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キレナイカ

キレナイカ(地方) (Cyrenaica) 暫定版

記事内容追加調査中の暫定版です

PCが予め知ってていい情報

 キレナイカ地方は、トリポリタニアフェザーンと共に社会主義人民リビア=アラブ共和国?の国土をなす歴史的3地域の1つで、現在は、沿岸部から内陸部まで国土の南東域を占めている。ベンガジ地方とも。

 概ね平坦で、現在のリビア領では最も標高の低い低地にあたる。一部には、窪地から地下水が湧出しているタイプの低地性オアシスも見られる。

追加情報

小辞典版推奨判定
「情報+知性 目標値10」
やや詳しい情報 アラビア語による正称は、バルカ地方。
 大部分がリビア沙漠に含まれる。海岸近くに存在する600m程度の微高地が、キレナイカ丘陵(アフダル山地とも)と呼ばれる。キレナイカ丘陵北部を含む地中海沿岸部は、地中海性気候による降水があるため、都市が分布。中心都市ベンガジ?
 農業が主で、牧畜も営まれる。大麦、小麦、羊毛を産出。伝統的な皮革工芸も知られる。
 1959年、エッソが油田を発見して以来、地域には多くの油床の存在が知られていた。リビアは1991年から国連の経済制裁措置を被り、油田開発も滞っていたが、1999年に制裁措置が「停止」され、開発が盛んになってきている。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10」「情報+知性 目標値12」
やや詳しい情報 キレナイカ地方には、古代ギリシア、古代ローマの都市遺跡が複数点在。「ペンタポリス(5都市)」と呼ばれていた。最大の遺跡は、ローマ時代の遺構が遺るキュレーネの遺跡で、1982年からユネスコ世界遺産に登録されている。
 ちなみに、「キレナイカ」の地域名は、古代都市キュレネーに由来。古代ギリシア語による古代風の地名で、「キュレナイカ(地方)」と言う。ただし、古代キュレナイカの領域は、地中海沿岸部に限られていたもので、現在のキレナイカ地方よりは、かなり狭かった。
 このようにキレナイカ地方は、伝統的にも地勢面からも下エジプトとの結びつきが強い地域。中世のアラブ人も、キレナイカより西、トリポリタニアフェザーン以西をマグレブ地方と呼んでいた。
小辞典版推奨判定
「魔術+知性 目標値10」「歴史+知性 目標値12」
やや詳しい情報 キレナイカ地方の沙漠地帯には、バジリスク?が棲息する、と古代ローマのプリニウス?が『博物誌?』に記している。

小辞典版推奨判定
「情報+知性 目標値12」「歴史+知性 目標値14」
詳しい情報 現在のリビア領沿岸部にあたるトリポリタニアとキレナイカ(の沿岸部)は、イタリアとオスマン・トルコとが戦った伊土戦争を経て、イタリアの植民地となった。オスマン・トルコ時代も、帝国中枢から遠いため半ば独立状態にあったキレナイカでは、スーフィー派?的なイスラム系新興教団サンスーシ教団?が反トルコ活動をしていたが、彼らはイタリアの統治に対しても激しく抵抗。第1次大戦中はドイツの支援を受けた。
 1次対戦後の1920年、イタリアは宗主下でキレナイカ王国を承認。サンスーシ教団指導者のイドリースを国王(アミール)に据えた。しかし1922年にムッソリーニ?がイタリアの政権を執ると、再度干渉が強められ、同年末、イドリースは当時U.K.(連合王国)の保護下にあったエジプトに亡命。サンスーシ教団の抵抗は、オマル・ムフタールに率いられて継続。フェザーンなど南部山岳地帯が拠点とされた。他に、ナイル川西方の沙漠地帯に散在するオアシス都市も、抵抗活動の後方基地として活用された。
 実は、この頃まで、リビア - エジプト国境は、現在のような直線的なものではなく、キレナイカ沿岸部の南で大きく西に食い込んでいた。キレナイカ王国の領土は、現在より狭く、沿岸部に限定されていた。このため、沙漠ルートの往来に慣れていたベドウィンやサンスーシのゲリラたちは、いざとなったらエジプト側のオアシスに逃げ込むこともしていたのだ。
 イタリア政府は、アングロ=エジプト政府?と交渉し、国境線を現在のような直線に変更。国境沿いにフェンスを敷設し、ゲリラたちの越境往来に備えた。キレナイカ地方に現在のような内陸部も含まれるようになったのは、この時以降のことになる。
 1931年、キレナイカとフェザーンは相次いでイタリア当局に制圧され、3年後の1934年3地域が統合されたイタリア領リビアが発足した。
 第2次世界大戦中、1942年から1943年にかけ、トリポリタニアとキレナイカはU.K.(連合王国)軍に占領された。ちなみに、U.K.の民族学者、E.E.エヴァンズ=プリチャードが、軍属の行政官としてキレナイカに赴任したのは、占領時代の1942年〜1945年のこと。
 第2次世界大戦後、旧イタリア領リビアの処遇を巡り、リビアという統合領域での独立か、キレナイカ、トリポリタニアフェザーンそれぞれ個別の独立かを巡り議論が生じた。こうした中、1949年、キレナイカ王国が独立を宣言。ただし、外交、国防、対外貿易の権限を協定でU.K.に委ね、U.K.軍基地も提供するという体制だったため、アラブ諸国をはじめ各国から非難を受けた。
 キレナイカ王国独立から、半年ほどの間に、王国の体制はU.K.の軍政下にある暫定的な自治国(キレナイカ自治国)と改められた。1949年12月、国連総会で統合リビアの独立を支持する決議がなされ、1951年、キレナイカ、トリポリタニア、フェザーンからなる、リビア連合王国が創建された。この連合王国が、軍事クーデタでリビア=アラブ共和国に移行したのは1969年のこと。

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「歴史+知性 目標値14」
専門的知識 キレナイカ地方の沿岸部は、B.C.630年に、テラ島?からの移民団がキュレナイカを建設してからギリシア化していった。後、5都市(ペンタポリス)が統合され、古代キュレーネ王国をなしたが、エジプトで、プトレマイオス朝が営まれた時代に、プトレマイオス朝の従属国になっていった。
 B.C.96年、プトレマイオス王朝が、古代キュレーネ王国をローマに割譲。B.C.74年頃、ローマの属州キュレナイカが創建された。以降、ギリシア系の都市もローマ風に改築され、現在、地域に遺るペンタポリスの遺跡で見られる遺構も、ローマ時代の物になっている。
小辞典版推奨判定
「魔術+知性 目標値14」
専門的知識 古代キュレナイカでは、紀元2世紀に、イエスの人格を否認し、イエスも造物神の仮現とするサベリウス主義が唱えられた。これは、造物神の神格を唯一とする単性論の1種だが、3世紀に、一時はキュレナイカからエジプトのアレクサンドリアにかけて、地域の教会を2分する勢いを見せた。
 サベリウス主義を唱えたキュレナイカ出身の聖職者、サベリウス?は、2世紀の終わり頃、ローマに赴き、一時、教皇の支持を得るほどだった。その後、神学的な批判を受け、サベリウスは破門。その主張は、異端とされた。
 キュレナイカに戻ったサベリウスは、支持者を集め活発に活動。キュレナイカからアレクサンドリアにかけ、古代教会が分裂状態に陥ったのはこの時期のこと。結局、アレクサンドリアの司教がローマ司教ディオニュシウスに事態収拾を請願。ディオニュシウスが召集した地方教会会議で、サベリウスの主張は再度、異端と認定された。
 しかし、サベリウス主義に見られるような単性論の信仰は、アレクサンドリアを中心とする地域に根強く残り、後代コプト教?にも影響を及ぼした。

GM向け参考情報

 沙漠地帯の環境に関する情報は、「沙漠」の項、ことに「GM向け参考情報」も参照されたし。(⇒ 沙漠

 以下には、キレナイカ地方特有の参考情報を記す。

地勢と環境

 キレナイカ地方は、リビア国内では低地と目され、概ね平坦で、南高北低の微傾斜を有す沙漠地帯が、海岸線まで広がる。(リビア領北西部にあたるトリポリタニア地方は200〜300m程度の台地。南西部にあたる、フェザーン地方は、西高東低で岩地性の台地を含む沙漠

 ただし、地域西寄りにあるスルト湾?東岸の地中海沿岸には、600m級のキレナイカ丘陵(アフダル山地とも)が存在。また、地域内、西寄りの奥地にクネイーン湖?が存在。この湖は、低地に地下水が湧き出して形成された、1種のオアシス

 土壌は、砂礫性沙漠の内に、面積の広い砂砂漠地帯が複数存在。

 6〜10月は、日中気温が30℃〜40℃を超すこともある。ただし、沿岸部では朝と夕方とに、冷風が吹き、凌ぎ易くなる。沿岸部では、冬季に気温が氷点近くに下がることもある。

 内陸部では、冬季以外、強い砂嵐が吹くことがある。砂嵐の前後は気温が急激に上昇する。

交通路

 地中海岸に沿って基幹自動車が通り、キレナイカ丘陵では、北寄りの窪地(緩い渓谷部)を通ってベンガジ?に至る。この自動車道は、スルト湾沿岸に点在する小都市で、内陸に向かう地方道に連絡しつつ、ベンガジからさらに沿岸部をトリポリタニア地方に続いて行く。

 鉄道は、エジプト=アラブ共和国の地中海岸を通る路線が、シリア - エジプト国境まで至っている。

 ベンガジ?が、地域の主要港湾で、近傍に国際空港も擁している。

別称類

 アラビア語による正称、バルカ。

 シラナイカ、サイラナイカとも。イタリア語ではチレナイカ。

 古典ギリシア語による別称は、ペンタポリス。(キュレーネーは、中心都市の古代名)。

 ラテン語による地域名は、キュレナイカ。

活用や検討

活用

検討

  • 検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで)