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アッシュルの遺跡

アッシュルの遺跡 アッシュルのいせき(暫定版)

記事内容追加調査中の暫定版です

PCが予め知ってていい情報

 アッシリア?発祥の地である古都アッシュル?市の遺跡。現イラク共和国領北部で、ティグリス川の中流域に位置。

 2003年以降、イラク共和国で2件目のユネスコ世界遺産として登録されている。

【参考】

追加情報

小辞典版推奨判定
「情報+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 アッシュルの遺跡は、イラク共和国のニナワ県?の中南部東寄りで、ティグリス川西岸に位置。現在地名カラト・シャルカート。ニナワ県県都、モスル?市の南、110kmほどにあたる。
小辞典版推奨判定
「言語+知性 目標値10〜12」「歴史+知性 目標値12〜14」
やや詳しい情報 アッシュル市は、新アッシリア時代に、アッシュル・ナツィルパル2世がカルフ?(現ニムルド)を軍事的首府に定めるまで、アッシリアの首都だった。アッシリア?とは、元々アッシリア語?で、「アッシュル(神)の地」を意味した。
 アッシュル神?は、アッシュル市の主神だが、シュメール・アッカド時代?から、メポタミア地域?の都市で、主神の名を都市名にした例は、アッシュル以外に知られていない。
 「都市が成立した後、都市を神格化してアッシュル神が創唱された」との説が有力説だが、「元々、都市が成立する以前からの土地神、あるいは土地の神格化がアッシュル神」と考える説、他も唱えられている。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 アッシュル市の遺跡は、20世紀初頭から何度か発掘調査が重ねられて来ているが、古アッシリア時代?の文化層の発掘調査には、ほとんど手がつけられていない。いつから都市が成立したかについては、未解明。一応、B.C.2500年頃には、都市が成立していた、とされることが多い。
 古代の歴史記録によれば、シュメール・アッカド地方?が、アッカド王朝時代?だった頃、すでに、セム系の民族が定住していたらしい。すでに、イシュタル女神の神殿に奉納された遺物も出土しているので、この頃には都市が成立していたのかもしれない。この時期のアッシュルは、アッカド王朝?に従属的だったとも、半ば独立した勢力だったとも言われる。
 エブラの遺跡から出土したエブラ文書?によれば、紀元前3千年紀ユーフラテス川中流域のマリから、ティグリス川のアッシュル市の一帯にかけてで、すでにアッカド王朝時代以前に、セム系の文化が優勢になっていた、と言われている。(ただし、エブラ文書の内には、現在までのところアッシュル市についての記述は見出されていない)

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値14以上」
詳しい情報 古い時代のアッシュル市についての情報は、現在までのところ、アッシュルの遺跡の調査よりも、アナトリアで営まれていたアッシュル出身の交易商たちの居留地から出土した遺物に依るものの方が多い。
小辞典版推奨判定
「歴史+直観 目標値14以上」
インスピレーション 元々、平地メソポタミアの北東部から、山岳地帯にかけては、シュメール・アッカド文明から「スバルトゥ(スバル人の地)」と呼ばれていた。スバル人?とは、シュメール・アッカド文明から蔑視されていた山岳民族の1つで、後のフリ人?と関係すると言われている。
 アッシュル市の成立以前に、土地が、スバル人とセム系民族との間での特別な場所(交易地?)だった可能性はある。あるいは、アッシュルの地は、スバル人の聖地だった可能性もある。
注:可能性だけなら、他にも様々な可能性はある。

GM向け参考情報

用途

 イラク共和国で2件目にユネスコ世界遺産に登録されているアッシュルの遺跡は、いろいろな料理法でシナリオに使えると思われます。

 アッシリア発祥の地でありながら、発生期についてはほとんど未調査という点も「ブルーローズ」の題材として美味しい。

遺跡へのアクセス

遺跡自体へのアクセス

 遺跡は、2005年現在、「イラク治安維持の地域分担?」では、北部区域とされている地域に存在。地域の治安維持は、米軍がISF(イラク保安部隊)?と共同してあたっている。(この件は「イラク治安維持の地域分担?」の項を参照のこと)

 イラク2件目の世界遺産ですので、現イラク政府、及び、ISF(イラク保安部隊)や米軍も、かなりの配慮をしていると想定。

 遺跡地帯には、20世紀初頭の発掘調査で、ドイツ隊が建設した宿舎が建っている。現在の宿舎は、湾岸戦争?以前に、イラクの考古総局が調査隊が利用する宿営施設として改修したもので、現在も考古総局に雇われた管理人が常駐と想定。

 さらに「ISFによる定期的な巡回地点になっている」とも想定。

アクセス・ルート

注記  手元の資料本に見られる、遺跡地帯の写真、遺跡図と、参照している地図でのマーキングとの間に、細かな不整合があります。以下では、資料本の方を優先し、遺跡がティグリス川河畔に存在する、との推測でまとめました。


 遺跡地帯の西を、モスル?からティグリス川の西岸を川筋に並走する地方道が布設されている。

 この地方道は、遺跡の西を通過した後、ティグリス川から離れ、モスルとバグダードとを結ぶ基幹道路に合流。

 遺跡へ到達するシンプルなルートは、バグダード国際空港 → バグダードを経由する基幹道路を北上 → 遺跡の手前で地方道に入り、道なりに20kmほど走行 → 地方道を東に外れ、荒野を数km走行しティグリス川河畔の遺跡を目指す。

 あるいは、トルコやシリアから国境を越えて、モスルを経由し、南下するルートも考えられる。

 遺跡の現況は、基本的には修復などがなされていない。過去の調査で地表に露呈した建築物基台や、過去の発掘溝(トレンチ)が散在。

 1980年頃の古い情報に依れば、遺跡地帯の周囲はフェンスで囲まれている、とのこと。その後、湾岸戦争?イラク戦争があったわけだが、フェンスで囲む以上に厳重な管理体制がひかれることがあっても、管理が緩んでいるとは考えづらい。

 未調査の遺跡層も多いことから、VTOL類での直接離着陸はしないものと考えたい。VTOLやヘリコプターの類は使用する場合は、遺跡地帯からやや離れた場所に降り立ち、遺跡には徒歩で向うことを推奨。(この件の運用については、「VTOL類で遺跡に着陸してもいいか?」の項を参照し、検討されたし)

遺跡の周辺環境

 遺跡に近傍の小都市は、ティグリス川上流のハドラーニーヤ(人口未詳、1万人未満級)と、下流のシャイフ(人口未詳、1万人未満級)。ハドラーニーヤは、遺跡の北北東22〜23kmほどにあたり、シャイフは、遺跡の南東38kmほどにあたる。

 遺跡からやや離れた地点に農耕集落であるシャルカート村がある。遺跡上層から、一段低くなった北側の土地は農耕地。メソポタミア地域の平地部でも、アッシュルのあたりから北西の地域は、降水量がやや増えるので、小麦や果樹がが栽培されている、と想定する。

 なお、遺跡近傍には、オスマン・トルコ時代の城砦址が遺り、ここから遺跡地帯を遠望できる。遺跡との位置関係は南西側と想定(未確認)。

遺跡の規模と構成

 遺跡地帯の中核にあたる古い市域は、およそ63平方km強。全体が小高い台地状の遺丘になっている。

 台地状の遺跡地帯の上層に、さらに複数の小遺丘が遺る。

 過去の発掘は、遺跡地帯の北部、古代の地方河川跡に沿った区画に偏っている。北区画を中心に、遺丘を掘り崩した過去の発掘溝の底に古代建築物の基部が散在。

 他の区画でも発掘調査はなされているが、発掘スポットは、散在。集中的に調査された発掘スポットの間に、調査溝(トレンチ)がまばらに残ると想定。

 地表に露呈しているのは遮蔽度1〜2程度の石材や、過去の柱穴や、壁面跡の窪地などと想定。

市域
 アッシュル市の古い市域は、ティグリス川の川筋と、古代にティグリス川に西から流入していた地方河川(現在は干上がっている)との間に挟まれ、概ね、銀杏の葉に似たような形状だった。
 あるいは、市域の外縁を、北北東方向に中心点を想定した扇形と仮想しても概ねは合致する。半径900m弱ほどの扇形の東縁の辺ががティグリス川に面す、北縁の辺が現在は干上がっている古代河川の川床に面す。この川床は、現在、窪地になって残っていると想定。
市壁跡 北から東に渡る扇形の弧部に沿って、新アッシリア時代の市壁の跡が発掘されている。
外壁跡と新市域 市壁跡から30m強の幅をおいた外周で、やはり新アッシリア時代の外壁跡が発掘されている。ただし、外壁は市域の南で、ティグリス川から330mほどの位置に来るとほぼ直角に南に曲がり、ティグリスの川筋に平行。市壁の南で外壁とティグリス川とに挟まれて区画は、拡張された(?)居住区(新市域)と目されている。
外濠跡 外壁のさらに外には、幅40m弱ほどの外濠の跡が窪地になって残っている。かつては、北の地方河川とティグリス川との水がこの外濠に引かれていた。
古アッシリア時代からの遺跡
アッシュル神殿址 市域の北北東、扇形の頂点に近い区画で、∧ に近い形状に屈曲していた古代河川に挟まれるようにアッシュル神殿が建てられていた。遺跡地帯の上層が掘り崩され、一段低くなった区画に基台が露呈していると想定。地上に露呈している遺構の一部は、中アッシリア時代?に修築された跡。
ジッグラト アッシュル神殿址の西南西に隣接して、ジッグラト?が崩壊した遺丘が、周囲から、一際、小高く残っている。
 ジッグラトが古アッシリア時代に建造されたことは確かだが、後代のアッシリアで何度も修築を重ねられた。
旧宮殿址 ジッグラトの遺丘の西南西に隣接して、古アッシリア時代の宮殿址が発掘されている。
 旧宮殿の敷地は、110m強×90m弱ほど。なお、旧宮殿跡の上層には、中アッシリア時代のアダド・ニラリ1世?の宮殿址が重なっている。
その他 市壁の内側で、古アッシリア時代の門壁跡や、市街路の跡、個人住宅跡などが発掘されている。これらの発掘スポットは、神殿址や宮殿址から離れた区画にまばらに散在。
中アッシリア時代の遺跡
アダド・ニラリ1世の宮殿址 古アッシリア時代の、旧宮殿址に重なるように遺る。アダド・ニラリ1世の代に、旧宮殿跡を1度整地し、新たな宮殿が新築されたものと想定(未確認のフィクション設定)。異なる時代の建造物の基台痕跡が、わずかな段差で混在しているものとします。
 基本的には、古王国時代の宮殿基台や痕跡が露呈しているものとしますが、南側の一部に、シャムシ・アダド1世宮殿に隣接していた王族墓廟の痕跡が露呈している、とします。
シンとシャマシュの神殿址 古アッシリア時代と中アッシリア時代の宮殿址とが複合している敷地の南西方向に、やや小ぶりな神殿基台が遺る。月神シンと太陽神シャマシュとを祀った神殿の跡。
アヌとアダドの神殿址 複合宮殿址の西側に隣接して、中庭を持つ大きめの神殿基台が遺る。天空神アンとアダド神とを祀った神殿の跡。
ナブー神殿址 シンとシャマシュの神殿址の南西方向に、小さめの神殿基台が遺る。知恵の神ナブー神を祀った神殿の跡。
 ナブー神神殿は、中アッシリア時代でも、最も新しく増築された神殿とする。神殿址の北縁からは、さらに小さな古アッシリア時代のナブー神廟跡が発掘されている。(このパラグラフの情報には未確認の推測も含まれている)
イシュタル神殿址 ナブー神殿址のすぐ南西に近接して、イシュタル神殿址が遺る。これは、中アッシリア時代に建てられた神殿跡。基台部のみが露呈と想定。 
トゥクルティ・ニヌルタ1世の宮殿址 ナブー神殿址の北西、アヌ神及びアダド神の神殿址の南西にトゥクルティ・ニヌルタ1世?の宮殿址が遺る。
 周囲からは、中アッシリア時代の家屋の痕跡も発掘されている。これらは高官の私邸跡と想定。

遺跡の来歴

 追加情報にあるように、アッシュル市が創建された時機や経緯は未解明です。

 アッシュル市自体の歴史を書くと、アッシリア史を書くに等しくなってしまうので、関連の他項目に譲ります。ただ、カルフ?が軍事的首府とされ、ドゥール・シャルルキン?、ニネヴェ?と王宮所在都市が移った時期も、アッシュル市は廃れはしませんでした。

 アッシュル市も、紀元前7世紀初頭、アッシリア帝国?の滅亡に伴い滅びました。

 アッシュルの遺跡地帯では、上層からパルティア?時代の建造物の痕跡が発掘されているそうですが、この建造物の経緯については調べきれていません。

 とりあえず、後代のオスマン・トルコ時代の城砦と同様、ティグリス川流域の要衝の地を活かした建物が建てられていた、と想定しておくことにします。

 アッシュルの遺跡を初めて訪れた、欧米人は、U.K.(連合王国)の出身で、ニネヴェ遺跡?を発見したA.H.レイヤード?とされています。レイヤード自身が記した記録によれば、ニムルドの遺跡を探索していた1846年のこと、とのこと。

 レイヤードは、アッシュルの遺丘を発見した地域の遊牧民族長に案内されて遺丘を訪れたそうです。本によっては、このときレイヤードが遺跡を発掘したかに書かれている物もありますが、単なる探訪に留まっていたようです。

 アッシュルの遺跡の本格調査は、ドイツ隊によるもので、第1次大戦以前のこと、とのこと。詳細は調べきれていません。

 その後、イラク独自の調査も含め、数次の発掘が重ねられて来ています。

主な出土物

イシュタル奉納碑文
 アッカド王朝時代?イシュタル神殿に奉納されたと目される石板碑文。当時のアッシュルの施政者(ワクルム)が、戦勝を祝して、戦利品を女神に奉納したことが記されている。
奉納槍先
 イシュタル神殿に奉納されたと銅製の槍の穂先。刻文に「キシュの王マニシュトゥシュの僕であるアズズ」による奉納文が刻まれている。
 この出土遺物は、アッカド王朝時代のアッシュルが、アッカド王朝に従属的だったことの論拠とされている。

別称類

 遺跡の現在地名、カラト・シャルカートは、「シャルカートの砦(カラー)」を意味し、オスマン・トルコ時代の城砦に由来する。

トピック:シャルカート村出身の「シャルカティ」

 アッシュルの遺跡近くに存在するシャルカート村の出身者が「シャカルティ」と呼ばれます。

 20世紀のイラクでは、「シャカルティ」と言うと、考古調査の現場に慣れた人々として知られているそうです。一般に、どれくらい知られているのか? については疑問もありますが、少なくとも考古学関係の分野では有名だそうです。

 イラクでおこなわれる、考古調査の現場には、必ずシャカルティが数人いて、現場作業のリーダー的な立場を担っているそうです。

 あそらくは、バビロンの遺跡の発掘調査で、ドイツ隊が示した現代的な調査法を、シャカルティの人たちが修得したのではないでしょうか? 詳細な背景については、調べきれていませんが、題材として、うまくシナリオに組み込めると、おもしろくなりそうな予感はします。

活用や検討

活用

検討

  • 検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで)

更新日時:2005/11/28 19:51:54
キーワード:
参照:[モスル市] [ユネスコ世界遺産] [遺跡] [ナンム女神] [ティグリス川]
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