歴史的スーダン
追加情報
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値8〜10」「言語+知性 目標値10〜12」
- やや詳しい情報 「(歴史的)スーダン」は、ヘレネス(ポリス時代の古代ギリシア人)が、ヌビアを「エチオピア(やはり肌の黒い人の土地の含意)」と呼んだのと同類の発想と言える。
- 古くから、シリア・パレスティナ?、メソポタミアや古代ギリシア?、古代ローマ?などと大々的に交流し、地中海人種?が主流になっていた北アフリカとは異質な地域、といったイメージだったことだろう。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値12〜14」
- やや詳しい情報 歴史的スーダンは、概ね、リビア沙漠及び、サハラ沙漠より南の、ステップ、サバンナの気候地域を指した。コンゴ盆地?以北で、ギニア湾?沿岸から、エチオピアまでの広い領域だが、南方の熱帯密林地帯と、北の乾燥地帯、半乾燥地帯との間、とイメージすると、大まかな理解ではあってもかなりイメージし易くなる。(例えば、細かく見ればチャド湖以東の歴史的スーダン中央部は、かなりの地域が半乾燥地帯に占められている)
- この地域に一部でもかかる現存国家を挙げると、以下のようになる。(概ね、西方から東方へ向けての列挙)
- ギニア共和国、シエラレオネ共和国、リベリア共和国、マリ共和国、コートジボワール共和国、ブルキナファソン?、ガーナ共和国、トーゴ共和国、ベナン共和国、ニジェール共和国、ナイジェリア連邦共和国、カメルーン共和国、チャド共和国、中央アフリカ共和国、スーダン共和国、エリトリア国、エチオピア連邦民主共和国、ジブチ共和国、ソマリア民主共和国
- 現在のスーダン領は、歴史的には西スーダンと呼ばれた地域の中核部と言っても、そう間違いではない。エチオピア高原?に関しては、西欧諸国の侵出期にも長く独立を保った関係から、歴史的スーダンの内での少し性格の違う地域、とイメージされることが多い。しかし、中世のアラブ人は、エチオピアも「(歴史的)スーダン」の一部とイメージしていたことは、記憶しておいても損ではなだろう。
GM向け参考情報
「歴史的スーダン」は、極めて大づかみな地域概念です。実際の歴史でも、東スーダン(歴史的スーダンの東部)、中部スーダン、西スーダンに大別することがよくなされました。
西欧諸国が侵出し、植民地支配を及ぼした時代には、東スーダンはほとんどフランスの支配下におかれ、中部スーダンではフランスの支配が優勢で一部にU.K.(連合王国)の支配がなされました。西スーダンは少し特殊で、U.K.とその影響下にあったエジプト(政治史で「アングロ=エジプト」政府とも呼ぶ)との支配力、影響力が強く及びました。が、エチオピア高原?は長く独立を保ちました。(ソマリ・ランド?はU.K.領とされましたが、現在のジブチ領などはイタリア領とされました。
中世にアラブ人イスラム商人が定常的な交流を築いた時期には、すでに土着の有力国家は、その多くがイスラム化していました。
ニジェール川などを経由した中継貿易で、イスラム教が伝播していったのだ、と推測されています。あるいは、「貿易に有利なので、国家がイスラム教を採用したのだ」とみなす説もあります。実際、マリ帝国?の宗教は、イスラム教と土着の民俗宗教とを折衷したものだったようです。
アラブ人イスラム商人たちは、歴史的スーダンには主にニジェール川を利用して進出していったケースが多いようです。
用途
マスウーディー?やバクリー?、イブン・ハルドゥーン?やイブン・バトゥータ?など、中世イスラム教徒の地理学者、探検家たちが歴史的スーダンについて記したか(?)と思われる未確認の草稿などを、導入用題材に使う手が考えられます。
古代史ネタとしては、伝説的な古代ローマの遠征軍や、彼らが植民市を築いたと言う伝承。サハラが沙漠化する以前にまで遡るサハラ越えの交易(トランス・サハラ交易?)なども題材として考えられます。
キーワード:
参照:[アフリカ州のランド・マーク] [ランド・マーク] [ナイル諸語] [スーダン共和国] [アフリカ] [クァーラ・オアシス]