勢力圏にしていたメディアになどにも遠征をおこなっている。
小辞典版推奨判定
「魔術+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 センナケリブの代に、バビロニアの古い神話に伝えられる「天命の書板」に実はアッシュル神も調印していたことが発見されている。アッシュル神から遣わされ、天命の書板の調印に用いる「天命の印章」はセンナケリブの息子、エサルハッドンにも継承された。
 印章に曰く、「神々の王であるアッシュル神?が、天と地の神々であるイギグとアヌンナクと人間の天命の定めに調印する天命の印章。すべてアッシュル神がこの印章によって調印することは変更してはならない。それを変更する者を、神々の王であるアッシュルと配偶女神ムリスが、彼らの息子たちとともに、彼らの強力な武器によって打ち殺すように。私はアッシリア王センナケリブ、あなたを畏怖する君主。私の書かれた名を消す者、あなたのこの天命の印章を紛失させる者の名とその子孫を国から消し去りたまえ」。
  • 「天命の印章」の訳文は、大貫良夫、他共著,世界の歴史1『人類の起源と古代オリエント?』,中央公論社,Tokyo,1998.P.345〜346に依るものです。
    なお、文中「アッシュル神」とした箇所は、原文では、単に「アッシュル」と記されています。

GM向け参考情報

 古代アッシリアのセンナケリブは、マルドゥック神をバビロニアから“連れ去った”帝王として知られています。

 高校世界史級では、メジャーではないかもしれませんが、息子エサルハッドンと共に、宗教史の分野では有名な人物です。

 最後は、息子たちに暗殺されたところも物語的には興味深いでしょう。ちなみに、センナケリブを暗殺した息子たちには、跡を継いだエサルハッドンは加わっていません。兄弟の関った父王暗殺の前後、王太子だったエサルハッドンは亡命しています。

事跡

 センナケリブは、父サルゴン2世の在世中から王太子の地位に就けられていた。

 アッシリア名「シン・アヘ・エリバ」は、普通、彼の誕生以前に没した王太子がいたことを示す、と言われる。

B.C.705年
 サルゴン2世、アナトリア方面に遠征し、キンメリア人、スキタイ人と交戦中戦没。
B.C.704年 即位年
 センナケリブ即位。ニネヴェに王宮を新造させる。後、ニネヴェに遷都。
B.C.703年 治世2年め
 サルゴン2世に駆逐されたメロダク・バラダン2世が再起するとバビロン王を称し、再度、アッシリアへの反乱を起す。エラム人も同盟行動をとった。
(この再起のときに、ユダ王国のヒゼキア王など、シリア・パレスティナの諸都市とも同盟があった、とする説もある)
B.C.701年 治世4年め
 おそらくこの年、センナケリブ率いるアッシリア軍が、ヒゼキア王の代の古代ユダ王国を攻撃。エルサレムを攻囲したが、ユダ王国は陥落しなかった。
 ヒゼキアはアッシリアに領土を割譲したらしく、センナケリブは、ユダ王国の旧領を他の属国に与えている。アッシリア側の記録では、センナケリブはヒゼキアを捕虜にした旨記されている。しかし、ユダヤ教聖典(『旧約』)にはヤハウェ神の使いが介入し、アッシリア軍が撤退した、と記されている。
B.C.700年 治世5年め
 センナケリブ率いるアッシリア軍は、メロダク・バラダン2世率いる軍勢とエラムとの同盟軍と、キシュ近辺の平野で会戦。結果は圧勝。
 メロダク・バラダンは、当時のエラム人の領域の南部まで逃れ、そこで没した、と伝えられている。キシュの会戦の後、センナケリブは、長男で時の王太子だったアッシュル・ナディン・シュミにバビロニアを統治させた。
B.C.694年 治世11年め
 エラム人が東方からバビロニアに侵入。アッシュル・ナディン・シュミは拉致されると消息を絶ってしまう。この後、バビロニアではいくつかの都市で対アッシリア反乱が起こり、センナケリブは対策に手間取ることになる。王太子には末子エサルハッドンが任じられる、その背後にはエサルハッドンの生母ザクトゥ(ナキア)の画策があった、と言われる。
B.C.689年 治世16年め
 センナケリブは数次の遠征の後、この年にバビロニアを陥落させる。記録では「完全に破壊した」とあるが、実際におこなわれた破壊の程度は不明。ただ、かなりの破壊がおこなわれたことは確からしく、マルドゥック神像が、古都アッシュルに持ち去されている。

 マルドゥック神像の拉致に前後した頃、アッシュルで記された宗教文書に、「マルドゥック神は罪人であり、神々の王アッシュルの裁きによって、アッシュルに留め置かれることになった」と、記したものが知られている。

 おそらく、バビロニアに伝統的だった「天命の書板」神話にアッシュル神をも関わらせた宗教改革も、この頃なされたのだろう、と目される。

 この後、マルドゥックの神像は20年間アッシュルに置かれてから、息子エサルハッドンが返還させた。

B.C.681年 治世24年め
 センナケリブが息子たちによりニネヴェで暗殺される。
 おそらく、末子だったエサルハッドンが王太子とされたことについての不満が、暗殺の種を蒔き、彼が病弱だったことが同調者を増やしたのだろう。エサルハッドンは、この頃、国外に亡命していたらしい。一説に、亡命は兄弟たちが父王に様々な讒言をしていたためで、小アジア?方面に身を隠していたとも言われる。
 歴史伝承では「センナケリブは小さな神像で殴り殺された」とも伝えられている。

人物像

 センナケリブは、宗教史の分野で注目されている人物ですが、それは、彼とその息子エサルハッドンの代に、祭政一致国家、アッシリアの信仰にかなりの変質が見られるからです。

 見ようによっては、アダド・ニラリ3世の頃から見られた宗教の変質が、いよいよ結実したとも採れます。

 そうした方面での研究は盛んなのですが、人物像の方は、今1つ整理されていないようです。

 マルドゥック神像を強掠するような宗教面での果敢さと、妃の策謀に乗せられ(?)末子を王太子にしたと伝えられるような政治判断との間でうまく焦点が結ばれていないのでしょうか。

 もう少し細かな事跡がわかれば、「エサルハッドンの王太子指名は、年をとって気が弱くなっていたところを乗せられた」、とか、「期待していた王太子(アッシュル・ナディン・シュミ)が行方不明になりガックリきてたから」、とか、合理的な解釈がなされるところかもしれません。

 しかし、「ブルーローズ」で扱われる物語は、古代史ミステリーを合理的に解決していくものではありません。ここは、センナケリブの人物像が今イチ曖昧なことを逆用した料理法を考えたいところです。

アイディア・フック

エルサレムからの撤兵の謎

 センナケリブによるアッシリア軍が、ユダ王国から撤収した経緯については、おそらく「ヒゼキアが捕虜にされ、領土を割譲して一命を取りとめた」とする説が、現状で一番合理的な解釈だと思われます。

 しかし、隕石が落下してアッシリア軍を滅ぼした(笑)、ってトンデモ説があることは紹介しておきます。

 普通に考えれば、そんな隕石落下があれば、攻囲されていたエルサレムも無傷とは思えないのですが(笑)。しかし、そこは「ブルーローズ」です、もしかしたら、イスラエル側は隕石の軌道を制御するオーパーツを有していたのかもしれません。

(それにしても、隕石落下孔の痕跡はエルサレム近郊に知られていませんが)

真・空中庭園伝説

 世界7不思議の1つに数えられている空中庭園ですが、一般には、新バビロニアのネブカドネザル2世が、メディアから娶った王妃のために、バビロンの遺跡の北の城の一角に設けた、と言われています。

 考古学者にも、そのように考えている人は多いのですが、研究者の間の異説として、本当の(?)空中庭園は、センナケリブの代のニネヴェにあった、とする異説があることを紹介しておきます。(正確には、「空中庭園伝承のルーツは、ニネヴェにある」ですが)

 空中庭園の話はヘレネス?が伝えた、いわゆる「世界7不思議」(原語は「7つの驚嘆すべき建造物」といった含意)から広まったのですが、その割に、実際にバビロンを訪れたこともあるヘロドトスやクセノフォンなどに、空中庭園の話がふれられていないのが、不審です。

 何より、「歴史の父」ヘロドトスは、今風にいえば、民族学者、神話学者で、各地を訪ねては神話や伝説を聴き取り収集した人です。そのヘロドトスにして、空中庭園の話を記録していないのはおかしい、という異説です。

 ちなみに、ネブカドネザル2世?の代の碑文類にも、空中庭園について言及のあるものは、現在のところ知られていないそうです。

活用や検討

活用