ニムルドの遺跡
追加情報
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値10〜12」
- やや詳しい情報 アラビア語による遺跡の現在名は、「ニムロド(Nimrod)」。これは、ユダヤ教聖典(『旧約』)の物語でバベルの塔?の建造を命じたニムロデ王のアラビア語名。
- 古代アッシリア語による古代都市名は、「カルフ」。ユダヤ教聖典(『旧約?』)に基づく遺跡名が、「カラーの遺跡」。
- アッシュル・ナツィルパル2世の代に、王宮、囲壁、他が建造された。以降、
サルゴン2世の代に、ドゥール・シャルルキンが造営され、遷都されるまで、およそ150年ほどの間、アッシリアの王宮所在都市だった。
- 王宮が所在した間は、古都アッシュル?と並び、アッシリアの軍事的首府として機能した、と言われる。
- 2005年現在、イラクの暫定世界遺産リスト(当該国政府の考える公式の世界遺産候補リスト)に挙げられている。
- 小辞典版推奨判定
- 「交流+知性 目標値10〜12」「表現+知性 目標値12〜14」
- やや詳しい情報 イラク周辺のアラブ人の間では、「ニムルドの遺跡では、ニムロド王が、族長アブラム(アブラハム?)に無理難題を命じようとした」と言った伝承が広く信じられている。この伝承は、ユダヤ教聖典(『旧約?』)にも、『コーラン?』にも見られない。
- ただし、同じような伝承は、ニムロド王に創建されたとの伝承を持つ他の都市遺跡でも言われている。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値12〜14」
- 詳しい情報 カルフは、紀元前13世紀、アッシリア王シャルマネセル1世? に創建された都市。アッシュル・ナツィルパル2世が、軍事的首府に定めるまで重要ではなかった。彼が着手した王宮区画や市壁外の市街の拡張事業は、息子のシャルマネセル3世らの諸王に受継がれ完成された。
- カルフ(ニムルド)への王宮移動により、アッシリアは、まず、ティグリス川沿いの南北の交易路と、大ザブー川沿いの東方との交易路に支配権を確保。ついで、西方に勢力圏を広げることで、東西南北の交易路を支配。前後した帝国期アッシリアの勢力拡大の基盤を得た、と考えられている。
【参照イメージ】
(ニムルドの遺跡西区画遠景)
(遺跡南西区画遠景)
(ASSYRIAN INTERNATIONAL NEWS AGENCY)- Nimurud(6 PLUS)
(ニムルドの遺跡景観)
(ニムルド遺跡のジッグラト?址)
(遺跡南西の宮殿区画で保全されている宮殿入り口跡)
(南西宮殿区画で部分修復されている王宮址)
(南西宮殿区画で部分修復されている宮殿址)
(Oxford University Computing Service)- ニムルド遺跡(日本国外務省サイトの、イラクの文化遺産)
- Nimrud Thumbnail Images(The University of Chicagoの、THE ORIENTAL INSTITUTE)
【参照地図】
GM向け用参考情報
【参照イメージ】
【参照地図類】
(遺跡地域アウトラインと南東区画外略図,ASSYRIAN INTERNATIONAL NEWS AGENCY)- ニムルドの遺跡、南西区画地図(i4i)
- アッシュル・バニパルの王宮址、クリッカブル平面図(MESOPOTAMIA)
(王族墓所の所在図)
(王族墓所見取り図)
(王妃ヤーバの墓所写真)
(ASSYRIAN INTERNATIONAL NEWS AGENCY)
用途
ニムルドの遺跡は、シナリオに応じて料理法の幅は広いと思われます。代表的な用途としては――
- NPCによる再調査隊の警護自体が、PCチームのオープン・ミッションとなる。
- 陰謀組織や、あるいはシャドウ・ウォーズに脇から関ってしまうNPCの非公然探索、調査の舞台
- ミッションの焦点となるオーパーツの手がかりが与えられる、シナリオの1舞台
- オーパーツの、超常パワーが解放されるきっかけを秘めた特別なスポット
――などが、考えられるでしょう。
やや凝った仕掛けとしては、北にあったウラルトゥ王国、南にあったバビロニア地方?、東方の山岳民族、西方のシリア・パレスティナ?と関係する遺物を、ニムルドと絡める料理法も考えられます。
例えば、陰謀組織によってニムルドから盗掘された遺物が、東西南北いずれかの遺跡に持ち込まれると何か異常な自体が引き起こされる可能性が生じる、と言った仕掛けなど。
遺跡へのアクセス
遺跡自体へのアクセス
2005年現在、一帯の治安担当は米軍。
暫定遺産リストに載っている遺跡なので、現イラク政府、及び、ISF?(イラク保安部隊)や米軍も配慮していると想定。
正規の調査には、当然、事前許可を必要とするが、短時間立ち寄る検分程度なら、シナリオの都合に併せて処理してもいいだろう。
遺跡への立ち寄りが長引くようなら、考古当局の嘱託を受けた地元民の監視人に誰何されるとか、ISFの警邏隊が巡回してくる、程度の処理が妥当な線。
アクセス・ルート
距離的に至近の町は、ニナワ県?のシューラー(人口不詳、10万人未満級)で、遺跡の西南西22kmほどにあたる。しかし、シューラーからは、ティグリス川を渡河しなければ遺跡に到達できない。シューラーから遺跡に直行できる地上ルートはなく、自動車などでは大回りが必要になる。
地上路で遺跡に至る簡便なルートは、おそらく、モスル?から、キルクーク?に至る主要地方道を用いるルートだろう。
道路が大ザブー川と交わる地点の北で西方に外れ、川沿いに5km強ほど進むルート。川沿いの南側には地方道が敷設されているが、北側には農道程度しかないと想定。
モスルから45kmほど、キルクークから108kmほど地方道を進んだ後、西に折れる。あるいは、モスル 〜 キルクーク のルート上で、キルクークから68kmほどに位置するディバゲ(人口不詳、10万人未満級)も、遺跡に向け地方道を外れる地点まで38kmと近い。
遺跡の周辺環境
未確認ですが、大ザブー川とティグリス川とが合する位置、との立地から、周辺は農耕地で、一角に遺跡地帯が遺っている、と想定します。写真などを見ると、遺丘状に周囲より1段小高くなっているようです。
遺跡の周辺は農耕地に囲まれ、主に麦畑、ナツメヤシなどが栽培されていると想定。
遺跡の規模と構成
全長7.5kmの城壁がほぼ方形の街区、およそ360haを囲んでいた。
街区南西の区画に盛り土がされ、内城が築かれた。この地域には、代々の王宮遺址や、かつてのジッグラト?が半ば以上崩れた[遺丘?が遺っている。
街区の南東には、シャルマネセル3世の代に築かれた建物の遺構で、現在「要塞」と通称されている建造物址も存在。
かつては、街区や内城まで運河が開削されていた。同運河は、王都周辺での農耕にも利用されていた。
- 南西区画の内城
- 市域南西で南北700m×東西500mほどの区画。
- アッシュル・ナツィルパル2世は、この区画の北西部にジッグラト?、ニヌルタ神?の神殿や宮殿(現在北西宮殿と呼ばれている)を隣接して建造。
- 後に、アダト・ニラリ3世?が、現在「西宮殿」と呼ばれる宮殿を、ティグラト・ピラセル3世が現在「中央宮殿」と呼ばれる宮殿を、エサルハッドンが「南西宮殿」と呼ばれる宮殿を、それぞれ建てた。
- これらの宮殿址は、堆積が掘り下げられ、基層部分構造が露呈。一部に部分的修復がなされている。
遺跡の来歴
カルフは、紀元前13世紀、アッシリア王?シャルマネセル1世? により創建された。
紀元前9世紀に、アッシュル・ナツィルパル2世が、王宮を移すまでは重要ではなかった。
後、アッシリア王の王宮は、カルフ(ニムルドの遺跡)から、ドゥール・シャルルキンへと移された。
紀元前7世紀、王宮が、さらに、ニネヴェ?へ移った頃から、カルフは衰退しはじめたが、多数の住民が居住し続けた。
B.C.614年、メディア、新バビロニア連合軍の略奪を受け、滅亡。
ニムルドの遺跡は、モスルに滞在していたU.K.(連合王国)の A.H.レイヤード?らが、『聖書』に記されたニネヴェの遺跡を求めて、1845年〜1847年に発掘した。
当時、ラマッス像1体の頭部が、一部、遺丘状になっていた土地から露呈していた、とも言う。現地住民の間では、地中に遺跡が存在しているだろうことは知られていたようだ。
当時地域では、「ニムルド」という地名が、「ユダヤ教聖典(『旧約』)に記されたノアの子孫ニムロデ王と関係する」との伝承が伝えられている。一説には、レイヤードがこの地を調査したのも、この伝承を聞いたため、とも言われる。
発掘には、当時「第3種文字」と呼ばれていたアッカド語?の研究者、ローリンソンが協力していたため、遺跡がニネヴェではなく、カルフの遺跡であることは、発掘後ほどなく解明された。
この発掘では、各宮殿の門の守護像ラマッス?など、13対26組が発掘された。レイヤードは、この内2体1対のラマッスを多量の出土遺物と共に、ブリティシュ・ミュージアム?(大英博物館)に移送。同博物館が、収蔵するメソポタミア出土品は、質、量共に一躍ルーブル?を抜くことになった。
その後、1949年からのU.K.隊(M.マロワン,D.オーツら)による再調査など、現在に至るまで、数次の発掘が繰り返されている。しかし、遺跡地帯の全容が解明されたわけではない。
例えば、1988年〜1989年、イラクの調査隊が発掘をおこなった際に、既に発掘されていたアッシュル・ナツィルパル2世の「北西宮殿」から、未盗掘の王族の墓所3基が発見された。
この内、1基はアッシュル・ナツィルパル2世の妃の墓と同定された。他の1基は、ティグラト・ピラセル3世の妃の墓と推定されている。これら王妃の墓所から出土したのが、俗に「ニムルドの秘宝?」と通称される宝飾品類だ。
主な出土遺物
何と言っても、ブリティッシュ・ミュージアム(大英博物館)に収蔵されているラマッス?像や、通称黒のオベリスクが有名。他にも、同博物館収蔵のアッカド語?粘土板文書には、カルフ出土の物が多数ある。
- 黒のオベリスク くろのオベリスク(シャルマネセル3世の黒色オベリスク)
- 19世紀に、カルフの遺跡(ニムルド)で発掘された、古代アッシリア?の遺物。 「 シャルマネセル3世の黒色オベリスク」とも。
- U.K.(連合王国)のブリティッシュ・ミュージアム(大英博物館)収蔵。
- ニムルドの秘宝?
- 1988年〜1989年の調査で、新たに発見された王族墓所から出土した遺物類。宝飾類が有名だが、石板碑文も出土している。
- 宝飾類は、冠、首飾り、耳飾り、腕輪、指輪、アンクレット、化粧箱、銀製の鏡、金製の皿、壷、など、多種に渡る。
- 2002年、イラク戦争に祭して米軍がバグダードに侵攻した時、バグダード考古博物館が掠奪あい、ニムルドの秘宝も行方知れずになったか、と話題になった。直後に、国営銀行の地下金庫に保管され簒奪を免れていた、と明らかにされた。
【参考資料】
別称類
アッシリア語による、古代都市名は「カルフ」。
ユダヤ教聖典(『旧約』)には、「カラ」、又は、「カラー」と記されている。
アラビア語による遺跡の現在地名は、「ニムロド」。「ニムロデ」は、欧米語的な読み。
ラテン語によるニムルドの古称は、「ニヌス」。
用例
活用や検討
活用
重要な改訂の情報
- 内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。
(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) - 追加調査で、地図やイメージ・ソースのリンクを増やしました。(2006年6月25日)
- 2006-10-15 (日) 04:35:15 鍼原神無 : ニムロド王についてのアラブ伝承を少し付けたし、資料を少しだけ増やしました。
検討
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参照:[アッシュル・ナツィルパル2世] [シャルマネセル3世] [アーティファクツやオーパーツ・ソース] [遺跡] [エジプト誌] [アッシュルの遺跡] [黒のオベリスク] [ニネヴェの遺跡] [ドゥール・シャルルキンの遺跡] [アダド・ニラリ3世]