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キュレーネの遺跡

キュレーネの遺跡 (Archaeological site of Kyullene)

PCが予め知ってていい情報

 「キュレーネの遺跡」は、社会主義人民リビア=アラブ共和国?キレナイカ地方で、地中海南岸近に位置する、グレコ・ローマン系古代都市の遺跡

 1982年以降、ユネスコ世界遺産に登録されている。

追加情報

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「歴史+知性 目標値10」
やや詳しい情報 古代ギリシア系の入植者が建築した都市が、ローマ属州に併合され、ローマ風に改築された遺跡。キレナイカ丘陵北縁の小高い丘に位置。
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「情報+知性 目標値10」
やや詳しい情報 社会主義人民リビア=アラブ共和国?は、1991年に国連の経済制裁措置を被ってから、事実上の鎖国状態に近い状態が続いていた。
 1982年にユネスコ世界遺産に登録された遺跡も、長年、専門研究者にのみ開かれた状態だったが、1999年の制裁措置「停止」以降エジプトを手本にしているとも言われる観光化政策が採られるようになってきている。
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「交流+知性 目標値10」
やや詳しい情報 社会主義人民リビア=アラブ共和国?は、イスラム的社会主義を唱える1党独裁体制にあり、イスラム諸国の内で最も厳しく戒律が護られている国の1つ、とされている。
 開放的な政策への方向転換も言われているが、今後どうなっていくかは、2005年現在では不明。

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「歴史+知性 目標値12」「情報+知性 目標値14」
詳しい情報 遺跡は、キレナイカ丘陵北縁の小高い丘に位置。古代にペンタポリス(5都市)と呼ばれた同系都市の中心都市で、「古代キュレーネ王国」の王都として栄えた。
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「歴史+知性 目標値12」「表現+知性 目標値14」「言語+知性 目標値14」
詳しい情報 「キュレーネ」の都市名は、アポロン神]に所縁の[[ニンフ?キュレーネの名に由来。ちなみに、都市名がキレナイカ地方の語源となった。

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「歴史+知性 目標値14」
専門的知識 古代伝承では、キュレーネは、すでにギリシア化していた時代のティラ島?からの移住者が建設した、と伝えられている。そのためか、古い時代から王国体制が続いたらしい点が、ギリシア系古代都市の内では特異。
 ちなみに、古代キュレーネ王国?アクロポリスとして、はじまったと思える遺跡の規模は、ギリシア系古代都市のアクロポリスとしては、最大規模のものの1つ。アテネのアクロポリス?やシラクザ?のアクロポリスに匹敵する敷地面積を有す。
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「表現+知性 目標値14」
専門的知識 プトレマイオス朝時代に、地域に流布した伝承では、ニンフキュレーネは、リビア(この場合、ナイル・デルタより西の地中海南岸を漠然と指した古代地域名)を荒らしていたライオンを素手で打ち倒し、ポセイドン神?の子でリビア王だったエウリュピュロス?から土地割譲を受けて、キュレーネ市を創建。この地で2人の息子アリスタイオス?と、アントゥーコスとを出産した、と伝えられた。
 あるいは、キュレーネは、ギリシア本土からリビアに渡来する途上、立ち寄ったクレタ島?で狼の姿のアポロン神(狼のアポロン?)と交わり、子種を受けた、とも言う。
 これらの物語は、ヘシオドス?やピンダロス?が編纂しながら再話したギリシア神話からすると異伝にあたる。

GM向け参考情報

記事内容追加調査中の暫定版です

用途

 キュレーネの遺跡に遺る遺構群は、ローマ時代の物で、紀元後のものです。遺跡地帯の地中に、未発掘の何かが遺されている、とフィクション設定してプトレマイオス朝?や、古代クレタ?、ティラ島?と絡める料理法が考えられます。

 至近に位置する古代キュレーネ王国?の海港、アポロニアの遺跡 (マルサ・スサ)と絡めるシナリオもおもしろいと思います。

遺跡へのアクセス

遺跡自体へのアクセス

 「追加情報」にあるように、キュレーネの遺跡は、長い間アクセスしづらい遺跡でしたが、近年観光化政策が採られています。関連情報は、ネットで検索してみてください。

 ただし、観光化政策と言っても、当面はエジプトやローマの遺跡のように、多数の観光バスがひっきりなしに発着するような状態には無い、と想定していいでしょう。至近の地方都市から、1時間に1本ペースで観光バスが運航されている、と伝えられています(1999年時点の情報)が、普段はガラすきと想定しておきます。(社会主義体制の国なので、国営なのでしょう)

 遺跡地帯には、遺跡と観光客の保護(及び監視)を目的とした、警備隊と遺跡管理人とが常駐と想定。

アクセス・ルート

 遺跡の南南東で、キレナイカ丘陵の窪地(緩い渓谷部)に位置する地方都市アル・バイダ(人口不詳、10万人未満級)から、日中、1時間に1本程度、観光用バスが運行されている(1999年時点の情報)。

 アル・バイダは、ベンガジ?から、リビア - エジプト国境の町、ウンムサアド(人口不詳、10万人未満級)に至る基幹道路の上に位置。ベンガジの概ね北東175kmほどに位置。アルバイダ、遺跡間は、緩やかな山道が10km強で至近。

 遺跡へのアクセス・ルートとしては、――

  • 空路か海路かでで、ベンガジからリビアに入国 → 陸路でアル・バイダへ → アルバイダから、山道を陸路遺跡へ。
  • エジプトから、地中海沿岸の国境ゲートを越えリビア領へ入国 → 陸路でアル・バイダへ → アルバイダから、山道を陸路遺跡へ。

――他、が考えられる。

VTOLやヘリコプターでの直接アクセス
 キュレーネの遺跡は、石作りの遺構が多数遺る。おそらく多くの人が「遺跡」と聞いてイメージする古代ギリシアの典型的な都市遺跡に似た景観。
 リビア当局の承認が得られれば、リビア国内から、遺跡地帯の外縁に直接離着陸しても無理はないでしょう。丘陵地帯の頂部付近に位置するので、離着陸の判定目標値は「やや困難 11〜13」を基準値とする程度でしょうか。
 リビア国外から飛来し、直接遺跡近傍に離着陸するには、リビア当局との高度な事前折衝が必要、と考えます。財団を介した交渉か、アルカードまたはΩゾディアック・メンバー特技を使用した場合には、可能でしょう。

遺跡の周辺環境

 リビア沙漠の北外縁部でキレナイカ丘陵の海抜600mほどに位置。気候帯は、地中海性気候?。オリーブなどの樹木が散在する背の低い草地の間に、石材が敷かれた道や石作りの古代建造物の遺構が見られる。

 都市国家としての、古代キュレーネ王国?の領域は、遺跡から北方に見下ろせる古代の港町アポロニアの遺跡(マルサ・スサ)や周辺に散在する都市(ペンタポリス)も含んでいた。

遺跡の規模と構成

 現在遺るキュレーネの遺跡領域は、西北西 〜 東南東方向に傾いた長辺1400m弱×550m強の矩形に、欠ける部分、突出した部分を持つ不整形な市域からなる。

 この領域は、古代キュレーネ王国のアクロポリスとして建築された物が、ローマ属州時代に一度、対ローマ反抗で破壊され、その後、再建されたもの。
遺跡の構成
 現在の遺跡地帯、北西部にアポロン神殿を中核にした一角が遺る。この区画が、古代都市キュレーネのアクロポリス中核部で、かつてはアポロン神?の神域とされた。
 アポロンの神域の東南東に隣接して、やや小高いシャッハートの丘に、新市街の遺跡が遺る。この区画は、古代キュレーネ王国が発展した後に開発された区画。現在の遺跡地帯のほぼ中央にあたる。丘の裾野が楕円形に石材が敷かれた道で囲まれ、遺跡の各区画に向かう道に連絡していた。
 アポロンの神域と、シャッハートの新市街との南方、遺跡領域の南部が、古い時代に公共施設が建てられていた区画が存在。この区画の西寄り半ばに、古いアクロポリス跡が知られている。おそらく、この地点が、ティラ島からの移住団が入植した当初の神域跡かと思われる。
アポロンの神域
 180m×180mほどの区画の中ほどにアポロン神殿址が遺る。現在は、アポロン神殿址の東方に隣接して、建築物が密集していた区域の跡が発掘されている。
アポロンの神殿址 アポロン神殿址は、30m×20m程度の石作りの基台の上に、一回り小さな床面がやはり石作りで組まれている。モザイクの紋様で飾られた床面を取り巻いて円柱が遺り、天井は遺っていない。円柱の過半は、遮蔽度1〜3程度の基部〜下部が遺るのみ。残りの円柱20本弱の内、10本ほどは中ほどで折れていて、遮蔽度5〜8。頂部までは遺る円柱は、10本としておく。
その他 神殿址東方の区域には、トラヤヌス帝?の時代に築かれたローマ式浴場?の跡が遺る(10m×40mほどの広さ)。その周辺を取り巻くような建築物跡は、遮蔽度1程度の基台部のみがかつての様相を示す程度、と想定。
 アポロン神殿址の北西方向、80mほど離れた位置(先に挙げた神域の北西隅の外れにあたる)に、直径50m強のローマ式円形野外劇場址が遺る。これは、ハドリアヌス帝?時代に、かつてのギリシア式劇場跡に建てられたもの。
シャッハートの新市街
 ローマ帝国時代の上層臣民の居住区と想定。遮蔽度1〜2程度の基台部が遺るのみ、と想定。
遺跡南部区画
 遺跡南部区画には、遺跡外周から250m前後〜70m程度の間隔を置いて、古い時代の囲壁跡が遺る。遮蔽度1〜3程度に崩れた石積みの囲壁跡が断続、と想定。囲壁は、遺跡の西端で、遺跡外周に併せて屈曲。北端が、アポロンの神域区画外れで、野外劇場の外縁部まで至っている。囲壁跡の東端は、遺跡地帯外周に至って途切れている。
 現在遺る遺構は、ほとんどがこの囲壁跡の内側(北側)に存在。
フォーラム跡 シャッハートの丘の南側、丘外周を囲む小径と、囲壁との中間、遺跡南部区画の中ほどに、フォーラム(公共広場)跡が遺る。これは、古代キュレネー王国時代のギリシア型広場(アゴラ?)が、ハドリアヌス帝?の時代にローマ式フォーラム?に改築されたもの。大ギムナジウム、大フォーラムなどの好況建築跡が、この小フォーラムを囲むように隣接している。
大ギムナジウム 古代キュレーネ王国が、エジプトのプトレマイオス朝?の属国化した後に、建てられたギムナジウム?。キュレーネの大ギムナジウムは、ローマ時代に「カエサリウム」と呼ばれた。
 フォーラム跡の西側に面した南北50m弱×東西50m弱ほどの敷地で、南縁が囲壁跡に隣接(東西、南北と書いた敷地は、実際は遺跡南縁に平行した囲壁に沿って、西北西 〜 東南東方向に傾いている)。区域には、屋外運動場と付属施設の跡が遺る。付属施設跡は、遮蔽度1〜2程度の基台部のみが遺ると想定。
大フォーラム ローマ時代に新たに建造された本格的なローマ型フォーラム?
 フォーラム跡の南東方向にある東西140m弱×南北90mほどの敷地で、南縁が、囲壁跡に近接(東西、南北と書いた区域は、実際は遺跡南縁に平行した囲壁に沿って、西北西 〜 東南東方向に傾いている)。
 大フォーラムは、モザイクで飾られた床面が、回廊で囲まれた屋外広場だったと想定。回廊部には屋根が落ちた後の円柱群が残存と想定。円柱跡の遮蔽度などは、シナリオの都合に併せて設定することを推奨。
バシリカ公会堂跡 フォーラム跡の南方で、東西50m弱×南北25m強の敷地にバシリカ公会堂跡が、囲壁跡に隣接して遺る(東西、南北と書いた区域は、実際は遺跡南縁に平行した囲壁に沿って、西北西 〜 東南東方向に傾いている)。
 バシリカは、石作りと想定。モザイクで飾られた床面がが2列の列柱で、3区画に区分されていたタイプと想定。屋根は落ち、列柱は、外周のものも含め、遮蔽度1〜3程度で残存と想定。
小ギムナジウム跡 古代キュレーネ王国時代のギリシア式ギムナジウム?跡。フォーラム跡からはやや離れ、シャッハートの丘の外周小径南東に面し、東西25m前後×南北10m弱の狭い敷地が遺る。これは、古代キュレーネが破壊された後再建されなかったと想定し、運動場跡と、付属施設の基台(遮蔽度1)のみが発掘され地表に露呈、と想定。 
旧アクロポリス跡 アポロンの神域の南で、囲壁跡に隣接した南部区画に、ごく小規模な「アクロポリス跡」と伝えられる地点が遺る。ただし、基台も含めて遺構らしい遺構は発見されていないようだ。とりあず、石碑が発掘された、とフィクション設定しておく。
 この地点に、入植者がキュレーネと呼んだ精霊(ニンフ?)の泉があった、とフィクション設定してもおもしろいかもしれない。

遺跡の来歴

 古代の歴史伝承では、B.C.630年頃、ギリシア化していたティラ島?が飢饉に襲われた際、デルフォイ?を訪れて得たアポロン神?の神託で、バットス?に率いられた数百人の移住者がリビアの地に入植。精霊を宿した泉が湧く地にアクロポリスを建設し、アポロン神に所縁あるニンフキュレーネの名を採って、古代都市キュレーネが創建された、と伝えられている。

(ヘレネス?(ポリス時代の古代ギリシア人)は、アフリカの地中海北岸で、ナイル・デルタより西方を漠然と「リビア」と総称していた。現在のリビアの地域とは異なることに注意)

 伝承では、バットスは古代キュレーネ王国の初代王として40年間統治したと伝えられる。バットス率いる移民団の入植は、ティラ島島民の間に広まったドモリ(なんらかの神罰か?)が、移住をすれば直る、との神託を得たため、と伝える異伝もある。

 考古学調査では、古代キュレーネ王国は、まず、穀倉地帯として発展。沿岸部にアポロニアの港湾が設けられた。これは、クレタ島?を中継点とした古代交易で栄えたものと推定されている。B.C.600年頃んぽ都市域には、一説に推定20万人とも言われる居住が見積もられている。この事から、B.C.630年頃の移住や、初期入植者の規模について、古代伝承を疑問視する意見もある。

 B.C.331年、古代マケドニア?のアレクサンドロス3世?が古代エジプト?に侵攻した際、キュレネー王国は莫大な進物を贈呈し、友好関係を結んだ。その後、エジプトのアレクサンドリア?を王都に、プトレマイオス朝?が成立してからは、キュレネー王家は、まず、プトレマイオス朝との婚姻関係からはじまり、徐々に属国化していった。

 遅くとも、プトレマイオス朝時代には、古代都市キュレーネは、古代キュレーネ王国に属した、5都市(ペンタポリス)の中心都市として栄えるようになっていたようだ。

B.C.96年
 プトレマイオス王朝が、古代キュレーネ王国をローマに割譲。
B.C.74年頃
 ローマの属州キュレナイカが創建された。
2世紀初頭
 トラヤヌス帝?の代に、ユダヤ系住民を中心に、キュレネーで、反ローマ暴動が起きる。古代都市キュレーネは、この時に相当のダメージを受けた。
 その後、トラヤヌス帝?の代からハドリアヌス帝?の代にかけ、大々的に復興され、現在の遺構群が再建された。
4世紀頃
 古代ローマ帝国の東西分割に前後した内乱の影響か、都市キュレネーは4世紀頃までに衰微。その後、放棄され、忘れられていった。
18世紀
 遺跡は、18世紀に西欧人によって発見されたことになっている。
 あるいは、西欧人による“発見”の前から、遺跡の存在は地域のベドウィン?らに知られていたが、顧みられていなかった、とフィクション上の想定をしても構わない。

主な出土物

別称類

 「キュレーネ」は、古代ギリシア語による古代風の呼称。より正確に古代風に発音すると「キュレーネー」。ただし、現在は、「キュレーネ」の遺跡名で、広く通用している。

活用や検討

活用

検討

  • 検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで)

更新日時:2005/11/21 21:24:43
キーワード:
参照:[キレナイカ] [ユネスコ世界遺産] [遺跡] [キュレーネ] [アフダル山地,リビアの〜] [アクロポリス] [アポロニアの遺跡]
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