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ヒエラコンポリスの遺跡

ヒエラコンポリスの遺跡

PCが予め知ってていい情報

 「ヒエラコンンポリスの遺跡」は、エジプト=アラブ共和国ルクソール市街南方でナイル川の西岸に位置する遺跡。古代エジプト?の先王朝時代?に溯る。

 2006年現在、エジプトの外国人単独行動制限地域の内に位置している。

【参照地図】

追加情報

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「歴史+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値12〜14」
やや詳しい情報 「ヒエラコンポリスの遺跡」は、ルクソール市街の上流で、西に蛇行しているナイル川を挟んで、概ね南100km弱ほどの西岸に位置する。
 アスワン県?県域の北辺で、クィナ県?県域の南端から遠くない。アスワン県に属すエドフの町の北北西26kmほど、クィナ県に属すエスナ?の町の南南東46kmほどにあたる。
 「ヒエラコンポリス」は、古代エジプト?の古い都市をへレネス?が古典ギリシア語?で呼んだものだが、この遺跡のアラビア語による現在の地名(遺跡名)は、「コム・エル・アフマル(赤い丘)」。ナイル河畔の渓谷が沙漠段丘に縁取られる少し手前に位置する。
 ただし、古代都市の遺跡とは別に、段丘上にも重要な遺跡地帯が広がっており、現在では、双方を含めた全域が「ヒエラコンポリスの遺跡」と呼ばれることが多い。
 2006年現在、エジプトの外国人単独行動制限地域に指定されていて、観光客はめったに訪れない。現在も欧米の大学を含んだ多国籍混成の発掘隊が、恒常的に調査活動を継続している。2004年頃からは、沙漠段丘縁に位置する「墓廟遺跡(古い通称で“城塞”とも呼ばれる)」の修復作業も取り組まれている。
小辞典版推奨判定
「表現+知性 目標値10〜12」「言語+知性 目標値12〜14」「歴史+知性 目標値12〜14」
やや詳しい情報 「『ヒエラコンポリス』は、古典ギリシア語?で『隼の都市』を意味しました。古代エジプトの地名は『ネケン』(またはネヘン)です。隼の姿で顕れる古い型のホルス神を崇拝する中心地だったので、『ヒエラコンポリス』と呼ばれたと思われます。
 ヘレネスたちは、隼の頭を持つ男性神守護者ホルス?をアポロン神?と同一視してまして、近隣に位置したベヘデト(今のエドフです)の方は、『アポロノスポリス・マグナ(アポロン神?の大都市)』と呼んでいました。
 ヘレネスたちが、上エジプトを訪れた頃、すでに宗教センターとしての勢いもベヘデトの方がネケンを上回っていたのですね。ただ、この勢いと言うのは、一般参拝者の数などのことです。ネケンの方は、より古い崇拝地としての重みは保っていたようです」―― 考古学にかぶれた民間伝承研究家

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「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 「ヒエラコンポリスの遺跡」と呼ばれる遺跡地帯は、現在ナイル渓谷に遺る都市遺跡、本来のヒエラコンポリス遺跡であるコム・エル・アフマル?と、沙漠段丘上に広がる遺跡地帯の2地域からなる。
 渓谷部に位置する狭義の都市遺跡は、ホルス神を祀った神殿遺跡を中核にした宗教センターの遺跡。19世紀末に着手されたはじめての本格調査で、幾つかの重要遺物が出土した。都市の中核をなしたと思われる神殿は、現在、「ナルメルの神殿」と仮称されることもある。
 ヒエラコンポリスは、「先王朝時代末に第1王朝?の首都だった」とされたこともあるが、この件は、第1王朝の成り立ち検討との関係で、現在、一旦白紙に戻されて、判断保留状態にある。現状言えることは「あるいは、第1王朝支配層の故地だった可能性も高い都市」といったところ。(第1王朝支配層の故地については、アビュドスとする説、所在未確認のテュニス?だとする説も、有力説としてある)
 沙漠段丘の縁に遺り、現在修復作業に取り組まれている通称“城塞”は、第2王朝?最後のファラオ?、カセケムイ?が建立させた宗教建造物で、現在は宗教的な目的の建築物だ、との解釈が主流説になっている。
 “城塞”遺跡の他にも、段丘上には、より古い墓域多数が散在する。“城塞”の概ね東600mほどに位置するのが、先王朝時代の墓所。他に、近年、B.C.3200年頃〜B.C.3000年頃の墓所も確認された。現在、地域でのヒトの集住は、先王朝時代?のB.C.4000年頃までに遡り、B.C.3400年頃の最盛期には、少なくとも5千人、最大で1万人と推測される人数が、地域に集住していたと目されている。
 これらの遺跡複合を総合的に解釈して、現在は大筋次のような想定を検証するための発掘が進行中、と考えるといい。
  • 地域は、B.C.4000年頃のナカダI期にはヒトの集住が見られ、ナカダII期に移ったB.C.3500年〜B.C.3400年頃、一端最盛期を迎えた。
  • その後、一時やや衰えたが、先王朝時代に移って、B.C.3000年頃には、上エジプトの支配権を競った幾つかの地域連合の1つ(「ネケン連合」と仮称されることが多い)の中心地となっていった。この頃には、すでに古いタイプのホルス神を崇拝する宗教センターになっていたと思われる。
 第1王朝成立の経緯については、現状では、その前段を成すはずの上エジプト統合の過程についてすら諸説ある。ネケンの遺跡地帯は、第1王朝成立過程を検証するための重要スポットの1つになっている。
 第1王朝が本格的にエジプト支配を開始し、メンフィスに統一エジプトの王都が設けられた後、ネケンは上エジプトの第3ノモス(州)とされた。行政中心としての州都は、現在ヒエラコンポリスの遺跡のナイル対岸に遺るエル・カブ?(ネケブ、エイレイシアポリス)に移され、ヒエラコンポリスの方は、ネケン州の純粋な宗教センターとなった。

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「歴史+知性 目標値14以上」
専門的知識 ヒエラコンポリスの都市遺跡(狭義の遺跡)は、1798年にナポレオンが率いたフランス軍が一時エジプトに進駐した時期に知られた。ナポレオンが伴った学術調査団の随員が、崩れた日干し煉瓦がマウンドをなしていた遺跡地帯の内で、ほとんど瓦礫と化していた遺構の一部に気づき記録している。
 その後、この遺跡は注目を浴びることなく、1897年から、U.K.(連合王国)の2人の考古学者、ジェイムズ・E.クイベルとF.W.グリーンとの指揮で着手された発掘が、初の本格調査となった。
 この調査では、ネケンの都市遺跡の中核をなした「ナルメルの神殿」跡から、ナルメルのメイス・ヘッドスコルピオンのメイス・ヘッドナルメルの化粧パレットホルス神の化身を形どった隼の黄金像?など、幾つもの重要遺物が発掘された。これらは、先王朝時代?から、古王国時代?にかけての様々時期の遺物だった。
 クイベルとグリーンとは、1902年に沙漠段丘縁の墓所も調査しており、彩色壁画を有す先王朝時代の墓を発掘していた。これは、墓所100号(tomb100)のコードで呼ばれている墓所。近年、新たに発掘されたより古い墓所(tomb23)とは別の遺跡である。
 一方、段丘縁の遺構もすでに19世紀末には気づかれていたが、他の発掘に謀殺されたためか、あるいは、やはりマウンド状に瓦解していた遺跡に興味が惹かれなかったのか、地図に“城塞(fort)”と記されたのみで発掘らしい発掘はおこなわれなかった。
 “城塞”に発掘調査がなされたのは、1967年から、当時ニューヨークの Vassar College に属していたウォルター・フェアサーヴィス博士がコーディネイトした国際調査による。フェアサーヴィスは、1980年代までヒエラコンポリスの遺跡発掘に関わったが、国際調査団のコーディネイトは、1969年から1990年まで、ミカエル・ホフマンに引き継がれた。ホフマンの死後は、ロンドン大学、カリフォルニア大学、ブリティッシュ・ミュージアム、などに籍を置く研究者らが調査を継承している。
 2001年には、B.C.3600年〜B.C.3400年頃の地域有力者の墓所が発掘され、遺体に人工処理を加えたミイラとしては最古と言われる女性のミイラ3体が発掘された。
 先王朝時代?のB.C.3200年頃〜B.C.3000年頃の地域有力者(豪族?)が設けた墓所(tomb23)が発見されたのは2003年のこと。

GM向け参考情報

用途、用法

 現在、ヒエラコンポリスの遺跡は、「エジプトの外国人単独行動制限地域」ですし、メインの観光コースからは外れています。(参照⇒ エジプトの外国人単独行動制限地域

 ナイル川対岸の、エル・カブの遺跡?と共に、よほど古代エジプトに興味のある人でなければ訪れない、通好みの遺跡になっているようです。

 多国籍調査団は常時活動していますので、遺跡警察の要員も常駐しているでしょう。

 財団系NPCが再調査に加わったり、戦闘や、異常現象おこしたりなども、比較的扱い易い遺跡スポットでしょう。

注記

 以下の、GM向け参考情報は、リアル・ワールドで活動中の多国籍調査団の活動を重視した記述になります。

 シームレス・ワールドの解説記事としては、「現在も継続中の墓廟修復作業」や近年の発見についても触れないのももったいないと思われますので。

 単発シナリオなどでは、思い切ったフィクション設定で、多国籍調査団の存在をないものとした設定も可能だとは思います。

 できれば、たまたま何か重要な学会がカイロかルクソールであって、「主な調査員は出かけたので、しばらく発掘はお休み」などのつじつま併せの方が好ましい気はします。その手の工夫をしてった方が、例えば、修復中の“城塞”とのつじつま併せなども、楽ですし。

遺跡へのアクセス

遺跡の周辺状況

【参照地図】

 まず、Super Travel Net の地図で、遺跡とルクソール(Luxor)、エドフ(Iduf)、エスナ?(Isuna)の位置関係を掴んでください。「Nile South 地図」には、「エル・カブ(El Kab)」、「コム・エル・アフマル(Kom el Ahmar)」の名も記されていますが、これは概略でしょう。

 次に、Digital Egypt for Universities の地図で、遺跡の周辺状況を把握してください。クリッカブル・マップになっていますので、前後の地図でエドフかエスナを見つけ、Super Travel Net の地図と相互参照してみてください。

 Digital Egypt for Universities の地図は、地図名が“El kab”になっていますが、対岸に“Hierakonpolis”もマーキングされています。これがナルメルの神殿遺跡が、マウンドと化した都市の跡の内にかろうじて遺っている狭義のヒエラコンポリス遺跡(都市遺跡)です。

 “cemetry”とあるのは、20世紀初頭に発掘された墓所100号の所在です。“城塞”遺跡のマーキングがないのは、おそらく、縮尺の関係でほとんど“cemetry”と重なってしまうからでしょう。

 地図内、赤系の色で彩色されているのは、周囲に散在する農村集落です。シナリオによっては、あるいは、これら農村から、多国籍調査団の発掘にバイト的に参加している村人がいることにしても面白いかもしれません。

 周辺は、村の周囲で、ナイル川に近い地域が農牧地として活用されている、と想定します。

フィクション設定
 多国籍調査団団員の宿営地は、シナリオに応じてフィクション設定して構わない範囲と思われます。
  • エドフの町で、幾つかの宿舎に別れて分宿している。
  • エスナの町で、幾つかの宿舎に別れて分宿している。
  • 近在の村で、幾つか家に別れて下宿している。

遺跡自体へのアクセス

 ナイル対岸のエル・カブの遺跡?と併せ、遺跡警察の要員も常駐していると想定。

 ヒエラコンポリスの遺跡を一般の観光客が訪れるとしたら、ルクソールから遺跡警察に警護されるコンボイ(警護付きで団体移動する観光)で訪れる。調査活動も継続しているので、一般観光客は遺跡警察の指示で巡回参観が許される程度だろう。特に、修復作業中の墓廟遺跡の真近には近づけないと思われる。

 現在のところ、特に、遺跡地帯の隔離フェンスや、順路などは整備されていないようだ。この辺も遺跡警察常駐員が取り仕切るスポットと想定する。

 PCについては、エジプト当局、及び、発掘権を得ている調査団の了承を得て簡単なレポート作成の名目で訪れる、あるいは、常駐調査団からの依頼で派遣された、などと設定していくといいだろう。折衝は、財団が済ませておいたことにして処理すればいい。

アクセス・ルート

 ナイル川流域で、エドフの下流、エスナ?の上流に位置。ナイルの対岸には、エル・カブの遺跡?も存在。

 一般の観光客なら、ルクソール西岸の遺跡地帯から、遺跡警察に警護されるコンボイにて、警備車輌付の観光バスでナイル川西岸沿いの主要道路を南下。

 あるいは、ルクソール市街から、ナイル東岸沿いの地方道を南下。エスナ?の町で、ナイルを渡河する橋を渡って、さらに南下。

 PCならではの特別な許可をローズ考古学財団が採っていることにすれば、ナイル川を使った水運で、遺跡に立ち寄ることも可能。近隣に空港の類はない。

 詳しくは、続く「遺跡の規模と構成」の項を参照してほしいが、遺跡は崩れかけたマウンドと、再建中の日干し煉瓦の構築物と、やたらあちこちに散在している墓所群。こんなところにVTOL類で直接着地するのは、NGである。安全な距離を保ってナイル河畔にでも着地してから陸上を移動してきてください。

遺跡の規模と構成

【参照地図】

 普通は“Digital Egypt for Universities”の地図をメインに使って、“Hierakonpolis online”の地図は、細部のフィクション設定に迷ったときにイメージ・ソースとして使っていく用法をお勧めします。(“Hierakonpolis online”の地図をメインに使ってシナリオを組むには、かなり遺跡のことを調べこまないと、かえって使いこなすのが大変になりそうです)

 “Hierakonpolis online”の地図を見るときは、南北の方向が傾いていることに注意して、“FORT”の位置と都市遺跡の位置とを確認するのが先決になります。

 現在、遺跡地帯は、2つの主要ゾーンに大別されます。ナイル渓谷に遺る都市遺跡、「本来の(あるいは狭義の)ヒエラコンポリスの遺跡」と、沙漠段丘上に多数発見されている墓域や墓廟です。

都市遺跡

【参照イメージ】

 2006年5月現在、上に挙げたページには1980年当時の再調査の情景写真が掲載されています。

 2006年現在の状況も、基本的には同様と想定します。

 かつての都市は、日干し煉瓦が瓦解して周囲より小高い丘(マウンド)になっています。マウンド上の要所要所が発掘されています。都市の中核をなしていた、ホルス神殿(ナルメルの神殿)の主要部分のみが、かつての遺構が発掘されています。

 遺跡は、縦1.5km弱×横900mほどの領域のマウンドをなしている。この領域は、古王国時代?から中王国時代?にかけて修繕、改築が重ねられたもの。囲壁跡は、長辺を北西方向に向けている。かつての構造物は残存しておらず、発掘によって確認された窪みが遺っている程度の現状と想定。

 マウンドの1角に、先王朝時代?に日干しレンガで築かれていた神殿があった。発掘により、神殿の建材が崩壊した堆積が確認されている。この神殿は、さらに以前、野外祭儀場だった、とも言われている。

 この堆積に重なって、ナルメルの神殿跡が遺る。先王朝時代初期に建造されたホルス神の神殿が、先王朝時代の第2王朝?から古王国時代?の第3王朝?にかけて、囲壁も併せて増築された部分。

 この神殿跡は、690m×400mほどのアウトラインから、南側区画が欠けた敷地に遺る。多数の壁が小室を区切る古拙な神殿建設。建材は日干し煉瓦だが、部分的な修復されていて、遮蔽度は高い部分で4〜6程度と想定。

主な出土遺物
ナルメルのメイス・ヘッドナルメルの化粧パレット黄金のホルス像、 スコルピオンのメイス・ヘッド

墓廟遺跡(通称“fort”)

【参照イメージ】

 まず、Digital Egypt for Universities の地図を参照資料として、遺構の外周規模を把握してください。

 次に、ARCHAEOLOGY's Interacctive Dig のページに掲載されている、修復作業中の遺構写真などをイメージ・ソースとしてください。

(これ、多分、新たに日干し煉瓦を作っては、再調査が済んだとこから積んでるでしょうね。ご苦労様としか言いようがありません)

tomb100

【参照イメージ】

 1902年に発掘された先王朝時代末期の墓所。壁画は引き剥がして、現在はカイロのエジプト考古博物館に収蔵とのこと。

tomb23

【参照イメージ】

 ページに掲載されている写真をイメージ・ソースにするといいでしょう。都市遺跡から2kmほど離れた沙漠段丘上で発見された、とのこと。

リンク

活用や検討

活用

  • このページの記事を踏まえた、アイディア・フック?、使ってみたシナリオ、セッション・レポ、などなど
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重要な改訂の情報

  • 内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。
    (誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要)
  • 幾つかの情報を補完して、詳細化しました。(2005年4月15日)
  • 追加調査で、現在進行中の発掘作業の情報に接しました。関連情報を加味したため、かなりあちこち改訂することになりました。
    改訂作業中、明らかになった過ちも、気が付く限り、正しておきました。旧稿では、都市遺跡、ナルメルの神殿(ホルス神殿)、城塞遺跡の記述に混乱が見られたので正しました。また、遺跡の位置情報にもあやふやな点があったので正しました。(2006年5月17日)
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検討

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