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バビロンの遺跡

バビロンの遺跡 バビロンのいせき(Archaeological site of Babylon)

PCが予め知ってていい情報

 古代バビロニア?を代表した都市の遺跡。現、イラク共和国の首都バグダードの近くに位置し、バベルの塔?のモデルになった神殿があったことで知られる。

追加情報

小辞典版推奨判定
「情報+知性 目標値10」基本
やや詳しい情報 現イラク領で、首都バグダードの南90kmほどにあたる(左記は地図上の直線距離、道なりでは130kmほどらしい)。ヒ−ラー?の北北西近郊。
 至近の空港は、バグダード国際空港だが、2005年現在、MNFI(多国籍軍イラク)の管理下にあり、事実上米軍に統括されている。
 バビロンの遺跡地帯も、2005年現在、MNCI(多国籍軍団イラク)の駐屯地として利用されている。2005年6月現在、一帯の管轄は、ポーランド軍。(「イラク治安維持の地域分担?」の項を参照のこと)

【参照地図】


小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10」、「情報+知性 目標値12」
やや詳しい情報 バビロン遺跡地帯の現地名「バービル」。複数の遺丘とその周辺地域からなる広大な遺跡。
 最上層は、主にアッシリア帝国?を倒した新バビロニア?の都市遺跡と、一部に、後代のパルティア時代の遺跡が遺る。都市域の北部で、旧フセイン政権時代に“復元”がなされた区画がある。2005年現在、この復元された建物がMNCI(多国籍軍団イラク)の宿営に使用されている。駐屯しているのは主に米軍と想定。
 バビロン自体は、新バビロニアよりもさらに古くから続いていた古代都市だが、古い遺跡層は、極、例外的に、バビロン第1王朝?時代のものが確認されているのみ。それ以前の遺跡は、未確認のまま。2005年6月、ユネスコ本部は、イラク戦争後、駐屯しているMNCI(多国籍軍団イラク)の活動で、バビロンの遺跡に重大な損傷が加えられた、と公表。

【参考】


小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12」、限定
詳しい情報 バビロンの遺跡で、新バビロニア時代以前の層がほとんど調査できずにいるのは、現地の地下水水位が高く、発掘ができないためだ。古い時代のバビロン自体の考古調査はほとんどおこわれていない(他所でバビロンに関係した出土品が発掘されたことはある)。
 遺跡最上層で確認されている遺構は、概ね、新バビロニアのナボポラッセル?と、その息子ネブカドネザル2世?の代のもの。サダム・フセイン元大統領の旧バース党政権時代、遺跡北部に位置する、新バビロニア時代の王城区画「北の城」を中心にした一角が、大々的に“復元”された。

シナリオ・メイク用参考情報

用途

 シナリオに応じて料理法の幅は広いと思われます。代表的な用途は――

  • NPC調査隊の警護自体が、PCチームのオープン・ミッションとなる
    例えば、非常事態下での、緊急短期集中調査の警護。
    2005年6月現在だと、MNCIによって与えられたという遺跡への損傷をチェックする、という高度に政治的な調査の警護が考えられます。
    ローズ財団がユネスコに委託されたか、ユネスコが委託した研究者の内に財団と関りの深い人物がいて《ブルーローズ》を斡旋したか、さもなければオーパーツ絡みでローズ財団の方からユネスコにかけあって、PCチームを押し込んだか。
    まともに扱うと、シナリオ化もマスタリングも難易度高いでしょうが、導入部に設定して、すぐに何かの事件を起し、急速に別の展開へ繋げてく手はあります。導入としてはおもしろいかも。
  • 陰謀組織や、シャドウ・ウォーズに脇から関ってしまうNPCの非公然探索、調査の舞台
  • ミッションの焦点となるオーパーツの手がかりが与えられる、シナリオの1舞台
  • オーパーツの、超常パワーが解放されるきっかけを秘めた特別なスポット

――などなど。

アイディア・フック

 「バビロンの遺跡は、地下水位が高くて、新バビロニア時代以前の遺跡が、ほとんど発掘できないでいる」。シナリオ・メイクでは、これは美味しい(笑)。

 何しろ、バグダード近郊の地下水が枯渇するなんてことが近い将来あるとも思えなません。工夫次第で、いろいろな超古代設定をやり放題でしょう(笑)。

 やはり、深い遺跡層に「何か」が眠っていて地下水位を維持、発掘が阻まれている、という設定は基本でしょうか。

 あるいは、秘密の井戸の遺跡を発見。もちろん内には地下水が満ちているのですが、特別なオーパーツを伴って地下水に潜ると、異世界に通じてる、なぁんて展開もおもしろいかもしれません。

現況とアクセス

遺跡自体へのアクセス

 バビロンの遺跡は、2005年現在、MNCI(多国籍軍団イラク)が軍営地として使用中です。特別な許可がない者は立ち入れはしません。管轄は、イラク暫定政府と占領政策を調整している軍政部MNFI(多国籍軍イラク)になっています。

 実際に、宿営しているのは、主に米軍部隊と想定します。

アクセス・ルート

【参照地図】

 シンプルに、バグダードから自動車を利用。

 あるいは、ヒーラーを拠点として自動車で往来。

 渋いところでは、ヒーラーから河川用の舟で、下流にてユーフラテス川に合流する運河を利用する手もあります。

 例えば、バビロンの遺跡から何かを搬出する際、トラック便を囮として、PCチームは舟でユーフラテス川を利用、なんてことはあるかもしれません。

 なぜバグダード国際空港を使用しないかの理由付けが必要になるでしょうけど。川を下りながら襲撃を受ける、なんてのは、なかなか冒険アクションらしいシチュエーションと思います。

 遺跡地帯へのVTOL類での離着陸は、遺跡保護の観点からも禁止と考えます。左記は、直接遺跡に離着陸する場合です。イラク当局、及び、MNCI(多国籍軍団イラク)から特別の許可を得て、遺跡地帯のすぐ外に離着陸、という展開はおかしくないでしょう。

(この件は、「VTOL類で遺跡に着陸してもいいか?」にある、考え方Aを参照してください)

遺跡の現況

 すでに、触れていますが、2005年6月現在、バビロンの遺跡地帯は、MNCI(多国籍軍団イラク)に改組された有志国連合軍の駐屯地に利用されています。

 バビロンを含んだ一帯の治安管轄はポーランド軍だが、駐屯地利用をしている部隊は主に米軍、という現況と想定しておきます。

 バビロンの遺跡地帯は、有志国連合軍の侵攻以前、旧バース党政権により、「北の城」を中心にした一角が“復元”されていました。

 MNCIが駐屯地に利用しているのは、どうもこの「北の城」の“復元”区画らしいのですが、未確認。

 旧バース党政権による遺跡“復元”は、各国の考古学研究者から評判が悪かったものです。

 中でも、おそらく最悪と評価されたのがバビロン遺跡の“復元”です。「ハリウッド映画のセット」「テーマパーク」「“復元”ではなく創作」「将来の遺跡再調査を阻害」etc、と、旧イラクの遺跡“復元”に対して言われた悪口の、およそすべてが言われていた観があります。

 おそらくは、観光資源としての活用と、国民向けの政治的パフォーマンスとが、旧政権による遺跡“復元”の主な狙いだったとも考えられます。

遺跡の規模と構成

市域(推定)

  • 以下の市域の説明は、フィクション設定とみなしてください。
  • 資料として参照した本の図版が、ヘロドトスの記述に依拠して作図された疑いがあります。
    他の、複数の資料本で、東側市街の囲壁が、ヘロドトスの記述と異なりL字形だったことが発掘の結果、確認された旨、記されていました。
    が、それらの本には、遺跡図がみあたらないため、フィクション設定として、以下を記します。
    ただ、あやふやなのは、囲壁の全体的形状です。望楼の存在、数、市域の基本構成などは、参照したすべての資料で概ねの一致をみた情報を記しています。

バビロン遺跡の市域は、東西方向が長く、南北方向が短い長方形が傾いだような形状。市域外の四方に伸びていた道も、確認されている。

 かつては、市域の中央西寄りを、ユーフラテス川から掘削されていた古代運河が貫流していた。

 古代運河の現状は不明だが、長く続く窪地として、かつての運河跡を、地表でも確認できる、程度がもっともらしい処理と思われる。

 全体が囲壁に囲まれ、囲壁外周に濠が巡らされていた。東側の大きい方の市域は二重の囲壁に囲まれていた。

 東市街の二重囲壁は外側が焼成レンガ、内側が日干しレンガにて建造。二重囲壁の間には、諸所に望楼が建てられその総数は50ほどだった。二重囲壁の間は、広い部分で幅30mほど。

 囲壁北側で「北の城」と呼ばれる城郭区画が囲壁に接す。北の城は、運河にも隣接し、「行列通り」と呼ばれたメイン・ストリートとの間に挟まれていた。

 囲壁をくぐった行列通りは、市域のほぼ中央を南北方向に真っ直ぐ進み、南側の囲壁に接するやや手前でT字路をなして東西に分かれる。

 行列通りが、T字路につきあたる手前で、運河と通りとに挟まれて、市域中央に位置したのが、バビロンのジッグラト(バベルの塔)と、エ・サギラ神殿。

【参照図】

市域内の主な遺構

  • こちらの記事は、複数の資料本を相互参照し、事実らしく思える部分を取捨選択して構成しました。
  • 所詮は、孫引きに基づく推定ですが、市域の記事と違いの、リアル・ワールドとの間に、大きな食い違いはないと思われます。

 「イシュタル門」「北の城」「バビロンの聖塔(ジッグラト)」「エ・サギラ神殿」この辺が、バビロン遺跡で有名な出土遺構だろう。

イシュタル門
 群青色に彩色された彩釉レンガで飾られた門。バビロニア版の凱旋門といった風情。
 両面を、バビロニアの神獣2種が列を成すレリーフで飾られている。
 神獣の1種は、よく「バビロニアの龍」と呼ばれる、マルドゥック神の従属獣ムシュフシュ?。蛇の頭を持つ四足獣で、全体的印象は、中国の麒麟に似ていなくもない。体色は淡い黄色が基調。もう1種は、雷神の従属獣である白い牡牛。
 本来の「イシュタル門」は現在、ベルリンのペルガモン博物館にて収蔵展示されている。
 遺跡現地には、旧イラク政権が、1/2サイズで作成したレプリカが建立されている。レプリカは高さ6m(本物は12m)。
北の城
 新バビロニア王国の王宮址。ナボポラッセルが建造し、ネブカドネザル2世の代に増改築の手が加えられていた。囲壁内で、東西300m、南北200mの区画を占める、宮殿複合体の城館。
 行列通りを挟んだ、東側にはニンマ女神の神殿が位置。南側にはやや狭い通りを挟んで、「南の城」と呼ばれる城館と対面。
 北の城は、5つの中庭を取り巻く建物の内部が、南側の玉座の間、謁見室、法廷、多数の小部屋、王の私邸区画に別れていた。
 ネブカドネザル2世?による造築部は、囲壁外部にまではみ出している。王宮付属の宝庫が増築されていたが。これは、収蔵庫ではなく、外国使節などに宝物を誇示するための施設だったらしい。博物館にも似た作りになっていた。
 この「北の城」の北東隅に位置する遺構が、ネブカドネザル2世がメディアから娶った王妃のために建造したと伝えられる「空中庭園」だった、と目されている。
バビロンの聖塔(ジッグラト)
 バビロンのジッグラトは「エテメナンキ」(「天と地の境」の意)と呼ばれていた。外壁基台は、一辺およそ400mで概ね正方形。
 遺構は、基礎部分しか遺っていなかったが、自らバビロンを訪れたことがあるヘロドトスの記述によると、8段式で、最上層が神殿だった。
 エテメンナキは、ユダヤ教聖典(『旧約』)に記されたバベルの塔のモデル、と目されれ「聖塔」の訳語が充てられている。しかし、その外見は、低面部に対し高さはさほど高くない。高層建築物を見なれた現代人のセンスからすると、鈍重な印象すら受ける。
 上段になるほど、小さくなるほぼ正方形の階層が多層に重なり、下階の天井部が、上階のテラスになっている作り。多くのジッグラトでは、外壁に最上階まで通じる階段が設けられていたので、おそらくバビロンの聖塔も同じ設備があったことだろう。
 ジッグラトは、俗に「メソポタミア式ピラミッド」と呼ばれることもあるが、これは無根拠な俗称で誤解を生み易い呼称。
 ピラミッドの内部には神殿などない。構造も、機能も、用途もまったく異なる建造物である。
 ヘロドトスの記録によると、バビロンのジッグラトの最上階神殿には、特に選ばれた高位の巫女(女神官?)のみが昇れて、神界から訪れる神と交わる、とされていたようだ。
エ・サギラ神殿
 バビロンの聖塔の南側に、やや狭い通りを挟んで位置していた。マルドゥック神の神殿。
 マルドゥック神は、古くはバビロン市の守護神だったが、古バビロニア時代に、バビロン第1王朝のハンムラビ?王の代に、シュメール=アッカド地方が統一された後、バビロニアの主神へと神格を高める宗教改革がなされた。
 この神殿は位置は確認されているものの、埋没が深く、充分な調査はなされていない。
 ヘロドトスによれば、マルドゥック神の巨大な黄金座像が安置されていたという。

遺跡の来歴

初期

 バビロン市は、古代記録で見る限り、遅くともアッカド王朝時代(B.C.2350年頃〜B.C.2100年頃)には都市として成立していたらしい。

 「らしい」とは、あやふやだが、遺跡の位置はわかっていても、発掘ができないので仕方ない。バビロンの古い時代の歴史は、もっぱら、他の遺跡から出土した古代記録に基づいて研究されている。

 バビロンの都市名は、アッカド語の「バブ=イル」がヘブライ語で「バブ=エル」に訛ったもの。「神の門」を意味する。

アッシリア帝国の時代

 バビロン市自体の古代史は、他の項目に譲るとして、現在知られる遺跡を遺した新バビロニア時代の直前まで話を飛ばそう。

 アッシリア帝国?の時代、帝国に服属していたバビロン市にて、メソポタミア最南部の海の国に居住していたカルデア人の1部族、ビート・ヤキン族の首長、メロダク・バラダン2世が王位に就く(B.C.721年)。バビロン王を宣したメロダク・バラダン2世の主導で、バビロニア地方の諸都市は、アッシリア帝国から離反した。

 メロダク・バラダン2世の王国は、時のアッシリア帝王、サルゴン2世に攻められ、B.C.709年敗北。メロダク・バラダン2世自身は逃亡。サルゴン2世の死後、息子センナケリブの代に再起すると、再びバビロニア地方で反乱を起した。

 センナケリブが指揮したアッシリア軍は、数次の遠征の後、B.C.689年にバビロンを降す。記録にはこの時、バビロンは徹底的に破壊された、とある。

 センナケリブの跡を継いだ息子、エサルハッドンが、バビロンを再興し、即位年から、アッシリア王(帝王)と、バビロニア王を兼ねた、とも伝えられている。

 エサルハッドンは、在位中、次男アッシュル・バニパルを王太子(帝位継承者)に指名し、長兄シャマシュ・シェム・ウキン?にバビロニア王位継承を約した。この指名は、エサルハッドン没後実現されたが、アッシュル・バニパルの治世17年目、バビロニア王シャマシュ・シェム・ウキンは、バビロニア地方で反乱を起した。

 このとき、シャマシュ・シェム・ウキンを盟友として支援したのが、メロダク・バラダン2世の孫で、当時「海の国」の実力者だった、ナブー・ベール・シュマティだった。

 アッシュル・バニパルは、外交的策と軍事攻勢の両面から、バビロンを他のバビロニアの諸都市から孤立されることに成功。B.C.650年からバビロンを攻囲し、B.C.648年に陥落させ、炎上させたと言う。この後、アッシュル・バニパルは、実権が制限された代官をバビロンに配置し、形式的にバビロン王号を称させた。

 アッシュル・バニパルがB.C.627年に没した後、帝国は末期の混乱状態に陥り、記録も錯綜して実状がよくわからなくなる。この混乱の内に、南方「海の国」のカルデア人の族長(部族連合の長か?)ナボポラッサルが、バビロンに新王朝を創建した。

 B.C.625年に創建されたとされる新バビロニアが、末期のアッシリアに止めを刺すことになる。そして、現在の遺跡最上層はこの新バビロニア時代のものである。

その後のバビロン

 B.C.538年、バビロンは、アケメネス朝ペルシアの開祖キュロス2世に無血開城で降った。この後、バビロンはアケメス朝の5大宮殿の内、冬の宮殿在位所に用いられた。

 クセルクセス1世の代に、反乱を起して破壊を被る。

 B.C.331年、古代マケドニアのアレクサンドロス3世が東征軍と共に到達すると、自主無血開城し、ただちに服属。

 インド方面からB.C.324年にイラン高原のバサルダガエまで帰還したアレクサンドロスは、ザクロス山脈各所の都市で諸事を裁決した後、B.C.323年にバビロンに入城。同年、同地で急死。

 以後、アレクサンドロス部将のセレウコスが、バビロンを拠点にバビロニア太守の地位に就いた。彼は、セレウコス1世(在位、B.C.312年〜B.C.364年)として即位した年に、新都セレウキアを創建。バビロンは徐々に衰微。

 紀元1世紀頃、アルサケス朝がセレウキアの対岸にクテシフォンを創建した後、バビロンは急速に廃れ、廃虚となっていった。

 しかし、その後もイシュタル門残余の上部などが堆積土の上に露呈しており、現地ではかつてバビロンがあった地、との記憶は伝承されていた。バービルの地名は、中世を経て近代まで継承されていたのである。

 19世紀中頃、U.K.(連合王国)のA.H.レイヤード?や、フランスのオッペールなどが、試掘程度の小規模な発掘を試みた。

 本格的な発掘調査は、1899年〜1917年まで継続されたドイツ隊による調査が初。

 ドイツの考古学者ロベルト・コルデヴァイに指揮され、ドイツ東洋学協会がおこなった調査は、考古学者、文献学者、建築史家などなど複数部門の研究者が組織的に取り組んだもの。

 研究史では、それ以前のU.K.やフランスによる発掘競争とは、まったく異なり、きちんとした調査法が確立された、と評価されている。

 その後、数度に渡る再調査が、イラク考古局も含めた各国調査隊によっておこなわれた。

 旧イラク政権による遺跡“復元”は、1978年から着手された。

主な出土物

イシュタル門
 現在、ペルガモン博物館(ベルリン)にて、収蔵展示されている、オリジナルのイシュタル門は、コルデヴァイらが発掘したパーツをドイツに移送した後に復元した物。
北の城の宝物
 北の城の、ネブカドネザル2世による造築部にあった、宝物庫には、支配下の諸国から貢納されたのであろう、遺物が多数発掘された。(これらの行き先は調べきれていません)
バビロン出土の女神彫像
 資料本で「バビロニアの太地母神」と紹介されていることもある。しかし、実際は、紀元前3世紀のヘレニズム期以降に作成されたものだろう、と目されている。
ルーブル美術館日本語サイト

用例

 「遺跡の規模と構成」で記したフィクション設定に基づいて、セッション用遺跡マップを作図する一案を、やはりフィクション設定として例示します。

 東西の市域は、南南東に流れていた、運河の緩い傾きに直交するように、長辺が東北東方面を向いています。

 東側市街の外周は、東西、南北共に、約2km強。

 北で、運河に接する部分で「北の城」の一部が囲壁外に突出していることは前記のとおり。

 西側新市街の外周は、東西1200mほど、南北は、西辺で1800mほど。南北幅の東側市域との差は、南辺が傾くことで処理されています。つまり、囲壁南辺と運河とが交わる地点では、東西の囲壁は、川の両岸で対面していました。

 ちなみに、西側市域の遺跡はどうも、未調査らしいのですが、今一はっきりしません。歴史書は、主に、わかってることを中心に書かれるので、わかってないことの記述はめったにお目にかかれないのです。

 シナリオでは「西側は過去に試掘程度しかされていない」とフィクション設定したうえで、「なぜか西側にとんでもない物が埋まっていた!」としても構わないでしょう。

 東西の囲壁の外縁に巡らされていた濠の幅は、50mほどとします。

 往時は運河から水が引かれていたわけですが、もちろん、現在は濠など残っているはずがありません。遺跡上層では、おそらく、かつて濠があった部分に窪みができている、程度でしょう。

 バビロン遺跡に限ったことではありませんが、古代都市の遺跡類は、建造物が遺っている方が珍しい、くらいに考えていった方が、ゲーム用遺跡図作図の作業はし易いでしょう。

 まず、建造物の基台や、かつて柱を建てられていた穴があちこちに残っている、とした図を描き。その後に、設定や、シナリオでのアクションの予定も考慮しながら、構造物の残余も残っている箇所を書き加えていく、といった段取りの方が、結果として使い勝手がいいマップが作図できると思います。

 バビロン遺跡の場合、北域にある復元地帯の処理がおもしろいですね。

 どうも、駐屯部隊の兵隊さんたちは、“復元”された北の城を宿営所にしてるらしいのですが、NETで確認できたのは、噂程度としか判断できない情報だったので、本文には記しませんでした。

 シナリオでは、フィクション設定の一部として、採用、不採用を検討するといいでしょう。

 もう1つおもしろいのは、北の城近辺の市街、つまり東市域の北部だろうと思える部分の市街も、完全“復元”されていることです。

 「ハリウッド映画のセット(オープン・セット)」「テーマパーク」と悪口を言われている部分ですが。ここは、写真でみると屋根の無い3D版ダンジェオンといった趣で、小人数の戦闘アクションにはもってこいです。

 「“復元”遺跡とは言え、遺跡で銃撃戦などしてよいのか?」については、「基本的には好ましく無いが、攻撃を受けた時、正当防衛は許される、と考えるといいでしょう。

 ただし、「過剰防衛は遺跡への影響からも認められない」。このあたりが、基本的考え方になると思われます。

 気をつけるべき点は、過剰防衛、正統防衛と言っても、PCと財団の間で納得できても、一般社会が納得できるかどうか?です。

 下手をすれば、PCがテロリスト扱いされるかもしれません。

 この辺は、セッションで、プレイヤーが乗り越えるべきジレンマとして扱いたいところです。

 例えば、陰謀組織側のNPCの方が銃器を使わず、スタンガンとか、白兵戦武器を選択していると、マスタリング次第でPCをジレンマに追い込むこともできるでしょう。

 さて、“復元”された市域の範囲も調べきれておらず、よくわかりません。

 「市域の全域ではない」ことさえ押さえれば、シナリオの都合に併せてフィクション設定して構わないでしょう。

 例えば、東側市域の北半分はみんな“復元”されたことにしたって構わないでしょう。

 記事でメインに参照した、遺跡図は、次の書籍掲載のものです。

 岸本通夫、他(共著),世界の歴史2『古代オリエント』河出文庫,河出書房新社,Tokyo,1989.P.405

 この本は、歴史地図やモノクロ写真類の掲載は多いのですが、遺跡図はp.405のバビロンの図(本当は遺跡図ではなく、かつての都市の復元想定図)のみです。

 縮尺も併記されていませんでした。「用例」に記した市域の大きさは、北の城の東西幅が300mという諸書に共通して見られる数値に基づき、遺跡図に物差しをあてて計算したものです。

 もし、用例に準じて作図したマップを使用したら、セッション後ブリーフィング?で一言、「マップは想定図でほとんどフィクション」とアナウンスしてください。

 ちなみに、前掲『古代オリエント』は、読み易い概説書で、値段も手頃だし悪い本ではないのですが、残念なことに、記述には古い通説が目立ちます。

 文庫版の初版刊行こそ1989年ですが、単行本版初版刊行はさらに20数年前とのこと(文庫版あとがきによる)。1960年代後半の刊行ですから、記述に古い説が目立つのはあたりまえです。責めるわけにはいきません。

 それから、文中に書いた「ハリウッドのオープンセット風“復元”遺跡」。こちらに興味のある方は、次の書籍を探してみてください。

 オンライン書店Bk1では「現在お取り扱いができません」ですが、遺跡“復元”地帯の写真が巻末の資料編コーナーに掲載されていますので。

 ジョン・ボッテロ、マリ=ジョゼフ=ステーブ(共著),『メソポタミア文明』(知の再発見双書),創元社,Osaka,1994.

(ちなみに、こちらの原著は、1993年刊行とのこと)

 この本は遺跡図の掲載こそありませんが、遺跡の現況写真、遺跡の想定復元図、種種出土遺物のカラー写真の掲載が多いです。

 これらを、セッションの要所でプレイヤーさんにみせて、「こんなの」と言うと、セッション時間は短縮できるし、イメージの共有はバッチリだし、なかなか重宝します。

  • 公共図書館に所蔵されている図書から、個人使用を目的にしたコピー複製を作成することは、日本国の著作権法でも(いくつかの条件下で)保証されている市民の権利です。

活用や検討

活用

  • このページの記事を踏まえた、アイディア・フック?、使ってみたシナリオ、セッション・レポ、などなど
  • 2010-03-20 (Sat) 10:14:52 XAYMZfB : rEliwdLx
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検討

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