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エブラの遺跡

エブラの遺跡 エブラのいせき(テル・マルディック) Archaeological site of Ebra

PCが予め知ってていい情報

 現シリア=アラブ共和国の北部に位置する古代都市国家?遺跡

 紀元前3千年紀中葉の楔型文字のスタイルによるシュメール語?記法を用いた粘土板文書(エブラ文書?)が、多量に出土。メソポタミアのウル第3王朝?の影響とも考えられている。

追加情報

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値12〜14」
やや詳しい情報 「エブラ(王国)」が古代都市国家の名で、遺跡名がテル・マルディック。現シリア=アラブ共和国の北部で、アレッポ?(ハラブ)の南75kmに位置する。
 紀元前24世紀後半〜紀元前23世紀のいずれかの時期に、アッカド王朝?の攻撃を受け滅亡した、と推定されている
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
やや詳しい情報 エブラ遺跡は、地域的にはメソポタミア地域には属さない。肥沃な三日月地帯?の縁辺に位置する。後代の事例と類比するなら、メソポタミア地域と地中海東岸地域との間の中継都市とだったろう、と推定される。
 現シリア領東部で、ユーフラテス川の平地中流域に位置したマリ王国と領土を巡って、たびたび争っていた。遺跡は、65万平方kmに渡る大規模な物で、「調査終了まで、後100年はかかる」と言われている。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値14以上」
詳しい情報 1964年以来、ローマ大学のイタリア調査隊により、数次に渡る調査が断続されている。複数の宮殿建築、他が発掘されているが、いずれも焼け落ちており、“焼き”の入った状態の粘土版文書砕片が多量に出土した。砕片の数量は、概算で1万6000点。復元作業を通じた推定では、概ね2500枚の粘土版文書の砕片と目されている。多くは、行政文書、経済文書だが、エブラ人の人名や神名を読み取れる。
 このエブラ文書が注目されているのは、古い時代のシュメール式書記法が受容されつつ、独自の使用方が模索されているため。メソポタミア文明圏での、シュメール型文明の伝播、受容の一例として注目されてる。

【参考】

GM向け参考情報

小辞典版推奨判定
「歴史+直観目標値10」
インスピレーション シュメール系キシュ王朝?の影響下に文明化した、との説がある。
 「説がある」のは事実だが、まだ充分論証されてはいない。

用途

 エブラ遺跡全域の遺跡図は、見つけだしていません。以下では、大別、次のような用途を念頭に考えていきます。

用途A  架空の遺跡図を作図してフィクションとして使用。あるいは遺跡図まで作図しなくても、GMの語りで処理など。

用途B  遺跡は、物語の承前にて扱い、セッション中はNPCによる言及だけですませる。ミッションの焦点はエブラ文書(粘土版)にあてる。

登場して唐突でないNPC
 イタリア人遺跡調査員、研究者。遺跡管理人。近傍の町の住人。ヒツジやヤギを飼う遊牧民。取材で立ち寄ったジャーナリスト。シリア政府の文化政策担当局の役人、ツアー・パックの旅行団、など。

遺跡へのアクセス(類推)

遺跡自体へのアクセス

 なんと、エブラ遺跡も観光コースに組み込まれています。

 ただし、エジプトやローマ、ギリシアの有名遺跡のように、次から次へ観光バスが乗り付け、続々と旅行団がやって来る、という遺跡ではない。これは基本設定としていいでしょう。

 遺跡地帯への立ち入りについては、シナリオに併せて多少の料理は可能ですが、発掘権はイタリア隊に認められているようです。なにしろ「発掘調査が一通り終わるのに、後100年はかかる」そうですから。

 遺跡地域には、特別な許可がない人物は立ち入れない、としていいでしょう。パック・ツアーの旅行者も、多くは気にしていないでしょうが、旅行会社がシリア当局の許可を受けたメンバーとします。

 つまり、PCに限らず、旅行者がぶらりと訪れても、シリアの考古当局、あるいは名のある博物館からの事前連絡、もしくはイタリア隊からの紹介状がなければ、遺跡管理人にやんわりと追い返される、とします。

 もちろん、以上の紹介状などは、正規のミッションなら、多少の時間がかかっても、財団の影響力で処理できる範囲でしょう。

 しかし、いきなりPCがおしかけて、財団の身分証などをみせても、どうにかなるとも思えません。よほどうまく交渉に成功したとして、遺跡管理人にに周辺を簡単に案内してもらえるか、どうか程度でしょう。

 紹介状の類なしで、出土遺構に近づかせてもらえるとは思えません。

【参考】

  • 「中央アジア中近東の旅」西遊旅行社
    ツアー・パック自体は更新されると思いますので、旅行会社のサイト内のインデックス・ページへのリンクを貼っておきました。遺跡の写真も見られます、興味のある人は参考にしてください。

アクセス・ルート

 以下では、フィクション設定として、遺跡の位置や周辺状況を推定しつつ。アクセス・ルートも検討してみます。

 世界地図上で、アレッポ?(ハラブ)の南65km地点を見てみます。シリア北西山地の内でやや小高い丘陵地にあたります。

 至近の町は、アブーダリーハ(人口、5千人〜1万人級)。遺跡の北東方5〜9km程度に位置するようです。

 至近の大都市は、遺跡の南西50kmほどに、ハマーが位置します。しかし、ハマーと遺跡の間には、ちょっと自動車では走破できそうにない岩山があります。

 結局、基本的なアクセス・ルートは次の2つが考えられます。

a案 ダマスカス国際空港を経由し、ダマスカス → ハマーと自動車で経由した後、ハマーの北で東に曲がって地方道に入り、アブーダリーハへ。→ アブーダリーハを設営基地として利用しながら、遺跡との間を往来。

b案 あるいは、トルコ方面から国際自動車道で国境を越え、アレッポ(ハラブ)を経由してハマー方面へ向かい、やはり手前で東に折れ、アブーダリーハへ。→ アブーダリーハを設営基地として利用しながら、遺跡との間を往来。

 もちろんミッションの緊急性によっては、直接アブーダリーハや遺跡近傍にVTOL類にて直行、ということもあり得るでしょう。その辺はシナリオとセッションの展開次第です。

 ただし、遺跡地帯内への離着陸は、遺跡保護の観点から原則禁止、と考えておきます。まず、間違いなく、日干しレンガが多用された遺構が多いでしょうし、現在も発掘調査が断続中ですので、遺跡の状態は脆いと思われます。

(この件は、VTOL類で遺跡に着陸してもいいか?の考え方Aを参照してください)

ダマスカス?
 現、シリア首都。アラビア語による現地名ディマシュク。シリア沙漠西縁でアンチ・レバノン山脈の東麓に位置するオアシス都市。人口、144万4千人(1994)。国立ダマスカス考古博物館が存在。紀元前3千年紀から都市が営まれていた。ウマイヤ朝時代に溯る旧市街は、1979年以降、ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録されている。
ハマー
 シリア西部の商業都市。ダマスカスと北の商都アレッポを結ぶ基幹交通路上で、ダマスカスの北180km、アレッポの南南西120kmに位置。オロオンテス川?中流域で、周辺農耕地帯の中心に立地。人口、27万3千人(1994)。
アレッポ?(ハラブ)
 シリア北部の商工業都市。トルコ方面からの国際鉄路、国際自動車道が経由し、首都ダマスカス他に通じる。北の要都である。ダマスカスの北方300kmほどに位置。人口、154万2千人(1994)。紀元前3千年紀末には都市が営まれていた。ウマイヤ朝時代のい溯る旧市街は、1986年以降、ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録されている。

遺跡の周辺環境

 シリア=アラブ共和国の北西山地の内に位置します。この山地は、基本的には岩山ですが、内陸河川流域やオアシスを中心に植生も見られます。

 かなりの部分が「肥沃な三日月地帯?」に含まれていて、やや粗放なものが主とは言え、農耕も営まれています。

 岩山の比高はさほど高くないものが多く、一部を除いて、自動車による走破を不可能とはしません。しかし、運転の難易度は高く、目標値も高めに設定すべきでしょう。時間の自動車走行をした場合は、「生存+耐久」判定をして、失敗したらマイナス状態を被る処理を提唱しておきます。

 高山地帯とまでは呼べませんが、気温自体は西アジアにしてはやや低め。ただし、乾燥気候でもあり、日射は強く、日中、日射を受け続ければ発汗で急速に水分が失われます。

 昼夜の気温差も大きく、充分な装備なしに屋外宿営すると生存判定を要す、とします。

遺跡の規模と構成

 「用途A:架空の遺跡図を作図してフィクションとして使用、あるいは遺跡図まで作図しなくても、GMの語りで処理など」の線で考えてみます。

 65万平方kmの全体が、上面が平坦な小高い丘、あるいは台地と呼ぶには大げさな高さの卓状地のようになっているテルとするといいでしょう。

 この遺跡地帯の一帯は、野草が茂り、密生とまでは言えない草地ですが、野花もみられるそうです。周辺には麦畑に利用されている区画もあるようです。

 65万平方kmという広大な遺跡地帯でもありますし、全域が発掘されているわけではない、とします。(発掘終了まで「後100年はかかる」見込みですから)

 遺跡地帯のあちこちでピット(発掘用の坑)が掘られ、丁度、半地下式の建物のように、焼け落ちた王宮などの残余が、掘られた坑の内に露呈している、とします。主要建造物だけで10前後が露呈、他に試掘用の小さめのピットが散在、とするくらいでいいでしょう。

 王宮址は複数あるとのこと。おそらく、王の代が代わるなどのきっかけで、王宮の建物が移転したのでしょう。

【参考】

王宮址(推定)

 参考図書に掲載された空撮写真を見る限り、王宮址は、長方形、及び正方形プランの内室を連接させた作りで、外壁が厚く、内壁は薄い。おそらくは日干レンガの積み上げと思われる。

 床面には段差があり、大きな広間(謁見の間?)には、数段の階段が設けられている。

 数葉の写真からは、断定できないが、廊下の類はないようにも思える。部屋から部屋へ移動してくタイプの建造物か?

 写真で見る限り、外壁全体は横長の長方形だが、屋内構造は、中心になる広間の左右に数十の小部屋が、あまり計画性なく増築されたように思える。

 日干しレンガ製なので、造築の都度、外壁も一旦部分的に崩してから延長していったのだろうか。

 王宮遺構の一角に文書庫跡があり、焼け落ちて“焼き”が入った状態の粘土板砕片が多数発見された。

 「王宮G」のコード・ネームをつけられた遺構の場合、一角の文書庫室では、各3m幅の壁面3面に3段ずつの木棚が据えられ、その内に粘土板文書が整理されていた。

 もちろん、建物が焼け落ちたさいに木棚も焼け崩れ、粘土板砕片は床に散乱した状態で発掘された。

遺跡の来歴

 エブラがいつ頃から発展し、王国の体制がいつ頃から生まれたのか。まだ解明途上にあるようだ。

 シュメールのウル第1王朝?の時代(紀元前3千年紀中頃?)と同時期、東方のユーフラテス川流域で栄えた都市国家マリと、領土を巡って何度も武力衝突していたようだ。(マリ側の記録に遺っている)

 アッカド王朝のサルゴン?大王(在位、B.C.2324年頃〜B.C.2279年頃)、及び彼の孫ナラムシン?(在位、B.C.2254年?〜B.C.2218年頃)の遠征記録に、エブラ攻撃のくだりがある。

 エブラを焼亡させたのが、どちらの王だったかという議論は、研究者の間で長い間続いている。現在はどちらかと言うと、サルゴン説の方が有力視されているようだ。

 遺跡が発見された経緯は調べきれていません。

 1964年以来、イタリアの調査隊により数次に渡る調査が断続されています。特に、1975〜76年の遺跡では、王宮Gの主文書庫と多量の粘土板が発掘され、注目を集めました。

 現在の状況下での、発掘の継続状態は調べきれていません。

出土遺物(エブラ文書)

 エブラ文書は、紀元前3千年紀中葉のシュメール式書記法が受容されつつ、独自の使用方が模索されている。

 文字の書体は同じだが、シュメール語の音だけを利用した単語と、役職名、物品名などの述語で意味もシュメール語そのままの単語とが入り交じっている。

 各国の研究者の間でも、エブラでの楔型文字システムの受容法を整理するのに、古代日本に漢字が移入された際の用法をモデルにした整理などが試みられている。

用例

 遺跡の発掘現状については、フィクションで、イタリア隊による発掘がおこなわれている、としてもいいですし、発掘の中間期で研究者は出土物の整理をおこなっていて、遺跡自体には今は調査員がいない、と設定することもできます。シナリオの都合で設定しましょう。

 リアルさを追求すると、この規模の遺跡での調査は、発掘補助員も含めると数十名か下手をすると100名前後が遺跡にいることになります。どちらかと言えば、発掘自体は一時休止の時期とした方がマスタリングは楽かもしれません。

 この場合、研究員は粘土版の復元作業を、ダマスカスの博物館を間借りしておこなっている、とするといいでしょう。

 粘土版自体の所有権は、シリア政府にあり、研究員は優先的研究権を認められたうえで、研究機関中の管理を委託されている、とします。

 すでに、復元され、研究整理も終わり、マイクロフィルム撮影などが終了した粘土版は、シリア側の博物館に引き渡された、とします。

 例えば「用途A 架空の遺跡図を作図してフィクションとして使用。あるいは遺跡図まで作図しなくても、GMの語りで処理など」で、遺跡調査自体は、一時中断期である場合。遺跡近傍のアブーダリーハにて、イタリア人研究者の1人とPCチームが落ち合う、などの設定が考えられます。

 あるいは、元々、アブーダリーバには交代で留守番係の研究者が待機していて、現地の人に遺跡を巡回してもらってる作業を監督している、としてもいいです。

 ここで考えているのは、遺跡の保全や盗掘防止の狙いのシンプルな巡回です。NET上の旅行記などを見る限りでは、遺跡地帯の一帯は、特に外国人旅行者立ち入り禁止などの措置はとられていないようですので。

(もちろん、遺跡地帯は別でしょうが、何しろ65万平方kmですから)

 巡回にはシリアの考古当局やシリア兵を絡めた方が、よりリアル感は増しますが、この辺は、シナリオの狙いに併せて調整しても構わない範囲でしょう。

 もちろん、PCチームは、一旦ダマスカスでイタリア人研究者と落ち合い、その後遺跡に移動する展開だってあります。シナリオの都合に併せてプロットを組みましょう。

 「用途B セッション中はNPCによる言及だけですませる。ミッションの焦点はエブラ文書(粘土版)にあてる」の方も、何種類かのプロットが考えられます。

 ネタとしては、例えば次のようなものが考えられます。

  • a.メソポタミアの古代都市キシュとの絡める
  • b.シリア・パレスティナ地域の古代カナン系文化と絡める
    (b.の路線では、シナリオはヘヴィーな話題にふれずにはいられません、注意してください)

キシュとは――

 キシュについては、いずれ小辞典にも詳しく説明した項目があがると期待して、ここでは最低限の説明を記しておきます。

 キシュとは、アッカド地方の中心に位置した古代都市。シュメール初期王朝時代前半に栄えたらしく、ウル第3王朝時代には、勢力の盛んな都市国家の王が「キシュの王」という称号を併用することが好まれた。この頃は、都市国家キシュは衰滅して、ただの原野になっていたと思われる。シュメール王朝表による、キシュ王朝の王統は神話的で、1560年間君臨した王や、324年間君臨した太陽神ウトゥの息子などが記されている、しかし、ほとんどの王の名がセム系である点が注目されている。古代記録でキシュ第1王朝第5代王と記されているのがギルガメシュ。1988年から、国士館大学の日本隊に調査されたが1990年の湾岸戦争で、調査は中断された。

 「キシェからエラブに伝わったオーパーツか超古代の秘密を巡って、アッカド王朝が攻撃した」なんて古代のシャドウ・ウォーズを想定してもいいかもしれません。

カナン系文化とは――

 カナン文化を担ったカナン人とは、考古学的にはフェニキア人と古代ヘブライ人との共通の祖とみなされる民族集団です。

 アラム人を追うように、シリア・パレスティナ地方の内陸部南部を生活圏にし、当初は遊牧主体の生活を営んでいました。おそらくは、アラビア半島方面から北上したと目されています。

 古代ヘブライ語は、カナン語の方言から派生した言語であり、文字もカナン文字との類縁関係が確認されていますので、カナン文化から、ヘブライ文化が派生したことは確実です。

 しかし、専門研究者の内にすら、古代ヘブライ人はメソポタミア方面から移住して来た、という聖典に記された伝説に基づいた線での主張を譲らない人は少なくありません。

 また、ユダヤ教聖典(『旧約』)の記述によれば、カナン人とは、古代ヘブライ人がカナンの地に到達する以前の先住者で、造物神がカナンの地から駆逐するよう命じた種族です。原理主義的なユダヤ教徒にとっては「ヘブライ文化がカナン文化から派生した」という指摘は、事実として受け入れ難いもののようです。

 一方で、反シオニズム的な政治勢力の間には、古代カナン文化と古代イスラエル文化との連続性を過大にとらえ、ほとんど一体視している人々もすくなくありません。

 こうして、幾つもの悲喜劇が生じています。

 エブラ遺跡での粘土板文書大量発見の直後、「カナン系文化との関係」を真っ先に指摘した研究者がいました。イタリア人学者のジオバーニ・ペティナートです。

 伝えられるところでは、彼は「文書の中に古代イスラエル文化の一端がかいまみられる」と発言したそうです。これはいささか大胆な発言ですし、マス・メディアで大きく取り上げられたのも不幸でした。

 シリア政府はこの報道に反応し、イタリア調査隊に、発掘権取り消しの可能性まで含めた政治的圧力をかけた、と言われています。結局、ペティナートは調査隊から除名され、イタリア隊は、シリアでの調査を継続しました。

 現在では、エブラ王国と古代カナン文化の間に、影響関係を想定することは、研究者の大勢の間では常識とすら言われています。

ソース案

 例えば、復元された粘土版の内に神聖言語が刻まれた物があったとします。

 精神汚染を被った研究者NPCが1人、復元された粘土版と共に姿を消してしまいました。

 彼は、精神汚染によって、神聖言語の命じる命令を、自らの使命と受け止め、何か謎めいた行動ととっているのですが。この辺のことは、冒険が進むまで、他のキャラクターにはわかりません。

 粘土版は、数年の期限付きの管理を、イタリア隊がシリア政府から委託されている物です。

 窮地に追い込まれたイタリア隊隊長は、とうとうローズ考古学財団に頼ります。

 PCチームの出番です。

 PCに下されるオープン・ミッションは、できるだけ目立たぬよう、シリア当局にも気づかれぬよう速やかに、行方不明の研究者を探し出し、身柄と粘土板とを確保すること、です。

 ある期限を設けて、期限以内に確保できないと、イタリア隊がシリア当局に、行方不明研究者の存在を「誘拐された可能性がある」といった曖昧化した線で告げることになってる、としても面白いでしょう。

 あるいは、イタリア隊も真剣に誘拐の線も考えていて、そこに陰謀組織を絡めてもいい。

 もちろん、オープン・ミッション発令時、財団側には、持ち去られた粘土版に神聖言語が刻まれていた可能性など知りようがありません。ですから、PCチームにも探索、救出ミッションの変則指令としてミッションがくだされます。

 財団関係者で、オープン・ミッション発令時になんらかの予想を持てる人物がいるとしたらゾディアック・メンバーの美蘭くらいでしょう。

活用や検討

活用

検討

  • 検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで)

更新日時:2005/12/10 03:26:42
キーワード:
参照:[マリの遺跡] [シリア=アラブ共和国の諸地域] [遺跡] [シリア=アラブ共和国] [アッシュルの遺跡]
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