メンフィスの遺跡
追加情報
- 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値12〜14」
- やや詳しい情報 「メンフィス(メムフィス)」は、古代エジプト?の、下エジプト第1ノモス首都でもあった。遺跡はカイロ?の南27kmにあたる。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10〜12」
- やや詳しい情報 メンフィスでは、古王国時代?のほとんどの期間、上、下エジプトの統一王都が営まれた。近傍に位置するサッカラの遺跡?は、メンフィスのネクロポリスとして造営されたものだし、ギザの大ピラミッド地帯も、古代エジプトの行政区分では、第1ノモスの領域内に含まれていた。
- 中王国時代?でも、統一エジプトの王都とされ、新王国時代?の第18王朝?でも、ほとんどの期間、王都とされた。ローマ皇帝テオドシウスの勅命で神殿が破壊された後、廃都になった。
- 「メンフィス」は、古典ギリシア語?による呼称で、ノモス、及び都市は、おそらく「イネブ・ヘジュ」と呼ばれていた。(イネブ・ヘジュは「白い壁」を意味した)
- 「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値12〜14」
- 詳しい情報 メンフィスの都は、伝説的統一王メネスの創建による、と伝えられている。ヘロドトスが収集した後代の歴史伝承によれば、第1王朝?のホル・アハは、王都建造予定地の南にダムを築き、ナイル川の流れを迂回させて設けた干拓地に王都を築いた、と伝えられる。
- ヘロドトスによれば、彼がメンフィスを訪れた当時も、ダムはペルシアの征服王権により厳重に管理されていたという。もし、このダムが決壊すれば、メンフィスは冠水してしまうはずだ、というのがヘロドトスの観察だった。現在までの考古調査では、このダムのかつての所在は確認されていない。ただ、メンフィスあたりでは、かつてのナイル川の川筋は現在より西にあったことは確認されている。
GM向け参考情報
- GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイデア・フックなど
「メンフィス(メムフィス)」の本来の古代都市名は、「イネブ・ヘジュ(白い壁)」で、ノモスも同じ名、あるいは単に「壁」と呼ばれた。
メンフィスの名は、おそらく古王国時代?にペピ1世?がサッカラに建立したピラミッド「メン・ネフェル」から転じて用いられるようになったもの。本来は都市やノモスの名ではなかった。
用途
メンフィスの遺跡は、カイロ周辺の遺跡内では、やや地味な部類といったイメージでいいでしょう。
ツアー・コースに組み込まれていることは珍しくないようですが、ピラミッドの類も無いため、多くの観光客は、近傍のサッカラ遺跡を訪れるついでのように脚を伸ばす感覚でいるようです。
古代エジプトの遺跡では、都市自体の遺構が遺っていないことは珍しくありません。かえって、墓域(ネクロポリス)の方に様々な遺構が遺っていることも珍しくなく、メンフィスとサッカラとの関係も代表例と言えます。
メンフィスをメイン目的に訪れる人は、よほど古代エジプトに興味のある人、と言えるでしょう。ギザの大ピラミッドやルクソールと比べると、ややのんびりした雰囲気の観光地、と想定して構わないと思えます。
導入などに使い、シナリオのメイン・プロットに絡めていく仕掛けを工夫する場合に適したロケーションでしょう。
遺跡へのアクセス
遺跡自体へのアクセス
メンフィスの遺跡(アァキァレァヂカル・サイト・オブ・メムフィス)とサッカラの遺跡?とは、「メンフィスとそのネクロポリス?」として、1979年以降、ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録されている。
カイロにも近いメンフィスの遺跡群は、行き届いた管理下にあり、観光化されている。主要遺跡のプタハ神殿址はフェンスで囲われ、一般の観光客はチケットを購入して入場する型。
アクセス・ルート
カイロ市内からバスで1時間ほど。ギザ市から自動車で15分ほど。
他に、ナイル川西岸を通る基幹鉄路から、西方のバフレイヤ・オアシスに至る支線鉄路が経由している。
遺跡の周辺環境
主要遺跡の1つ、プタハ神?神殿址は、ナイル川西岸の小さな農村、ミット・ラヒナ村の東部に、一部重なるように存在。村域の南東に接している。
村域は、概ね東西625m、南北275mほど。村域の南東区画にプタハ神殿址が食い込んでいるような位置関係にある。
もう1つの主要遺跡、末期王国時代の宮殿址は、村の北方に位置。
遺跡の規模と構成
ミット・ラヒナ村と主要遺跡とは、凡そ1km四方ほどの地域内に存在。
- プタハ神殿址
- かつての神殿区画は、概ね500m×675mほどに渡っていた。神殿はほとんどが遺なわれ、現存するのは基礎や敷石の1部。敷地跡は、フェンスで囲われ、一般観光客はチケットを購入して入場する型。
- 神殿跡の中央を南北方向に縦断する道、北寄りを東西に横断する道などが設けられている。区画南寄りで、ラムセス2世?が建立した巨像、アラバスター製のスフィンクス、ラムセス2世の立像、聖牛アビスの解剖台などが常設展示されている。
- ラムセス2世の巨像 全長15mほど。足首から下が破損した巨像が、保護目的の建物内に横たえられたまま展示されている。一般観光客は、吹き抜けの2階に設けられた回廊から、巨像を見下ろすように参観する。かつて2体1組で建立されていた巨像のもう1体は、現在、カイロ?のラムセス中央駅前に立てられている。
- アラバスター製のスフィンクス 体長8m、高さ4.25m。推定で80tと言われるスフィンクス?像。屋外に展示されている。建立時期は定かではないが、新王国時代?の第18王朝?頃と言われている。かつては2体1組でプタハ神殿に奉納された、と伝えられるが現在は1体が遺るのみ。
- ラムセス2世立像 高さ7mの立像。現在は、修復され発見された位置の屋外に立てられれている。なぜか、上エジプト王位を象徴する冠のみを被った姿。あるいは、かつては対になる立像があり、そちらは下エジプト王の冠を被った姿だったのかもしれない。
- 聖牛アビスの解剖台 プタハ神殿に奉納される聖牛のミイラを作成した石の台。アラバスターの1枚岩で作られている。サッカラの遺跡?から発掘された聖牛のミイラは、ここで作成された、と目されている。
- プタハ碑文 末期王朝時代にプタハ神に奉納された碑文。上端が半円状になった「ステラ」と呼ばれるタイプの石碑。メンフィスでは同タイプの石碑が幾つか発掘されており、いずれも修復されている。
- 末期王朝時代の宮殿址
- 末期王朝時代から、プトレマイオス朝時代、ローマ時代に廃都となるまで使われていたらしい。概ね425m×625mほどの区画が宮殿敷地だった。
- 現状は、宮殿囲壁の土台部と敷地跡が遺る程度。ミット・ラヒナ村の北400mほどに位置。遺跡区画の北東に小さな墓域があったことが発掘で確認されている。
- その他
- メルエンプタハ宮殿址 プタハ神殿址の東側300mほど離れた場所に位置。75m×150mほどの小さな区画の敷地が遺る。
用例
活用や検討
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参照:[ホル・アハ] [アフリカ州のランド・マーク] [オシリス神] [遺跡] [タヌトアメン] [タハルカ] [カイロ市] [アポフィス] [メネス] [考古学、歴史研究の関連用語] [エサルハッドン] [ヒエラコンポリスの遺跡] [ギザ県] [下エジプト] [ナイル川] [ナイル・デルタ] [上エジプト] [アメンエムハト1世]