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エル-カブの遺跡

エル-カブの遺跡 エル-カブのいせき

英語、他
Archaeological Site at El-Kab

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 「エル-カブの遺跡」は、エジプト=アラブ共和国上エジプト地方で、ナイル川東岸、コム・エル・アフマル?遺跡(ヒエラコンポリスの遺跡)の対岸に位置する遺跡。2007年現在、外国人単独行動制限地域内に位置している。

 古王国時代?マスタバ墓、新王国時代?の神殿遺構、他が遺る。

【参照イメージ】

追加情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 現在のエル-カブの位置で営まれたいた古代都市は、古代ギリシア語で「エイレイシアスポリス」と呼ばれていた。
 都市はおそらく先王朝時代?に遡る。古代エジプトの言語では、「ネケブ」と呼ばれた。
 エイレイシアスポリスは、ネクベト女神を祭神とする都市で、古王国時代?に、上エジプト第3ノモスの州都とされた。当時対岸にあった、ヒエラコンポリス?は、ホルス神の宗教センターとなり、エイレイシアスポリスが行政センターとされたのだった。
 その後、時代が移ると第3ノモスの州都は、ラトポリス?(現在のエスナ?)に移っていったが、エイレイシアスポリスでの集住も続いた。現在、遺跡地帯には、古王国時代からプトレマイオス朝?時代に渡る遺構が見られる。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 エル-カブの遺跡地帯には、いくつかの遺構が散在し、すでに遺構の喪われた遺跡も確認されている。
 現存する主要な遺構は、ナイル河畔に位置するネクベト女神の神殿。現存する遺構は、新王国時代以降に改築されたものが修復されたもの。ナポレオン?のエジプト侵攻時に廃墟だった様子が、ナポレオン版『エジプト誌』?に採録されているスケッチに描かれている。
 神殿の周囲は囲壁で囲まれ、さらに外周が大きな囲壁で囲まれている。外周囲壁の北西外に近接して、古王国時代のマスタバ墓群が遺る。
 ネクベト神殿から、概ね北方、800m強には、岩山に刻まれた貴族の岩窟墓が知られている。
 以上が、主要な遺構だが、遺跡地帯には他にも遺構が散在している。
 ネクベト神殿の東方は、岩山に挟まれたワディ(涸谷)の口が開いた谷あい地になっているが、この東辺にも、新王国時代やプトレマイオス朝?時代の遺構が遺る。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値14以上」
専門的知識 エル-カブの遺跡地帯は、「古代エジプトの主要な時代に渡る遺跡、遺構が知られている割に、科学的で総合的な発掘が不充分」という意見が、関係者の間で言われている。
 例えば、バダリアン文化?の研究では、「バダリアン文化を形成した幾つかの新石器人集団の一派が、エル-カブ東方からワディを通って、ゆっくりと西に移動していった可能性」が言われている。
 この関係の調査などは、今後に期待されるテーマだろう。

GM向け参考情報

用途、用法

 エル-カブの遺跡は、カイロ、ギザ、ルクソール、アスワンのように、ひっきりなしに観光バスが発着するような観光中心ではありません。

 エジプトの外国人単独行動制限地域にも入っていますし、基本的には、コンボイまで組んで訪れるのは、よほど古代史好きのツアーだと思われます。

 ところが、エル-カブの遺跡は、何やら欧米ではある程度有名なようです。いろいろ資料を漁って検索していると、エル-カブの遺跡をコースに組み込んだツアーが2、3組まれていました。いずれも、かなりマニアックなツアーで、考古学研究者が同行して解説するようなタイプのツアーのようです。

 ツアーの記事を読んでの想像になりますが、どうもエル-カブの遺跡に遺っている「ネクベト神殿」は、修復前のスケッチが、ナポレオン版『エジプト誌』?に収録されてる関係で、欧米の古代史ファンの間では一定の知名度のある遺跡になってるようです。

(もしかしたら、欧米では、19世紀末に発掘された、対岸のヒエラコンポリスの遺跡よりもポピュラーな知名度なのかもしれません(?))

 この辺のことは、シナリオに組み込んでも、無視してもいいでしょう。

 遺跡地帯は広い割りに、遺構は散在している感じです。遺跡地帯がワディ(涸谷)の出口からナイル河畔に開けた河岸平地にあたることに注目。

 何か物を握ったNPCが、何らかの意図で、ワディの奥地に逃走していけば、PCたちがそれを追っていった先では、かなり派手な戦闘をしても隠蔽には困らないでしょう。

 戦闘ヘリが飛んできたり、大爆発が続くとどうかなぁ、という気もしますが。多分、陰謀組織の方で情報操作をして、一般メディアには、正規部隊がテロ集団と交戦した」とかいうニュースにでっちあげてくれるのではないでしょうか(?)。――と、言うか、そのような想定でシナリオを組むことをお勧めします。

遺跡へのアクセス

遺跡の周辺状況

【参照地図類】

 まず、STN.com の地図で、遺跡とルクソール(Luxor)、エドフ(Iduf)、エスナ?(Isuna)の位置関係をチェックしてください。(STN.comの知図のアルファベット地名は、フランス語表記です)

 「Nile South 地図」には、「エル-カブ(El Kab)」、「コム・エル・アフマル(Kom el Ahmar)」の名も記されていますが、これは概略でしょう。

 次に、Digital Egypt for Universities の地図で、遺跡の周辺状況を見てください。クリッカブル・マップになってますので、前後の地図でエドフかエスナを見つけ、STNの地図と相互参照もしてみましょう。

 エル-カブと近傍の都市との位置関係を掴んだら、Tour! Egyptの解説記事ページで、最初に掲載されている遺跡地帯の地図と、Digital Egypt for Universities の地図とを相互参照します。これで、遺跡の周辺環境と遺跡の構成とが、かなりイメージできるはずです。

 Digital Egypt for Universities の地図で、El Kabと記されているのは、ネクベト女神の神殿遺構と、古代都市の遺跡が所在するあたりです。Tour! Egyptの地図も参照すると、広義のエル-カブ遺跡地帯が、もっと広い範囲を指すこともイメージできるでしょう。

 Digital Egypt for Universities の地図で、地図内、赤系の色で彩色されているのは、周囲に散在する農村集落です。村の周囲では、ナイル川に近い地域が農牧地として活用されている、と想定します。

遺跡自体へのアクセス

 ナイル対岸のヒエラコンポリスの遺跡と併せ、遺跡警察の要員も常駐していると想定。

 エル-カブの遺跡を一般の観光客が訪れるとしたら、ルクソールから遺跡警察に警護されるコンボイ(警護付きで団体移動する観光)で訪れることになる。

 現在のところ、特に、遺跡地帯の隔離フェンスや、順路などは整備されていないようだ。この辺も遺跡警察常駐員が取り仕切るスポットと想定する。

 PCについては、エジプト当局の了承を得て簡単なレポート作成の名目で訪れる、などと設定していくといいだろう。折衝は、ローズ考古学財団が済ませておいたことにして処理すればいい。

 対岸のヒエラコンポリスの遺跡では調査活動も継続している。が、特にシナリオ上の関わりが想定されていなければ、あえて説明をはぶいて構わない範囲だろう。ヒエラコンポリスの遺跡調査隊は、エル-カブの発掘権?をエジプト当局から認可されていない、と想定。

アクセス・ルート

 ナイル川流域で、エドフの下流、エスナ?の上流に位置。ナイルの対岸には、ヒエラコンポリスの遺跡も存在。

 一般の観光客なら、ルクソール西岸の遺跡地帯から、遺跡警察に警護されるコンボイにて、警備車輌付の観光バスでナイル川西岸沿いの主要道路を南下。

 あるいは、ルクソール市街から、ナイル東岸沿いの地方道を南下。エスナ?の町で、ナイルを渡河する橋を渡って、さらに南下。

 PCならではの特別な許可を財団が採っていることにすれば、ナイル川を使った水運で、遺跡に立ち寄ることも可能。

 近隣に空港の類はない。詳しくは、続く「遺跡の規模と構成」の項を参照してほしいが、日干しレンガで再建したと思われる囲壁内には古代都市の遺跡区画が重なっている。囲壁のすぐ外には古王国時代?の墳墓も遺る。

 もし、VTOLやヘリコプターの類で着地するなら、遺跡からは十分距離をとる必要がある。安全な距離を保ってナイル河畔にでも着地してから陸上を移動してきてください。

 ナイル川にセスナの類で着水するのは、遺跡近傍に砂州が多いため、無謀でしょう。離れたところに着水するのは可能と思います。

 空中にホバリングしたヘリから、縄梯子でナイルの砂州に降りる、なんてのは、絵になるような気もします☆

遺跡の規模と構成

 Tour! Egyptの“The Temples of Thoth and Nekhbet at el-Kab”ページに掲載されている地図類を参照しながら読んでください。

 なお、神殿複合の平面図は、発掘に基づいて完璧な建築構造を推定復元した平面プランと思われます。未確認なのですが、各種の解説記事や遺構写真を見ていると、神殿複合の付随建築物には修復されていないものも多いようです。

 以下の解説文では、推定による想定も含めた内容も織り込みます。GM裁量で調整するなり、記事内容に準じてマスタリングしてもらうなりの判断は、各GMにお任せします。


遺跡地帯の構成
 エル-カブの遺跡地帯は次のように大別すると、遺跡群を把握し易い。“The Temples of Thoth and Nekhbet at el-Kab”掲載の最初の地図を参照のこと。
  • ナイル川河畔に遺る、新王国時代?の神殿及び、その囲壁など。
  • 神殿囲壁の外、北方向に遺る古王国時代?マスタバ墓群。
  • マスタバ墓群のさらに北で、岩山に掘削された、貴族の岩窟墓。
  • 神殿囲壁の北東方向、河畔から2km以上離れた岩山の遺跡、他。
2重の囲壁に囲まれた河畔神殿
 一辺およそ570mほどの方形に近い区画が日干レンガの外周囲壁で囲まれている。この外周囲壁は、修復されたものと想定。ただし、ナイル川の川筋が古代から変化したため、南の角は大きく欠けている。
 外周囲壁は、厚さ12m弱、高さ61mほど。
 外周囲壁のレンガは、横ラインが緩く波打っているようにデザインされている、とのこと。これは「原初の水」を現している、と言われる。
 外周囲壁内には、修復された新王国時代以降の神殿複合建築が遺る。また、囲壁と重なるようにして、古王国時代の都市ネケンの一部が位置していたことが確認されている。残念ながら古代都市の遺構類は残存していない。
神殿複合 “The Temples of Thoth and Nekhbet at el-Kab”掲載の最後の神殿平面図を参照のこと。
 神殿複合の周囲も囲壁に囲まれている。厚さ5mほど、高さ10mほどの石組と想定。囲壁に設けられた南側の門から入るとまず、右手(東側)のローマ時代の神殿址が遺る。これは基台部のみが遺る(遮蔽度1〜2程度)、と想定。
 ローマ神殿址の前を北に進むと、ネクタボ1世?の代に建造された塔門(パイロン)が部分的に遺ると想定。遮蔽度は、3〜4程度と想定するが、列柱などはもっと高い遮蔽度を設定しても構わない。この想定は、「向かって左手(西側)トト神殿正面に通じる「獅子門(横たわるライオン像で門柱が飾られている)」が比較的よく遺っている部分」との情報に基づく。
 向かって右手、ネクベト女神神殿正面に通じる門左手(西側)の「ネクタボ2世建立の祠堂」や、門(の残存)の先、右手の「ネクベト女神の誕生殿」は基台のみが遺ると想定(遮蔽度1〜2程度)。
トト神殿ネクベト神殿複合 現状の神殿は現代に入って修復されたもの。比較的間口の狭い西側のトト神殿と、比較的間口の広い東側のネクベト神殿とが隣接して建っている配置。
 これは、おそらく、初期王朝時代?に遡る(あるいは先王朝時代?に遡るかもしれない)ネクベト神殿の隣にトト神殿が新王国時代に建てられ、さらに後にネクベト神殿の方が改築されたもの。
 ネクベト神殿は、さらに増築を重ねられ、外部も内部も非対称の平面プランを持つ珍しい神殿(古代エジプトの神殿としては珍しい)ものになった。
 かつては神殿の境界壁は、2神殿で共有さた厚い壁だったようだが、修復後は、極狭い隙間を間に置いているようだ(人が1人は通れるが、2人並んでは歩けない幅と想定)。
 正面から入ろうとすると、トト神殿の方が前に突き出し、ネクベト神殿がやや奥まった配置になっている。
 なお、写真から判断する限り、トト神殿、ネクベト神殿ともに石造りの平屋根が設けられているようだ。
 おそらく、これは新王国時代でも、第3中間期?以降に修築、増築を受けたためだろう。(古い時代のエジプト神殿は、屋根をヤシの葉などで葺いた物が多かった。そのため、多くの神殿遺構では、現在天井が吹き抜けのような形で遺っている)
トト神殿 間口9m強、高さ9m弱、奥行き42mほど。左記の奥行きは、部分的に修築されたラメセス2世の塔門(パイロン)からの長さ。本殿の奥行きは26m程度と想定。建材は石材。
 ラメセス2世のパイロンを通ると、左右に4本ずつ、都合8本の柱列が参道のように並ぶ前庭がある。前庭の先、本殿の入り口を入ると、まず3本×2の柱が並ぶ列柱室に入る。この列柱室の東壁には、ネクベト神殿に続く出入り口が設けられている。
 列柱室の先が奥殿で、やはり東壁にネクベト神殿に続く出入り口が設けられている。奥殿の最奥には、かつて神像が設置されていたはずだが、今はないと想定する。
ネクベト神殿 神殿正面は、幅30m×高さ15mほど。神殿本体は、幅23m×高さ15mほど×奥行き30m強〜42mほど。
 神殿の南側、一見正面入り口に見える箇所から入ると、本殿には通じていない ┛形の孤立した房に出る。この房は、増築された部分だが、神官による裁定や謁見などに使われた。
 トト神殿の列柱室からネクベト神殿に進むと、まずホールのような部屋に出る。この部屋が、増築前に謁見の間に用いられた部屋だった。
 内部謁見の間から次に進むと、いよいよ本殿の列柱室に入る。進行方向を奥(北)に進むと奥殿に続くのだが、右手(東)にそれると、外壁に沿って3つの小さな房が並ぶ。これらは、ハコリスが増築した部位になっている。
 本来の柱列の間に設けられた通路を奥(北)に進むと、かつては、ネクベト女神の像が祀られていたはずの内陣に至る。
 ネクベト神殿の外、東側には、神殿囲壁の内側に、「聖なる泉」の跡が遺る。
(写真が見当たらないので、適宜設定されたし。石材で小池風に囲った泉、でいいと思います。ナイルも近いことですし、泉自体は今も涸れていない、と想定)
古王国時代のマスタバ墓群
 平均的なもので、幅4m×長さ6m前後、高さ1m強程度、大きなもので、6m×6m×高さ2m弱に積み上げられた切石組の直方体が半ば崩れながら残存と想定。
(数、配置などは上にリンクを貼った知図を参照されたし)
岩窟墓
【参照イメージ】
 ネクベト神殿からだと、概ね北やや西に振れた方角、800m強にあたる。外周囲壁の北角からだと、概ね北400mほど。
 岩山の低めの岩肌に、貴族たちの墓所として石窟がうがたれていた。現在、19基の墓廟が発掘されている。古いものは古王国時代のものだが、新王国時代のものが多い。
 なぜか、第18王朝?開祖にあたるアハメス?の墓所もここにある(!?)。
 遺跡の詳細は、調査中。墓所の内には彩色の遺る浮き彫り壁画や、かなり貴重な碑文の遺るものもある、とのこと。
 入り口は1つで、内部は、かなり入り組んだ作りと想定。外見は、入り口に向けて設けられた緩い石組階段が遺る。
その他
トトメス3世建立の寺院址 ネクベト神殿からだと、概ね北西1km強、ナイル河畔に位置。そのまま1km弱ほど進むと近在の集落(Al Mahamid)に至る。
 遺跡の詳細は、調査中。修復されていない基壇廃墟と想定。
プトレマイオス朝時代の小神殿 外周囲壁の南角あたりから東に2.2kmほどにプトレマイオス朝時代の小神殿が位置。「新王国時代の岩窟墓」が刻まれた岩山と同じ岩山の山裾にあたるらしい。
 遺跡の詳細は、調査中。修復されていない基壇廃墟と想定。
トト神の礼拝所跡 「プトレマイオス朝時代の小神殿」の南東に近接して建っていた。周辺は、ワディ(涸谷)の出口で谷あい地。新王国時代?、ラメセス2世?の代に建立されたものが、プトレマイオス朝時代に改築されたもの、とのこと。
 トト神?ネクベト女神、ラー=ホルアクティ神?が祀られていた。
 遺跡の詳細は、調査中。修復されていない基壇廃墟と想定。
アメンヘテプ3世建立の神殿址 「トト神の礼拝所址」の概ね東方1500mほどに位置。周辺は、「プトレマイオス朝時代の小神殿」、「新王国時代の岩窟墓」が位置した岩山と向かい合って、ワディを挟んでいる岩山。神殿址は、岩山の山裾でワディに面して立地。
 祭神はネクベト女神とハトホル女神。保存状態が比較的良好な壁画が遺る、とのこと。
 遺跡の詳細は、調査中。壁画も遺る、とのことなので、遺構は残存と想定。

リンク

関連項目

資料リンク

活用や検討

活用

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更新日時:2007/12/20 21:58:59
キーワード:
参照:[エル-カブ] [遺跡] [エイレイシアスポリス]
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