スエズ運河
PCが予め知ってていい情報
追加情報
- 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
- 小辞典版推奨判定
- 「操縦+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値12〜14」
- やや詳しい情報: スエズ運河は、自然湖であるチムサ湖及びグレイト・ビター湖を経由し、全長およそ190km。有効幅200〜210m、深度22.5m。15万tまでの船舶の航行が可能。水平式運河で、通航はコンボイ(船団)を組む方式。毎日北から南に向かう南行2コンボイ、北行1コンボイが通航。
- 運河の殆どが一方通行だが、途中4カ所で対面通行が可能。
- 通行所要時間は、北行コンボイで約12時間、南行コンボイは約16時間。
- 小辞典版推奨判定
- 「情報+知性 目標値10〜12」「歴史+知性 目標値12〜14」
- やや詳しい情報: 現在は、エジプト政府の直轄組織であるスエズ運河庁によって運営されている。1956年に、エジプトの大統領だったナセルが、国有化を宣言するまで、スエズ運河会社の株式はU.K.(連合王国)とフランス共和国とに寡占されていた。
- 「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
- 小辞典版推奨判定
- 「情報+知性 目標値12〜14」
- さらに詳しい情報: スエズ湾北西部地域では、2002年にアイン・ソフナ港が開港。同港では、民間出資によるアイン・ソフナ港開発会社がコンテナ・ターミナルの運営をおこなっている。
- ポート・サイイドのシナイ半島側対岸では、東ポート・サイイド・プロジェクトの一環として開発された、スエズ運河コンテナ・ターミナルが2004年より貨物を取り扱っている。こちらは、欧州企業やエジプトの官民等の出資による。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値12〜14」
- さらに詳しい情報: スエズ運河の国有化に際し、ナセル大統領は、U.K.(連合王国)とフランスとに賠償金を支払うことを公約していた。が、U.K.、フランスは、これに応じず、イスラエル国軍と合同してスエズに出兵(スエズ動乱)。この軍事介入は、各国の非難、U.S.A.(合衆国)の干渉などを受け、短期間で休戦状態に入った。合衆国の政府当局が、U.K.政府に対し「撤兵しなければポンド貨の急落をU.S.A.が買い支えることを拒否する」と、告げたことが決定的な決め手になった、と伝えられている。1956年当時は、旧ソヴィエト連邦?は、ポーランド動乱、及び、ハンガリー動乱に対処しており外交ポーズ以上の積極的な介入は示さなかった。
- 結局、関係4カ国が休戦を結んだ後、事態は国連総会に付託された。総会では、侵略非難が決議され、国連平和維持軍の派兵が決定された。平和維持軍の派兵と前後して、U.K.、他は、撤兵。スエズ運河の運営が再開されたのは、翌、1957年のことだった。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性 目標値14以上」
- さらに詳しい情報: スエズ運河が開削されたのは、エジプトがムハンマド・アリー朝?の統治下にあった時代のこと。
- 1854年、ムハンマド・アリー?が死去し、オスマン=トルコのエジプト総督位は、息子のサイイドに継承された。これを機に、エジプトを訪れた元外交官のF.レセップス?は国賓として遇される。レセップスは、かつてカイロ副領事だった時期に、ムハンマド・アリーの息子サイイドに乗馬とフェンシングを教えていたことがあったのだった。
- レセップスが運河開削事業に着手したのは1859年。4年後の1863年にサイイドが死去。後継者のイスマイルも親仏派だったことも幸いし、スエズ運河は1869年に完工した。
GM向け参考情報
- GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイデア・フックなど
用途
スエズ運河は、シー・エクスプローラー級船舶も、楽楽通交できると思われます。
地中海から紅海へ、あるいは逆へ移動するルートととして是非、どうぞ。通行に時間がかかるので、急ぎのミッションには適さないでしょうが、海路での重要遺物移送や、国際会議に出席するNPCの警護など、いろいろ使えるはずです。
参照地図
- Suez canal 地図(Sinai 地図,Super Travel Net)
- National Geographic Society - Maps
インタラクティブ・マップ。“Suez”で検索していくといい。
流域の交通路
運河中ほどの西岸に位置するイスマエーレーヤ?からは、スエズ運河横断橋、及び、アハムド・ハムディ=トンネル(スエズ・トンネル)を越えてシナイ半島に至るルートが続いている。西岸では、カイロ?とイスマエーレヤ、イスマエーレヤとポート・サイイド?との間に基幹道路が布設されている。
トピック:過去の運河
スエズ地峡を利用した運河の掘削を計画したのは、レセップスが最初でもなければ、現在の運河が、地域で最初の運河でもなかった。
紀元前20世紀、中王国時代?、第12王朝?のセンウセルト1世?の代、ナイル・デルタで、当時のナイル支流河畔に位置した港町とスエズ湾とが、ワディ(涸谷)を利用した運河で結ばれた。
現在、イスマエーレーヤの南でスエズ運河が通じているグレイト・ビター湖は、当時、スエズ湾とつながっていた。センウセルト1世の運河は、現在のグレイト・ビター湖につながっていたのだ。このルートは、アラビア半島?の沿岸航海で、ペルシア湾やインド洋に通じる航路に連なっていた。
その後、スエズ湾が後退、グレイト・ビター湖も内陸の塩湖になった。末期王朝時代?のネコ2世?は、グレイト・ビター湖とスエズ湾との間に運河を開削した。この運河は、現在のスエズ運河の南部に相当する位置に掘削された。
プトレマイオス朝時代?には、それ以前の運河を延長する新たな運河が、ナイル・デルタに掘削され、ペルシア湾からアレクサンドリア?へナイル支流を経由した航路が開かれた。ローマ帝国がエジプトを支配した時代も、この運河は存続したが、5世紀末に西ローマ帝国が滅亡した頃から廃れはじめ、運河も堆積に埋没していった。
エジプトがイスラム支配に入った7世紀半ば、アラブ人は、ローマ時代の運河を改修。ペルシア湾からナイル経由でカイロ?に至る航路が設けられた。この運河は、19世紀頃まで運用されていはいたが、外洋航海が盛んになるに連れ、存在意義を失い廃れていた。
1798年、軍勢を率いてエジプトに侵攻したナポレオン・ボナパルトが、自ら、技術者たちを伴いスエズを訪れたことがある。目的は、スエズ地峡に運河を開削する可能性を調査することにあったようだ。レセップスの計画も、直接にはナポレオンの計画を継承したものになる。
リンク
関連項目
資料リンク
- Wikipedia英語版:Suez_Canal
- Wikimedia:Category:Suez Canal
スエズ運河についてのフリー・ファイル集アーガイブ。 - 「沙漠を貫く、船の近道:スエズ運河」2005年7月公開(EORC)
- 「エジプトの産業」(在エジプト日本国大使館)
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