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カシミール地域

カシミール地域 
カシミールちいき
(Kashmir region) 
簡易版

簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。

英語表記
Kashmir
中文表記
克什米爾

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 「カシミール地域」は、歴史的インド地域?の北西部で、ヒマラヤ山脈?西部、カラコルム山脈南部にあたる地域。「カシュミール(Cashmere)地域」とも。

 東から西に流れるインダス川?上流部が、カラコルム山脈に連なる北のギルギット山域と、南域のパンジャブ=ヒマラヤ山脈とを分けている。

 狭義には、この地域の内、カシミール渓谷?を中心にした一角も「カシミール地方」と呼ばれる。が、ここでは、広義の「カシミール地域」についてを解説する。


 かつての、ジャンム=カシミール藩王国領について、中華人民共和国、パキスタン=イスラム教和国?、及び、かつての藩王国領全域の領有を主張するインド共和国、3国の間で国境線に関する主張が異なっている。2006年現在も、地域は分割され実効支配が続けられている。

 2006年現在、南部は、概ねインドの実効支配下に、南部の西縁から北部にかけては、パキスタンの実行支配下にある。中国は、南部北東縁の高山地帯と、北部の北東辺とを実効支配している。

 大まかには、地域の2割弱ほどが中国の実効支配地、1/2弱ほどがインドの実効支配地、1/3弱ほどがパキスタンの実効支配地になっている。

 インド・パキスタン間の対立は、近年沈静化の動きが見られている。パキスタン側は、かつてのような積極性で、カシミールの分離独立派を支援してはいないようだ。しかし、カシミール地域地元の分離独立派集団の内では、武装過激派集団も活動を継続しており、2006年現在、テロも断続的に続いている。

 インド・中国間の係争関係は、膠着状態が続いていると言っていいだろう。ただし、2006年夏、長年事実上の封鎖状態が続いていた両国実効支配地の境界部、カラコルム峠にて国際郵便の受け渡しが公式に開始された。

 パキスタンと中国とは、長年密接な外交関係を築き上げてきている。両国の間では、地域の国境区分についての係争は無い、と考えていいだろう。


 2005年10月、パキスタン実効支配地のギルギット地域東部を震源に、カシミール地域はマグニチュード7.6〜7.8の地震に見舞われた。この地震の被害は、パキスタン首都イスラマバード?にも及んだ。

 2006年現在、山間地で物資の移送も困難なことから、そのごの復旧も充分には進展していない、と伝えられている。

【参照地図】

【参照情報】

カシミール地域の地図

カシミール地域の有用地図集
(別ウィンドウで、並べて見ると多分便利)

やや詳しい情報

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 カシミール地方の領域は、およそ22万平方km。南部インド支配地の主要都市スリナガル?で、標高1600m。パキスタン支配地と中国支配地との境界部には、標高、世界第2位のK2(ゴッドウィーン・オースティン山)の頂が位置。北を縁取るカラコルム山脈の標高は、8000m級。

 しばしば、「カシミール高原」(カシュミール高原)とも呼ばれるが、実態は、インダス川上流域で、周囲を高山に縁取られた盆地状の地域。比高の高い大きめの渓谷部(カシミール渓谷)を擁し、各所に湖水が散在している。


 2006年現在、インド共和国が実効支配している地域は、南部の101,387平方kmで、地域全体のおよそ46%弱にあたる。インド側は、全域の領有主張を続けているが、実際問題としては、実効支配地が、インド領ジャンム=カシミール州?として扱われて久しい。

 ジャンム=カシミール州は、ジャンム地区とラダカ地区とに大別することができる。

 パキスタン側の実効支配地は、南部西縁部と、北部のギルギット山域とに大別できる。南部西縁部は、東西幅1600km〜6450kmほどの細長い地域で、13,350平方kmほど。北部支配地は、72,496平方kmほど。

 中国の実効支配地は、主に北部の東北辺にあたる、アクサイ・チン地区で、37,555平方km。他に、カラコルム山脈中部の東斜面も支配している。


 地域は、19世紀中頃は、基本的にはアフガニスタンに拠点を持っていたドゥーラニ朝?の支配下にあったが、デリーに帝都を構えたムガール朝の地方領主との間で争奪されてもいた。

 例えば、1819年には、ムガール帝国のマハラジャ(太守)の1人が、3万の兵力でラホールからカシミールに攻め入り、一画を征服した。

 1846年、U.K.のインド総督府は、地域の支配権をアムリッツァ?のマハラジャに売却。実際は、パンジャブ地方を拠点にしたシク教王国の影響力が強く、ほとんどはシク教王国の支配地だった。

 1935年、U.K.領インド帝国の政庁は、ドグラ人?の王に、形式上はムガール帝国の藩王国として地域を支配する権利を、60年間の期限で委ねた。これは、帝政ロシアの南下に備えて、国境部の防備を強化しようとの狙いだった、と言われる。

 第2次世界大戦?後、U.K.領インド帝国は、完全な自治権を持って独立することになったが、独立後の体制について、より連邦国家的な体制を求めたイスラム教徒主体の勢力と、より中央集権的な体制を求めたヒンドゥー教徒中心の勢力との意見調整が付かなかった。結局、1947年にパキスタン=イスラム共和国とインド共和国とが、同時にインド帝国から分離独立することになった。

 独立に際して、当時565あった、U.K.領インド帝国の地方政権は、それぞれにインド、パキスタン、どちらの新国家に帰属するか自決することになった。当時のジャンム=カシミール藩王国では、イスラム教徒が多数派の地域を、ヒンドゥー教徒の支配者が統治していた。

インド側の主張
 インド側の主張では、ジャンム=カシミール藩主が、帰属について住民投票をせずに決定しようとしたことに反対した北部ワジリスタンのカバイリ族が、パキスタン軍の支援を受けて地域に武力侵攻したと言う。カバイリ族の侵攻に抗しかねた、藩主からの救援要請に応じ、インド軍が派兵された、と言うのがインド側の主張だ。
パキスタン側の主張
 パキスタン側の主張では、地域に侵攻したインド軍が、藩主にインド側帰属文書への調印を強いた、としている。当時の藩主が、最終的に地域の統治をインド政府に委ねることに同意した外交文書に署名する前、インド軍によって軟禁状態に置かれていたことは確からしい。

 結局、当時の藩主による、権限委譲が望んでのものか、強いられたものかを歴史的に判断する材料は、現在のところ充分整理されていない。ただ、当時の状況から見ると、地域住民の多数派がパキスタン側への帰属を望んでいたとは、思われる。

 地域で対峙したインド軍、パキスタン軍は、当初、交戦をせずに膠着状態に陥っていた。これは、U.K.領インド帝国軍の友軍として2次大戦を戦ってきた将兵たちが、交戦を避け、両政府からの交戦命令の実施を意図的に遅延したのだ、と言われている。結局、膠着状態はカバイリ族の武装集団によって破られ、北部を中心に地域の1/2ほどがインド軍の制圧地から外れた。

 こうしたカシミール情勢は、1948年まで続く第1次インド・パキスタン戦争に展開した。この戦争は、国連安全保障理事会の議決を受けて停戦された。議決は、地域の帰属を住民投票で決するものとし、パキスタン軍の全軍撤退と、インド側駐留軍を裁定規模に押さえるこを求めた。インド、パキスタン両国政府は、住民投票の実施には同意したが、どちらも部隊を撤退させはしなかった。

 地域の領有について、インド・中国間で交戦が起きたのは、1962年のこと。

 1965年には、カシミール地域で対峙していたインド軍、パキスタン軍の間で交戦が生じ、第2次インド・パキスタン戦争、あるいは、第2次カシミール紛争が起きた。4月に生じた交戦状態は、激しい戦闘に展開したが、国連安保理の決議を受け、同年9月には停戦された。

 1971年には、東パキスタン(現バングラディシュ共和国?)が、パキスタン=イスラム共和国からの分離独立を求めたことがきっかけとなり、第3次インド・パキスタン戦争が起きた。この戦争では、どちらかと言えばカシミール地域での地上戦は膠着し、インド側、バングラディシュ側の海軍力、空軍力によってパキスタンは2週間で降伏に追い込まれた。

さらに詳しい情報

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 カシミール地域は、石器時代の末から、インド方面に進出していったアーリア系?集団が、数世代滞留していた土地、と推測されている。

 この推測は、現在まで伝えられているヴェーダ文献テキストに含まれている古いテキスト層に、地理的描写などが地域を指すと思える部分が少なからず認められることから説かれている。考古学的な物証が充分あるけではないし、普通言われる歴史研究(文献研究)の成果でもない。どちらかと言えば、民族学的なアプローチだが、「推測」と限定されている限り、歴史研究者や考古学者にも、あえて反対する意見は多くない。

 どちらかと言えば、「推測」を裏付ける物証や文献を探している研究者は少なくないだろう。


 「カシミール」の地名は、サンスクリット語で「カシュパ仙の山域」を意味した「カシュパ=ミーラ」を語源とする、というのが有力説だ。

 語源説から伺われるように、歴史的に遡れる限り古くは、地域的な特徴を持ったバラモン教の土地で、バラモン教の1派の拠点地域だった。後に、仏教の有力センターの1つに移行した。地域で有力だったのは、大乗的な仏教だが、個人的瞑想修行も盛んだった。

 カシミール地域では、バラモン教以来の伝統的だったリシ教団も仏教的な思想を取り入れ、南方起原のヒンドゥー教シヴァ派の瞑想主義も、カシミール地方では仏教教団と相互影響しながら、独特なタントラ主義の型で展開した。

 地域で特徴的な仏教の影響は、イスラム教にも及んだと目されている。カシミール地方では、イスラム神秘主義の教派が幾つか生まれ、その影響は現在も続いている。南でカシミール地域に隣接するパンジャブ地方で、シーク教?が盛んになったのも、カシミールの宗教伝統と無関係ではないだろう。

 こうした地域的な宗教伝統との関係で、現在、地域に伝えられているイスラム教にも、かなり独特な傾向が見られる。地域では、イスラム教でも、「世界に存在する全てのものが神の化身であり神の顕れだ」とする汎神論的な教えが色濃い。世界のすべてが神の顕れとみなすことから、預言者や預言書を介さずに、直接神と交感することも不可能ではない、として、神秘主義が営まれてきた。

 一方で、汎神論的神秘主義は、時として多神教と区別が付かないような宗教混交も生み、原理主義的なイスラム教徒の反感を招いた事例は過去にもある。

GM向け参考情報

 「増補待ち」。

【参照地図】

別称類

主要国の言語

  • 英語表記=Kashmir
  • 中文表記=克什米爾
    (〓はそれぞれ、表示できない漢字)
  • ロシア語表記=Кашмир
  • フランス語表記=Cachemire
  • スペイン語名=Cachemira
  • アラビア語名=(調査中)

リンク

関連項目

資料リンク

活用や検討

活用

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